娘が婚約破棄されたので、今後の処遇を検討します
「あなたは、娘が婚約を破棄されたと聞いて、最初に何をお考えになったのですか?」
妻のマルガレーテが執務室に入ってきたのは、オスヴァルト・エーレンベルク侯爵が、東部の関税表に赤を入れている最中だった。
「王家との関係だ」
オスヴァルトは、ペンを止めずに答えた。
「今後の政治的な影響を考えれば、来月の会議で関税案を出すのは見送るべきだろう。派閥の連中にも、根回しをやり直さねばならん」
「そうではございません」
「……娘の処遇も考えている」
「なるほど」
マルガレーテは、たいへん美しく微笑んだ。
結婚して二十年、茶会でも夜会でも、一度も崩れたことのない微笑みである。オスヴァルトは、ひとまず理解を得られたと思った。
「北の修道院か、西の辺境の別邸か。どちらかで二年ほど静かにさせておけば、噂も冷める。次の縁談の値も、そこまでは下がらん」
「つまり」
妻は、微笑んだまま、首をわずかに傾けた。
「あなたは、泣いて帰ってくる娘に、今度はどこへ追い払われたいか尋ねるおつもりなのですね?」
「なぜそうなる」
「わたくしも、なぜそうなるのか知りたいですわ」
オスヴァルトは、ペンを置いた。
「追い払うのではない。今後の損失を最小限に抑えるための――」
「損失」
「そうだ。王家との縁が切れた以上、侯爵家として――」
「損失」
「……何度繰り返すのだ」
「十八年、大切に育てたわたくしたちの娘を、損失のほうに数えますの? それとも、得のほう?」
オスヴァルトは、口を開けた。
質問の意味が、つかめなかった。つかめない質問に、どう答えればいいのかも見当がつかなかった。
王宮の御前会議で、宰相と三刻やりあったことがある。隣国の外務卿を、関税一本で黙らせたこともある。二十年、どんな交渉の席でも、相手の言っていることが分からなかったことはない。
妻の言っていることだけは、昔から、よく分からない。
「マルガレーテ。今日のお前は、どうかしているぞ。いつもなら、こういう話は――」
「ええ。いつもなら、わたくしも、家の損得を一緒に考えますわ。貴族の娘には役目がある。わたくし自身が、そうでしたもの」
妻は、ドレスの裾をつまんで、扉のほうへ歩いていった。
取っ手に手をかけたところで、振り返った。
微笑みは、ひとつも崩れていなかった。
「あなた。もし、あの子をこれ以上傷つけるようなことをおっしゃったら」
「……おっしゃったら?」
「あなたの殿方として大切なものを、ひねり潰したうえで、もぎ取って差し上げますわ」
扉が、ぱたんと閉まった。
オスヴァルトは、閉まった扉を見つめていた。
もぎ取る。
ひねり潰したうえで、もぎ取る。
手順まで決まっている。
オスヴァルトは、机の下で、そっと脚を組み替えた。
それから、関税表を伏せた。今日はもう、赤を入れられる気がしなかった。
◇
夕刻、侯爵家の馬車が車寄せに着いた。
フィオナは、従僕が扉を開けるより先に、自分で降りてきた。背筋は伸びていた。頬が白く、目元だけが赤い。泣き腫らした顔を、王都から一日かけて取り繕ってきた顔だった。
玄関広間で、娘は父の前に立ち、深く頭を下げた。
「お父様。侯爵家の名誉を傷つけ、申し訳ございません」
オスヴァルトは、咳払いをした。
言うべきことは、馬車の音が聞こえる前から決めてあった。まず事実関係を確認する。それから、今後の方針を伝える。簡潔に、威厳を損なわず。
「フィオナ。今回の失態については――」
ぱきり。
乾いた音が、広間に響いた。
オスヴァルトの視線の先、階段の途中に、妻が立っていた。
片手に、茶菓子の小皿を持っていた。もう片方の手の中で、胡桃が、きれいに割れていた。
マルガレーテは、夫と目が合うと、にっこりと微笑んだ。
「……いや」
オスヴァルトは、言葉を探した。
二十年分の政治的語彙の中から、いちばん安全なものを。
「長旅で、疲れただろう。今日は、休め」
フィオナが、顔を上げた。
何を言われたのか、分からない顔だった。口が、小さく開いていた。
「休め、と言ったのだ。話は、明日でいい」
「……はい。あの、ありがとう、ございます」
娘はもう一度頭を下げてから、ふと階段のほうを振り返った。
マルガレーテは、何もなかったかのように、階段から降りてきて、娘の肩を抱いた。
そのまま、娘が世話係のメイドと一緒に付き添われて階段を上がっていくと、オスヴァルトは、そっと息を吐いた。
危なかった。
しかし、乗り切った。体調を気遣い、休ませた。妻の条件は、十分に満たしていた。
ふと見ると、階段の上から、妻が自分を見下ろしていた。
そして、割れた胡桃を、ひとつ口に入れて。
ゆっくりと、噛んだ。
◇
日が落ちてから、オスヴァルトはネリーを執務室に呼んだ。
フィオナが六つの時から仕えているメイドである。学園にも付き添っていた。口数が少なく、仕事が速く、どんな時も声を荒らげない。屋敷の誰に聞いても、ネリーの評判はそれで一致する。
「娘の様子は」
「お休みになりました。お夕食は、ほとんど召し上がっておりません」
「そうか」
オスヴァルトは、書類を一枚めくった。
「夜会の場には、お前もいたな。率直に聞く。娘に、落ち度はあったのか」
「ございません」
「即答だな」
「ございませんので」
ネリーは、両手を前掛けの前で揃えて、淡々と答えた。
「しかし、反論の機会もなく婚約を破棄されたのだろう。普通は、そこまでこじれる前に手を打つものだ。殿下の心が離れているのは分かっていたはずだ。侯爵家の娘が、男爵家の娘ひとりに――」
「旦那様」
ネリーの声が、わずかに硬くなった。
「お嬢様は、お手を打とうとなさいました。何度も」
「だが、結果がこれだ。結果が出なかった以上、やり方に落ち度があったと考えるのが――」
「旦那様は」
前掛けの裾が、ネリーの両手の中で、ぎゅっと握られた。
「旦那様は、お嬢様がどんなお気持ちで帰ってこられたのか、お分かりにならないのですか!」
オスヴァルトは、書類から顔を上げた。
十二年間、この女が声を張り上げるのを、聞いたことがなかった。
「いや、それは――」
「お嬢様は、ずっと頑張ってこられたんです! 毎朝、殿下にお会いになる前に、鏡の前で笑顔の練習をなさって! 毎朝ですよ! 三年間、一日も欠かさずです!」
「ネリー、少し落ち着――」
「夜中の二時にインクの瓶を倒して、泣きながら床を拭いておられたのを、私は何度も見ております! それでも翌朝には、何事もなかったお顔で、殿下の隣にお座りになって!」
「す、すまん」
「謝っていただきたいのではございません!」
オスヴァルトは、口を閉じた。
「帰りの馬車で、お嬢様は、ずっと窓の外をご覧になっていました。王都を出てから、たったひと言だけ、おっしゃったんです。『お父様は、私をどこへ送られるかしら』って」
ネリーの目に、涙がにじんでいた。にじんでいるのに、勢いはまるで落ちなかった。
「それなのに、お嬢様に落ち度があっただなんて! 旦那様は、お嬢様のお好きな花を、ご存じですか! 好きな本は! 仲のよいご友人のお名前は! 何ひとつご存じないくせに、落ち度だけは、すぐにお見つけになるんですね!」
「それは、その」
「本当に、どうしようもない、クソ親父、ですね!」
執務室が、しんとなった。
ネリーが、自分の口を両手で押さえた。
オスヴァルトは、書類を持ったまま、固まっていた。
「……今、何と言った?」
「……旦那様のご判断には、少々問題があると申し上げました」
「その前だ」
「記憶にございません」
「私にはあるぞ」
ネリーの顔が、耳の先まで真っ赤になった。
深く、深く頭を下げた。
「出過ぎたことを申しました。お叱りは、いかようにもお受けいたします」
下げた頭のまま、続けた。
「ですが、お嬢様のことは、撤回いたしません」
ネリーは一礼して、出ていった。
オスヴァルトは、呆然としながら、閉まった扉を眺めていた。
◇
半刻ほどして、料理長のベルナルドが顔を出した。
白い前掛けのまま、料理人の帽子を胸に抱えていた。
「旦那様。お嬢様のお食事のことで、ご報告に」
「聞こう」
「お夕食は、ほとんど手をおつけになりませんでした。それで、カボチャのスープを温め直してお持ちしたんでございます」
ベルナルドの太い眉が、ゆるんだ。
「お嬢様が五つの時でしたかな。ひどいお熱を出されて、三日、何も喉を通らなかったことがございまして。あの時、このスープをひと匙だけ召し上がって、こうおっしゃったんです。『ベルナルドのスープは、おひさまの味がする』と」
料理長は、照れくさそうに鼻をこすった。
「それ以来、お嬢様が落ち込まれた時は、決まってこのスープでございます。試験でしくじられた時も、乗馬で落ちられた時も。……昨夜も、半分だけですが、召し上がってくださいました」
声が、湿った。
「明日は朝いちばんに市場へ出て、いいカボチャを見てまいります。お昼には、小さい頃からお好きだった焼き菓子も。少しでも、元気の出るものを――」
「カボチャが好物なのか、あれは」
ベルナルドの笑顔が、そのままの形で止まった。
「……はい。お生まれになった頃から」
「そうか」
オスヴァルトは、手元の紙に「カボチャ」と書きつけた。
「だが、特別な料理は要らん。普段どおりでいい」
「……は?」
「娘は、家の名に傷をつけて帰ってきたのだ。それを慰めるような扱いは、本人のためにもならん」
ベルナルドの胸の前で、帽子がぐしゃりと潰れた。
「旦那様」
太い声が、低く震えていた。
「あの子は、まだ十八でございますよ」
「それは知っている」
「十八の娘が、大勢の前で罪人みたいに罵られて、一日がかりで泣きながら帰ってきたんでございますよ! 喉を通るのは、私のスープだけなんでございますよ!」
ベルナルドの声が、執務室の窓を震わせた。
「傷ついたあの子に、せめて美味いものを食わせてやりたい。料理人の私にできることは、それくらいしかございません。それすら、お許しにならないとおっしゃるんですか!」
「いや、許さないとは――」
「普段どおり、とおっしゃいました!」
「言ったが」
ベルナルドは、潰れた帽子を、ぐいと頭に載せた。
そして、急に声を落とした。
「かしこまりました」
低い、低い声だった。
「明日から、普段どおりに、いたします」
一礼して出ていく背中が、妙に大きく見えた。
廊下を遠ざかる足音が、厨房のほうへ消えていった。
オスヴァルトは、手元の紙を見た。
カボチャ、と書いてあった。
妻に脅された。メイドに怒鳴られた。料理長に何かを宣告された。
「……この屋敷の人間は、当主たるこの私に、普通に怒りをぶつけてきすぎなのではないか?」
◇
夜も更けて、執事のクラウスが書類の束を抱えて入ってきた。
オスヴァルトは、心の底から安堵した。
二十年来の側近である。侯爵家の帳簿も、領地の人事も、王都の情報網も、この男が束ねている。少なくともこの男は、仕事の話をしに来たのだ。
「東部の関税の件、商人組合から回答が届いております」
「見せろ」
書類を受け取って、ざっと目を走らせた。
「組合長の署名はあるが、副組合長の署名がない」
「はい」
「副はハルトマン商会の会頭だったな。ならば、これは組合の総意ではない。ハルトマンが、後から割って入る余地を残している。会議の前に個別に会え。北の港の使用料を、一年据え置くと持ちかけろ」
「据え置いて、よろしいので」
「北の港は、来年から浚渫工事で半年使えなくなる。据え置いても、損は半年分だ。ハルトマンは、工事の予定をまだ知らん」
クラウスは、表情ひとつ変えずに、手帳に書きつけた。
「南部の税収の件は」
「麦の出来が平年並みなら、去年より二分は増える。増えなければ、誰かが抜いている。代官の帳簿を三年分取り寄せろ。徴税の日付と、倉への搬入の日付を突き合わせる」
十五分で、書類の山が半分になった。
これだ、とオスヴァルトは思った。本来の自分は、こうなのだ。
「もう一件。フィオナの処遇だが」
「はい」
「北の修道院か、西の辺境か。マルガレーテには、まだ言っておらん。言えば、もがれる」
クラウスの手帳が、ぴたりと止まった。
何をもがれるのかは、尋ねなかった。
「旦那様。今回の婚約は、陛下のご裁可を得て、両家のご当主が署名なさったものでございます」
「分かっている」
「それを殿下が、夜会の場で、おひとりで破棄すると宣言なさった。王家の側が、正式な合意を踏みにじったことになります」
「それはそうだが、娘にも落ち度があったのだろう。何もなければ、殿下もそこまではなさるまい」
クラウスは、手帳の角を指でそろえた。
そろえ終えても、手帳を閉じなかった。
「旦那様。そもそも、婚約破棄の理由は、確認されましたか?」
「男爵令嬢への嫌がらせだと、手紙に」
「それは、殿下がおっしゃった理由でございます。事実かどうかを、お確かめになりましたか」
「……いや」
「…………」
クラウスは、何も言わなかった。
ただ、主人を待っていた。いつもの、主人の判断を待つ時の顔で。
待っても、主人からは何も出てこなかった。
「旦那様は先ほど、副組合長の署名がひとつ欠けていることに、三秒でお気づきになりました」
「……ああ」
「お嬢様の件では、理由を、ひとつもお確かめになっていない」
オスヴァルトは、何か言おうとした。
言うべきことが、どこにもなかった。
クラウスは、上着の内ポケットから、封をした紙束を出して、机の端に置いた。
「夜会に居合わせた者の話を、王都の家令にまとめさせておきました。念のため」
「……いつ用意した」
「お手紙が届いた、その日のうちに」
手帳が、ぱたんと閉じられた。
「おやすみなさいませ、旦那様」
扉が閉まる音が、今夜聞いた中で、いちばん静かだった。
妻。メイド。料理長。執事。
今日、怒りの感情をぶつけてきた、四人目だった。
◇
翌朝の食卓に、皿が一枚だけ置かれていた。
パンが一切れ。水が一杯。
向かいの席では、マルガレーテが、湯気の立つ橙色のスープを飲んでいた。
オスヴァルトは、自分の皿と、妻の皿を見比べた。
「ベルナルド」
「はい」
厨房の入口に、料理長が腕を組んで立っていた。
「今日の肉料理は?」
「ございません」
「スープは?」
「ございません」
「では、何がある」
「パンがございます」
「……ほかには?」
「水もございます」
給仕の従僕が、天井の染みを数え始めた。
「ベルナルド。これは、どういうつもりだ」
「普段どおりにしろと、おっしゃいましたので」
「私の普段は、これではない」
「昨夜から、これが普段になりましてございます」
マルガレーテが、スープの匙を口に運んだ。何も言わなかった。
オスヴァルトは、パンをちぎって、口に入れた。
外は香ばしく、中はふっくらとしていて、噛むほどに麦の甘さが広がった。
「……これは、今朝焼いたものか」
「料理人が手を抜いたものを出すわけにはまいりませんので」
ベルナルドは、ぶっきらぼうに言って、厨房へ引っ込んだ。
オスヴァルトは、二口目をちぎった。
文句を言ってやろうと思っていたが、やめた。
パンが、腹が立つほどうまかった。
◇
朝食のあと、オスヴァルトは娘を執務室に呼んだ。
机の上には、クラウスの紙束が置いてあった。夜明け前に、三度読んだ。
夜会の大広間で、王太子コンラート殿下が婚約破棄を宣言した。理由は、男爵令嬢ロザリー・ブラントへの度重なる嫌がらせ。殿下の友人である伯爵家のブルーノが、証人の生徒を三人、前に並ばせた。フィオナが口を開こうとすると、殿下は「見苦しい」と言って遮った。
書いてあるのは、そこまでだった。
書いていないことは、本人に聞くしかない。
扉が叩かれて、フィオナが入ってきた。
昨日と同じように、背筋は伸びていた。目の下に、薄く隈があった。机の前に立ち、両手を前で重ねて、俯いた。
処分を言い渡されるのを、待つ顔だった。
「座れ」
フィオナは、迷ってから、椅子の端に浅く腰を下ろした。
「経緯は、一応、聞いている」
娘の肩が、こわばった。
「だが、今回はお前の口から聞きたい。学園で、何があった」
フィオナが、顔を上げた。
父の顔を、まじまじと見ていた。何か裏があるのではないかと、探るように。
この子に、学園の話を尋ねたことがあっただろうか。オスヴァルトは考えて、思い当たらなかった。成績表には毎回目を通していた。三年間、首席だった。それで十分だと思っていた。
「……長くなりますが」
「構わん。今日は、仕事を休んでいる」
フィオナの目が、丸くなった。
最初は、ぽつりぽつりとだった。
入学して最初の月に、殿下から課題を「少し見てくれ」と頼まれたこと。少し見るのが、半年で、代わりに書くことになったこと。二年目に生徒会の副会長になり、会長である殿下の書類を全部引き受けたこと。殿下が乗馬や狩猟に出ている日は、殿下の印を預かって、代わりに押していたこと。
「王妃になれば、陛下をお支えするのも務めですから。その練習だと思っておりました」
殿下が下級生の令嬢と親しくなるたびに、相手の家へ事情を説明しに行ったこと。それが三度あったこと。
「学園にいる間だけのことだと、思っておりましたので」
オスヴァルトは、自分の学生時代を思い出した。
婚約者のいる生徒が、学園で誰かに夢中になる。毎年、一人か二人はいた。オスヴァルトの学年でも、伯爵家の嫡男が庭師の娘と駆け落ちしかけて、三日で連れ戻された。連れ戻されて、それで終わった。置いていかれた婚約者を罪人にした者は、誰もいなかった。
二年の終わりに、ロザリー・ブラントが編入してきた。
殿下はロザリー嬢に夢中になり、フィオナとは口をきかなくなった。それでも書類だけは、フィオナの机に積まれ続けた。
やがて、学園の中に、身に覚えのない話が広まり始めた。
「ロザリー様の教科書を、私が破いたそうです。夜会用の衣装を、切り裂いたそうです。階段で、突き落とそうとしたそうです」
フィオナは、そこで初めて、まっすぐに父を見た。
「どれも、しておりません」
「ひとつもか」
「一度だけ、ロザリー様に注意したことはございます。廊下で殿下の腕にしがみついておいでだったので、人前でそれは礼に反します、と。言い方は、きつかったかもしれません。それ以外は、何も」
そこまでは、平らな声だった。
「夜会の時、申し開きをしようとしたら、殿下が『見苦しい』とおっしゃいました」
声の端が、揺れた。
「三年間、殿下のお名前で、何百枚も書類を書きました。殿下が一度も読まなかった報告書も、殿下が覚えてもいなかった行事の段取りも。それで、最後に、見苦しい、と」
フィオナは、膝の上で両手を握りしめた。
泣かなかった。唇を噛んで、泣かなかった。
オスヴァルトは、椅子の背から身を起こした。
「フィオナ」
「……はい」
「お前に、不覚がなかったとは言わん」
娘の肩が、びくりと揺れた。
「殿下が仕事を放り出し、男爵家の娘に入れ込んでいることは、承知していたのだろう。ならば、相手がどう動くか、情報を集めておくべきだった。男爵家が何を狙っているか。殿下の取り巻きが誰と通じているか。お前は、自分が黙って働き続ければ、いずれ片がつくと思っていた。それ故、今回お前は不覚を取った」
フィオナは、俯いた。
「だが、それはお前が今回学びとすべきことだ。学んで、次に同じしくじりをしなければいい。それだけの話だ」
娘が、そろりと顔を上げた。
オスヴァルトは、机の上で手を組んだ。
「お前は三年間、王太子の婚約者として務めを果たした。殿下が投げ出した仕事まで引き受け、一度も放り出さなかった。殿下の不始末の後始末までした。その間、侯爵家の名を汚すことは、何ひとつしていない。その働きを、私は正当に評価する」
一拍、置いた。
「今回、お前は陥れられたのだ。罪を犯した者の代わりに、お前が恥じる必要はない」
フィオナの唇が、震えた。
「不覚はあった。だが、非はない」
オスヴァルトは立ち上がった。
「胸を張れ、フィオナ。お前は、私の娘だ。俯いてなどおらず、前を向け!」
執務室に、声が響いた。
フィオナは、目を見開いたまま、父を見上げていた。
膝の上の手が、ほどけた。
ずいぶん経ってから、娘は、かすれた声で言った。
「……お父様は、私を、修道院へ送られるのだと思っておりました」
オスヴァルトは、一瞬、詰まった。
昨日の午後、まさにその話をしていた。
「……送らん」
「どうして、ですか」
「もったいない」
フィオナの口が、ぽかんと開いた。
「生徒会の書類を、三年で何百と捌いたのだろう。侯爵家の書記にも、そこまで使える者は三人といない。修道院で祈らせておくのは、損失だ」
娘は、父の顔を見ていた。
それから、ふっと息を漏らした。笑ったのか、泣きかけたのか、オスヴァルトにはよく分からない顔だった。
「……もったいない、ですか」
「そうだ」
「お父様らしいです」
褒められたのか、けなされたのか。オスヴァルトには、それも判断がつかなかった。
「しばらく休め。この先は、私が動く」
オスヴァルトは、上着に手を伸ばした。
「お前は、私の仕事を、よく見ておけ」
◇
娘が出ていくと、クラウスが入れ替わりに入ってきた。廊下で待っていたらしかった。
「王都へ移る。学園で起きたことを、全て調べ上げる」
「かしこまりました」
「勘違いするなよ」
オスヴァルトは、上着に袖を通した。
「これは、侯爵家の契約を反故にされた件だ。黙っていれば、次からは誰もが侯爵家との約束を軽く扱う。家の利益のためだ」
「さようでございますね」
クラウスの返事は、いつもと同じ平らな声だった。
いつもと同じ平らな顔で、主人の背に上着の襟を整えた。
オスヴァルトは、なぜか、それが気に入らなかった。
◇
王立学園の学園長は、侯爵本人が乗り込んでくるとは思っていなかったようだった。
「侯爵様。生徒会の記録は、学園の自治に関わるものでして。外へお出しするわけには」
「出せとは言わん。ここで読む」
「こ、ここで、と申されましても、三年分でございますよ」
「だから、書記を十人連れてきた」
学園長室の外の廊下に、侯爵家の書記が十人、紙と筆を抱えて整列していた。
「し、しかし、記録の閲覧には、理事会の許可が」
「理事長の許可証だ。昨夜、書いてもらった」
オスヴァルトは、懐から一枚出して、机に置いた。
「文書庫は狭うございまして、十人も入りますと」
「廊下に机を十脚、運ばせてある」
「あの、日が暮れますと、文書庫には灯りが」
「ランプは二十持ってきた。油もある」
学園長は、廊下と、侯爵の顔と、机の上の許可証を、順番に見た。
もう一度、順番に見た。
「……お茶を、お出しいたしましょうか」
「頼む。十一人分だ」
学園長は、文書庫の鍵を出した。
◇
生徒会の決裁書類は、三年で四百十二件あった。
署名欄には、すべて殿下の名と印がある。そのうち六十一件は、決裁の日に、殿下が学園にいなかった。乗馬、狩猟、王都の競馬。王宮の侍従長の記録と突き合わせると、日付は一日のずれもなかった。
「下書きが、お嬢様の寮のお部屋から出てまいりました。ほぼ全件分、お嬢様の筆跡で」
クラウスが、木箱を三つ、机に積んだ。
「下書きがあるだけなら、婚約者が手伝ったで済む。会長が副会長に任せて、判だけ押すのも、よくある話だ」
オスヴァルトは、学園長から写させた一枚を、指先で弾いた。
学園長が王宮へ提出した、殿下の推薦状である。王太子としての公務の適性を示すために、学園での実績が並べてあった。春の園遊会を成功に導いた手腕。経費を一割削った、予算の見直し。
「済まないのは、こっちだ。理事会の議事録は」
「こちらに」
経費の削減案を説明する席で、理事の一人が、楽団の契約をどう切り替えたのかを尋ねていた。殿下の答えは、一行だけ記録されていた。
『細かいことは、副会長に聞け』
削減案の中身は、園遊会の楽団を、王都の楽団から学園の音楽科の生徒に替えること。菓子の仕入れ先を、三つから一つにまとめること。フィオナの下書きに、同じことが、同じ順で書いてあった。
「それから、こちらを。学園長の机の、二段目の引き出しから」
殿下が学園長に宛てた、自筆の短い手紙だった。
『推薦状には、経費の見直しは私自身の発案だと書いておいてくれ』
オスヴァルトは、その一行を二度読んだ。
「中身を説明できん案を、自分の発案だと書かせている」
「はい」
「手伝わせたのではない。盗ったのだ」
◇
下書きの束を、オスヴァルトは自分でめくった。
一枚だけ、大きなインクの染みのついた紙があった。
端が波打って、乾いた跡があった。右上に、小さく時刻が書きつけてあった。
午前二時。
オスヴァルトは、その紙を、束から抜いた。
「旦那様?」
「これは、証拠には使わん」
「……かしこまりました」
「下書きなら、ほかにいくらでもある」
抜いた紙を、折らずに、書類鞄のいちばん内側に挟んだ。
クラウスは、何も聞かなかった。
◇
告発の中身は、クラウスが手際よく片づけていった。
「教科書の件。破られたとされるのは九月十日。当初、恐怖心から提出を拒んでいたが、説得を受け九月十五日に証拠として学園に出された教科書の裏表紙には、購買の通し番号、二〇七一の印。購買の帳簿では、二〇七一番の販売日は九月十四日。買い手は、ロザリー嬢ご本人の署名でございます」
「破られたと申告した日の、四日後に買った本か」
「はい」
「衣装は」
「細工を見たと証言した生徒は、その時刻、合唱の練習に出ておりました。出席簿に本人の署名が。ただ、衣装が切られていたこと自体は事実で、仕立て係が切り口を覚えておりました」
「誰かが切ったのは確かだ。誰が切ったかは、まだ分からん。分からんことは、分からんと書いておけ。階段は」
「その日、お嬢様は王宮で、王妃教育の講義をお受けになっておりました。王宮の記録でございます」
「娘の側も、同じ基準で調べたな」
「はい。廊下でロザリー嬢を注意なさった件は、事実でございました。周りにいた生徒が四人、覚えておりました。言葉は丁寧だったが、声はよく通った、と」
「そのまま報告書に書け」
クラウスは、手帳に書きつけた。
「証人は」
「三人のうち二人は、平民出身の特待生でございます。ブルーノから、証言しなければ卒業後の仕官はないと思え、と言われておりました。残る一人は子爵家の娘で、実家の借用証書が半年前、名義を伏せて買われております。ハルトマン商会を通して。買い手の名は、商会が明かしません」
オスヴァルトは、上着を取った。
◇
ハルトマン商会の会頭は、侯爵本人が来たと聞いて、茶を三度淹れ直させた。
「北の港の使用料の件は、ありがたくお受けいたします。関税案にも、組合として賛成いたしましょう」
「助かる」
「それで、本日は」
「もう一件。半年前、子爵家の借用証書を、名義を伏せて買った客がいるはずだ。名を知りたい」
ハルトマンの手が、茶器の上で止まった。
「侯爵様。それは、商会の信用に関わります」
「分かっている。だから、私が来た」
オスヴァルトは、茶をひと口飲んだ。
「その客は、近いうちに面倒なことになる。王家の婚約に手を出した客だ。そういう客の秘密を守って、侯爵家と王家の両方から睨まれるか。ここで名を言って、北の港の据え置きを、そのまま受け取るか」
茶器を置いた。
「据え置きの約束は、まだ書面にしていなかったな」
ハルトマンの額に、汗が浮いた。
「どちらが商会の信用に適うかは、会頭のほうが、よくご存じだろう」
ハルトマンは、茶器を見つめた。天井を見た。窓の外を見た。
最後に、番頭を呼んで、帳簿を一冊持ってこさせた。
買い手の欄には、ブラント男爵家の家令の名があった。
◇
帰りの馬車で、クラウスが言った。
「旦那様も、ハルトマンには、なかなか強引でございました」
「強引なのは構わん」
オスヴァルトは、窓の外を眺めたまま答えた。
「確かめずに強引なのが、駄目なのだ。私は、確かめてから強引にやる」
◇
「三人の生徒と家族を、侯爵家で保護しろ。子爵家の借財は、侯爵家で買い戻せ。特待生の二人には、卒業後の仕官先をこちらで用意すると伝えろ」
「証言を頂くため、でございますか」
「順番が逆だ」
オスヴァルトは、ペンを取った。
「証言してもしなくても、保護は続ける。借財も返さなくていい。そう書面で約束しておけ。話す気になったら、宰相府の書記の前で話させろ。侯爵家の者は、同じ部屋に入れるな」
「侯爵家の者を、でございますか」
「私の屋敷で取った証言など、王宮では紙くずだ。殿下は、侯爵家が言わせたと言うに決まっている」
ブルーノのほうは、すでに宰相府の呼び出しに応じて、供述書を出していた。証人の話を聞いたのは自分である。だが、衣装部屋にも、ロザリー嬢の教科書にも、一度も近づいたことはない、と。
「一度も、か」
オスヴァルトは、供述書の写しを指で弾いた。
「言い切ったな」
十日後、三人は自分から、宰相府へ証言を申し出た。
子爵家の娘は、男爵家から届いた手紙を三通、持ってきた。夜会の後、見舞金と一緒に届いたものだった。証言を変えないように、という念押しだった。三通とも、ブラント男爵本人の署名が入っていた。
◇
王宮へ向かう朝、馬車に乗る前に、クラウスが尋ねた。
「旦那様。本日は、殿下を論破なさるおつもりで」
「論破はせん」
オスヴァルトは、書類鞄を持ち直した。
「殿下に、話していただく」
◇
王宮の小謁見室には、五人がいた。
国王。宰相。王太子コンラート。エーレンベルク侯爵。その娘、フィオナ。
名目は、侯爵家からの、娘の名誉に関する正式な申し立てである。
コンラート殿下は、金の髪を後ろに撫でつけ、腕を組んで、椅子に深く座っていた。フィオナのほうは、一度も見なかった。
「すでに婚約は破棄した。今さら何を言おうというのだ、侯爵」
殿下のほうから口を開いた。
「殿下が婚約を破棄すると宣言なさったことは、存じております」
オスヴァルトは、頭を上げた。
「その宣言に、どなたが同意なさったのでしょうか」
「同意?」
「この婚約は、陛下のご裁可を頂き、両家の当主が署名したものでございます。宰相閣下、婚約の解消には、何が必要でございましたか」
「両家当主の合意と、陛下のご裁可でございます」
「侯爵家は、同意しておりません」
オスヴァルトは、国王に向き直った。
「陛下は」
国王は、首を横に振った。
殿下の頬に、赤みが差した。
「手続きの話をしに来たのか。私が言っているのは、そんなことではない」
「承知しております。では、殿下のおっしゃりたいことを伺います」
殿下は、組んでいた腕をほどいた。
「王立学園には、身分にかかわらず、すべての生徒に学ぶ機会を保障するという理念がある。私は生徒会長として、それを守る立場にあった。上位貴族の娘が身分を笠に着て、男爵家の娘を追い詰めた。それを見過ごせば、学園の理念が死ぬ。私は王族として、弱い者の側に立った。それの何が悪い」
宰相が、ほんのわずかに頷きかけて、止めた。
筋は、通っていた。夜会の大広間で、多くの生徒がこれに拍手したのだろう。
「ごもっともでございます」
オスヴァルトは、あっさり認めた。
「弱い者の側に立つのは、王族として尊いお心がけかと」
殿下の眉が、拍子抜けしたように上がった。
「では、伺います。殿下は、ロザリー嬢が追い詰められていたという事実を、お確かめになったうえで、婚約者を公衆の面前で断罪されたのですね」
「当然だ」
「その事実確認は、どなたが」
「証人がいた。三人もだ」
「証人のお話を聞いたのは」
「ブルーノだ」
「殿下ご自身は」
「その必要はない。ブルーノは信頼できる男だ」
「では、フィオナからは」
「聞くまでもない。あの女は、可愛げのない言い訳しかせん」
フィオナの肩が、かすかに揺れた。
オスヴァルトの指が、書類鞄の留め金にかかった。
かち、と小さな音がした。
「承知いたしました」
宰相の手元で、ペンが走った。
殿下は、自分が今、何を話したのか、気づいていないようだった。
「理念と、事実の確認は、別のものでございます」
オスヴァルトは、書類鞄を開けた。
「事実のほうを、ご覧に入れます」
◇
最初に出したのは、学園長の推薦状の写しだった。
「殿下の公務の適性を示すため、学園長が王宮に提出した推薦状でございます。春の園遊会を成功に導いた手腕、とございます。決裁の日付は、四月十二日」
隣に、もう一枚並べた。
「同じ日、殿下は北の森の狩猟会においででした。侍従長の記録でございます」
殿下は、鼻で笑った。
「偶然だろう。署名の日付を、書き違えたのだ」
「日付は正しゅうございます。その日、学園で殿下の印を押したのが、殿下ではなかっただけで」
殿下の笑いが、途中で引っ込んだ。
「……フィオナが、手伝いを申し出たのだ。私が強制したわけではない」
「さようでございましょう。婚約者が手伝うことは、罪ではございません」
オスヴァルトは、紙を二枚重ねた。
「問題は、その仕事を、殿下ご自身の能力として、王宮に届けさせたことでございます。推薦状には、経費の一割削減も殿下の功績とございます。ところが理事会で中身を尋ねられた殿下は、『細かいことは副会長に聞け』」
「それは――」
「そして同じ月、殿下は学園長に、こう書き送っておられます。『推薦状には、経費の見直しは私自身の発案だと書いておいてくれ』」
手紙の写しが、殿下の前に滑っていった。
「殿下の、ご自筆でございます」
殿下は、紙を睨んだ。睨んだまま、髪に手をやった。撫でつけた髪が、ひと房、額に落ちた。
殿下の字だった。
「教科書の件です」
オスヴァルトは、間を置かずに次を置いた。
「破られたとされるのは、九月十日。証拠の教科書の裏表紙には、購買の通し番号、二〇七一。帳簿によれば、二〇七一番の販売は九月十四日。買い手は、ロザリー嬢ご本人」
そう告げて、少し間を取り話を続ける。
「そして、証拠品として教科書を提出したのは九月の十五日。破られてから日付が空いたのは、破られたことで恐怖心があり、すぐに提出が出来なかったそうです」
「……購買の帳簿が、間違っているのだろう」
「その可能性も、ございます」
殿下が、一瞬、ほっとした顔をした。
「では、三つ目を」
その顔が、固まった。
「フィオナがロザリー嬢を突き落とそうとしたとされる日。フィオナは学園におりませんでした。王宮で、王妃教育の講義を受けておりました」
オスヴァルトは、その紙を、宰相のほうへ滑らせた。
「この記録を作成したのは、侯爵家ではございません。王宮でございます」
殿下の目が、紙から国王へ、国王から宰相へ、宰相から紙へ戻った。
記録の間違い、とは、二度は言えなかった。言えば、自分の父の宮殿の記録を疑うことになる。
「……記録など」
殿下の声が、裏返った。
「記録など、侯爵家なら、いくらでも都合よく揃えられるだろう! 証人も同じだ! 侯爵家が囲い込んで、言わせているのではないのか!」
オスヴァルトは、それを待っていた。
「宰相閣下」
「はい」
「本日ご覧に入れた記録のうち、侯爵家が作成したものは、一枚でもございますか」
宰相は、紙の束を、端から一枚ずつ確かめた。
「……ございません。侍従長の記録、購買の帳簿、理事会の議事録、学園長の推薦状、殿下ご自筆のお手紙、王宮の講義記録。いずれも原本を、私の書記が確認しております」
「証人の証言は、どこで」
「宰相府でございます。私の書記の前で。侯爵家の方は、同席しておりません。証言してもしなくても保護は続ける、という侯爵家の約束の書面も、こちらに」
殿下の口が、半開きのまま止まった。
「三人の証言でございます」
オスヴァルトは、最後の束を置いた。
「二人は、ブルーノ殿から、証言しなければ仕官はないと言われておりました。一人は、実家の借財の証文を、ブラント男爵家に買い取られておりました。夜会の後、三人の家には、証言を変えないよう念を押す男爵の手紙と、見舞金が届いております」
「……証人が、勘違いをしたのだ」
殿下の声は、ほとんど聞こえなかった。
「そういうことも、あるだろう」
「ございます」
「ならば――」
「ですので、本人たちに確かめました。三人とも、勘違いではなかったと申しております」
殿下は、何か言おうとして、言葉が見つからなかった。
国王が、ゆっくりと眼鏡を外した。
「殿下。いま疑われているのは、婚約者の罪ではございません」
「……何?」
「罪があると決めつけた、殿下ご自身のご判断でございます」
◇
椅子が、床を擦って倒れた。
殿下が、立ち上がっていた。
「侯爵! 私は次期国王だぞ! 侯爵風情が、私を裁けると思うな!」
小謁見室の窓が、びりびりと鳴った。
オスヴァルトは、立ったまま、殿下を見上げた。
この部屋に入って初めて、声を低くした。
「私は、殿下を裁いておりません」
殿下の口の端が、勝ち誇ったように上がりかけた。
「では――」
「陛下に、次の国王として殿下をご信任できるかどうか、ご判断いただいているのです」
殿下の口が、そのまま止まった。
ゆっくりと、国王のほうへ首が回った。
国王は、外した眼鏡を、机の上に置いたところだった。
殿下の顔から、血の気が引いていった。
「コンラート」
国王の声は、低かった。
「なぜ、確かめなかった」
「父上、それは、ブルーノが――」
「ブルーノの話はしておらん」
「フィオナが、日頃から私に冷たく――」
「フィオナ嬢の話もしておらん」
「記録が、たまたま――」
「コンラート」
殿下は、口をつぐんだ。
国王は、長いこと息子の顔を見ていた。
「お前は今日、ここで、一度も『私が間違えた』と言わなかったな」
殿下の唇が、震えた。
「ブルーノのせいだ。フィオナ嬢のせいだ。記録のせいだ。証人のせいだ。……王子だから、許されると思ったのか」
殿下は、俯いた。
「王子だからこそ、許されぬことがある」
国王は、それ以上は言わなかった。
言わずに、息子から目を外した。
オスヴァルトは、一歩下がった。
ここから先は、国王と王太子の話である。
◇
国王は、フィオナのほうに向き直った。
「フィオナ嬢。愚息が、そなたにひどいことをした。王家として、詫びる」
フィオナは、膝を折って礼をした。
「もったいないお言葉でございます」
「ひとつ、聞いてよいか。そなたは、ロザリー嬢に何か言ったことはあるか」
フィオナは、迷わなかった。
「ございます。廊下で、殿下の腕にお掴まりになっていたので、人前でそれは礼に反します、と申し上げました。声が大きかったかもしれません。それを侮辱と受け取られたのでしたら、言い方については、私の落ち度でございます」
「……そうか」
「陛下。もうひとつ、申し上げてもよろしいでしょうか」
オスヴァルトは、娘の横顔を見た。
打ち合わせにない言葉だった。
「申してみよ」
「先ほど、父は衣装の件を申し上げませんでした。切られていたこと自体は事実ですが、誰が切ったのかまでは、分からなかったのだと思います」
フィオナは、まっすぐに国王を見ていた。
「衣装は、夜会の前の週、生徒会が管理する衣装部屋に預けられておりました。部屋の鍵を借りる者は、生徒会の鍵の貸出簿に、名前を書くことになっております。貸出簿は、生徒会室の右の棚の、三段目にございます」
一拍、置いた。
「私がつけておりましたので、間違いございません」
宰相が、すぐに書記を呼んだ。
オスヴァルトは、娘の横顔から、目を離さなかった。
貸出簿。
書記を十人連れていって、三年分の決裁書類を、全部写させた。ランプを二十持っていった。
それでも、鍵の貸出簿という紙があることは、知らなかった。
フィオナが、ちらりと父を見上げた。
「お父様の記録に、穴がございましたので」
小さな声だった。
「……埋めてくれて、助かる」
オスヴァルトも、小さな声で返した。
半刻ほどで、書記が戻ってきた。
衣装が切られた前の日の夕刻。衣装部屋の鍵を借りた者の欄に、ブルーノの署名があった。
「宰相閣下。ブルーノ殿は、宰相府への供述で、何と申しておりましたか」
「……衣装部屋にも、教科書にも、一度も近づいたことはない、と」
「この貸出簿だけでは、誰が衣装を切ったのかまでは分かりません」
オスヴァルトは、貸出簿の写しを、宰相の書類の上に重ねた。
「ただ、ブルーノ殿が、いちばん大事なところで偽りを申し立てたことは、分かりました。あとは、宰相府でお調べいただけますでしょう」
宰相は、深く頷いた。
国王が、貸出簿の写しを手元に引き寄せた。
「……侯爵」
「はい、陛下」
「良い娘を持ったな」
オスヴァルトは、深く頭を下げた。
「恐れ入ります。侯爵家の、たいへんな財産でございます」
隣で、フィオナが、ぐっと唇を噛んだのが分かった。
笑いをこらえているようにも、何か別のものをこらえているようにも見えた。
宰相が、手元の紙をまとめた。
「陛下。法の上で問えますのは、正式な婚約を、手続きを経ずに破られたこと。確かめもせず、作られた告発で人を断罪なさったことでございます。どなたを好いておられたかは、そのどちらにも入っておりません」
国王は、頷いた。
「沙汰は、追って下す」
◇
王都の屋敷に戻ると、マルガレーテが玄関広間で待っていた。娘の付き添いで、領地から上ってきていたのである。
フィオナが先に階段を上がっていくと、妻は扇を広げて、夫の前に立った。
「念のため言っておくが」
オスヴァルトは、先手を打った。
「娘を傷つけるようなことは、ひと言も言っていない。王宮でもだ」
「存じております。今、フィオナから聞きましたもの」
扇の陰で、妻の目が細くなった。
「殿下が、あの子を『可愛げがない』とおっしゃった時、あなたが鞄の留め金を壊しかけていた、とも」
「壊してはいない」
「かけていた、と申しました」
「……手が滑ったのだ」
「まあ」
「今回のことは、家の利益のためだ。侯爵家の契約を踏みにじられた。それだけだ」
「そうですか」
マルガレーテは、手のひらを差し出した。
胡桃が一つ、載っていた。
殻はきれいに割られ、中身だけが、丁寧に取り出してあった。
オスヴァルトは、反射的に脚を閉じかけて、思いとどまった。
「では、これは家の利益に対する、ご褒美ということにしておきますわ」
妻は、胡桃を夫の手に落とすと、階段を上がっていった。
オスヴァルトは、手のひらの胡桃を眺めた。
意味は、よく分からなかった。
分からなかったので、食べた。
マルガレーテは翌朝、ひと足先に領地へ戻っていった。娘を迎える支度があるのだという。
◇
沙汰は、半月後に下った。
コンラート殿下は、廃嫡となった。
王位継承者の指名は陛下の大権であり、その取り消しもまた、陛下の大権による。
陛下が裁可した婚約を独断で破ったこと。
確かめもせず、虚偽の告発で公衆の面前に人を断罪したこと。
王太子の権威を背に、学園で証言を強いさせたこと。
他人の仕事を、自らの発案と偽って王宮に届けさせたこと。
殿下が誰を好きになったかは、ひと言も記されていなかった。
元王太子は、南方の塔で、王家の監督の下に置かれることになった。
宰相府がロザリー嬢の寮の部屋を改めると、余白に書き込みの入った元の教科書が、一頁も破れずに出てきた。
貸出簿の署名を突きつけられたブルーノは、衣装を切ったのは自分だと認めた。
教科書は、ロザリー嬢が新しく一冊買って、自分の目の前で破いたのだ、とも。
ロザリー嬢は、三日黙り通したあと、それを認めた。北方の修道院で、監督の下に置かれることになった。
ブルーノは、伯爵家から籍を抜かれた。
ブラント男爵家は、偽証の教唆と、王家の婚約を壊す工作への加担を問われた。男爵本人の署名が、逃げ道を塞いだ。爵位は剥奪され、領地は接収された。
三人の証人は、罪に問われなかった。オスヴァルトが、それを最初の条件にした。
残りの条件は、宰相との交渉の席で、半月かけて詰めた。
フィオナの名誉は、婚約破棄が宣言されたのと同じ大広間で、王家の名において回復する。婚約は、王家の責による解消とする。そこまでは、宰相もすんなり呑んだ。
止まったのは、男爵家の没収財産の扱いだった。
「被害の補償として、相当額のみ。……よろしいので? 全額をお求めになっても、陛下はおそらくお認めになりますが」
「全額を頂けば、侯爵家が男爵家を食い物にしたと言われます。それは、侯爵家にとって損です」
オスヴァルトは、もう一枚の書面を、宰相の前に置いた。
「その代わり、婚約破綻の責を負われる王家からの補償は、こちらの額で」
宰相は、その額を見て、天井を仰いだ。
仰いだまま、深いため息をひとつついて、署名した。
◇
あの夜会の夜から、二か月が経っていた。
王都の屋敷を出る朝は、よく晴れていた。
馬車の前で、フィオナは父の背中を眺めていた。
父は、クラウスに、領地へ戻ってからの段取りを言いつけていた。関税の会議。南部の代官の帳簿。北の港の浚渫工事。二か月も娘の件に掛かりきりだったとは思えない量だった。
あの小謁見室で、父は一度も声を荒らげなかった。殿下が椅子を倒して立ち上がった時も、眉ひとつ動かさなかった。最初の質問から、最後の紙まで、無駄なものが一枚もなかった。
学園の三年間で、それなりに多くの貴族を見てきた。その誰と比べても、父ほど怖い人はいなかった。
その父が、陛下に「良い娘を持ったな」と言われて、「たいへんな財産でございます」と答えたのだ。
国王陛下の御前で、娘を財産と呼んだ。
フィオナは、口元を押さえた。
母からも色々と聞かされていた。
ネリーに詰め寄られた勢いで父は思わず謝ったのだが、そのまま「どうしようもないクソ親父」とまで言われたこと。
ベルナルドにパンと水しか出されず、それでも全部食べたこと。
母が胡桃を手に取るたびに、脚を組み替えていたこと。
そして、父はネリーもベルナルドも処罰しなかったこと。
「フィオナ」
父が振り返った。
「今回の件で、覚えておけ。権力と義務を持つ者は、敵の動きを常に把握しておかねばならん。お前は、殿下の仕事を引き受けるのに気を取られて、男爵家の動きを見ていなかった。次はちゃんと見ておけ」
「はい、お父様」
「それとは別で、鍵の貸出簿だ」
父は、言いにくそうに、咳払いをした。
「……あれは、よく覚えていた」
フィオナは、返事をし損ねた。
父は、それで満足したように、前を向いた。
「家に帰るぞ」
父が先に馬車に乗った。フィオナが続いた。
座席に、父の書類鞄が置いてあった。留め金の片方が、曲がっていた。
口が、開いていた。いちばん内側に、紙が一枚挟まっていた。端が波打っていて、大きなインクの染みがあった。
見覚えのある字だった。
フィオナは、鞄の口を、音を立てないように閉じた。
父は、気づいていなかった。窓の外を見ていた。
扉が閉まり、馬車が動き出した。
王都の石畳が、車輪の下で鳴っていた。
門をくぐったあたりで、父が口を開いた。
「学園のことは、しばらく忘れて、休むとよい」
フィオナは、父を見た。
父は、窓の外を見たままだった。
「東の港町に、侯爵家の別邸がある。あそこで、ひと月ほど過ごしてみるのもよかろう」
窓の外を見たまま、父は続けた。
「あの港は、魚がうまい。王都の料理人が、わざわざ修業に行くほどだそうだ。朝に揚がった鯛を、その日のうちに塩で焼く。ベルナルドにも作れんらしい」
なぜか、父はとても得意そうだった。
フィオナは、何も言えなかった。
「貴族たるもの、さまざまな土地の民の暮らしを知ることも必要だからな。その土地のものを食べるのが、いちばん早い」
いつもの厳しい顔だった。いつもの、貴族らしい理屈だった。
けれど、窓に映った父の目が、ちらりとこちらを窺ったのを、フィオナは見た。
座席の上で、曲がった留め金が、馬車の揺れに合わせて、かたかた鳴っていた。
父の自分への不器用な態度に、笑いが、喉もとまで上がってきた。
フィオナは、そんな父を、少しだけ困らせてみたくなった。
「お父様」
「何だ」
「私、実はお魚料理が苦手なんですよ」




