浮気したい「から」結婚した?……馬鹿ですか、貴方は。
夫チャールズは、浮気を咎めた私・エレノアへあろうことか「真面目な妻がいてこそ、浮気は甘美なのだ」と言い放った。
ならばその“真面目な妻”として、私は変わらずこの家に居続けましょう。
離婚はしない。嘘もつかない。
十九世紀アメリカ風の地方都市を舞台に、軽薄な夫が自らの看板と信用を少しずつ失っていく、静かな皮肉と因果応報の物語。
「いいかい、エレノア。浮気というものはね、真面目な妻がいてこそ甘美なんだよ」
「いいかい、エレノア。浮気というものはね、真面目な妻がいてこそ甘美なんだよ」
と、私の夫チャールズ・ハロウェイは、暖炉の前でたいそう得意げに言った。
「だらしない女房では背徳の味が薄れる。貞淑で、きちんとして、家庭を守る妻がいるからこそ、秘密の恋は燃えるんだ」
「……つまり」
「きみと結婚したのは、その刺激が欲しかったからさ」
あまりに見事な愚説だったので、私はしばらく瞬きもできなかった。
暖炉の火が、ぱちりと鳴った。
たぶん今の台詞に驚いたのだろう。私も同感である。
もっとも、驚いたからといって、天井が落ちてきて夫の頭上だけを正しく押し潰してくれるわけではない。世の中は案外そういう都合よくはできていない。
神は気まぐれに洪水を起こしたりはなさるが、愚かな夫をその場で黙らせる程度の小まめな奇跡には、あまりご関心がないらしい。
その晩の私は、黒い絹の裾を乱すこともなく、声を荒らげることもなく、ただ椅子の背に指先を置いて夫を見ていた。
見ているだけで、これほどまでに疲れる相手と三年も同じ家で暮らしていたのかと思うと、自分の忍耐心に感心するより先に、少々うんざりした。
チャールズ・ハロウェイはこの町でそこそこ名の知れた乾物商である。
祖父の代には荷馬車一台から始まった商いも、父の代で店を構え、夫の代で倉庫を増やした。鉄道が通り、電信線が伸び、新しい時代だの西へ開ける国家だのと男たちが鼻息荒く語るようになってから、商売はたしかに広がった。
けれど、いくら列車が速くなろうと、地方都市の商いが最後に頼るのは信用である。
帳簿の数字より先に、教会での顔つきと、妻の立ち居振る舞いを見られるのだ。
その程度のことを、自分の店の看板の下で三十六年生きてきた男が知らぬはずはない。知らぬはずはないのだが、恋だの刺激だのを口にし始めると、男は驚くほど簡単に自分の足元を見失うらしい。
「信用など大げさだな」と夫は鼻で笑った。「誰もそんなことで商売をやめたりはしないさ」
「ええ、表向きは」
「女同士の陰口が、男の商談にまで響くものか」
「まあ」
私はそこでようやく、小さく笑った。
この国には電信がある。
だが町の婦人たちの噂話は、あれより早い時がある。
「何がおかしい」
「いいえ。あなたが、男の商談は女たちの会話と無関係だとお考えなのが」
夫は黙った。たぶん本気でわからないのだ。
取引先の男たちがどこで話を聞き、何を気にし、どうして急に慎重な顔になるのか。
妻が客間で聞いた一言が、翌朝の朝食で夫に渡り、その夫が商談の席で何気なく相手を見る目を変える。
その程度の流れすら、男たちは自分で作った秩序の外側にあるものとして見落とす。
実に都合のいい盲目である。
「とにかく」
と夫は話を切った。
「きみが騒がなければ済むことだ。きみは賢いのだから、感情的な真似はするまい」
「ええ、いたしませんわ」
「それでいい。私はきみを捨てるつもりはないし、家を失わせるつもりもない。つまり何も変わらない」
――何も変わらない。
私はその言葉を胸の中で転がした。
変わるに決まっているでしょう、愚か者、と言ってしまえたなら楽だった。けれど言わなかった。
言ったところで、今の彼は理解しない。理解しない相手に言葉を費やすのは、上等なリボンで豆袋の口を結ぶようなものだ。見た目は整うが、中身は少しもましにならない。
「では」
と私は言った。
「私も変わらず振る舞いますわ」
「そうしてくれ」
「日曜礼拝にも参りますし、慈善市にも顔を出しますし、取引先の奥様方とお茶もいたします」
「もちろんだ」
「聞かれたことには、嘘も申しません」
「……何?」
夫の顔つきが、そこでようやく少し曇った。
「嘘は申しません、と申しましたの」
「まさか外で言いふらす気か」
「私から面白がって触れ回るつもりはございませんわ。けれど、もし奥様方が“近頃ご主人はずいぶんお若い方と親しげですこと”とおっしゃったら、どう答えればよろしくて?」
「否定すればいい」
「事実でないことを?」
「世間には体面というものがあるだろう!」
体面。
浮気相手に贈るリボンの色を悩んでいた男が、ここへ来て急に口にするには、ずいぶん立派な単語である。
私は夫の顔を見た。少し赤くなり、少し青ざめてもいる。
自分で火をつけておいて、煙が目にしみると腹を立てる子供のような顔だった。
「それでは、あなたは私に、あなたの浮気のために嘘をつけと?」
「浮気だ何だと大げさに言うな!」
「では何と申せば」
「男の付き合いというものがある」
「帽子屋の娘さんと?」
「きみは言葉尻ばかり取る!」
私は口を閉じた。
口を閉じたのは従ったからではなく、これ以上聞いていると本当に笑ってしまいそうだったからである。
笑うべき場面ではなかった。いや、客観的にはむしろ笑うしかない場面だったかもしれないが、妻としては礼を失する。
◇
その夜の会話は、そこからさらに二、三度同じところをぐるぐる回った。
夫は自分は悪人ではないと言い、私は誰が悪人かではなく何をしたかの話をしていると答えた。
夫は男には自由が要ると述べ、私は結婚がそういう自由の免罪符でないことを指摘した。
夫はついに苛立って立ち上がり、「きみのそういうところが息苦しいんだ」と吐き捨てた。
なるほど。息苦しい理由が、ようやく少し見えてきた。
つまり彼は、己の愚かさを愚かと呼ばれるのが嫌なだけなのだ。
夫が書斎へ引き上げたあと、私はしばらく暖炉の前に立っていた。
窓の外では、風が木の枝を鳴らしている。遠くで汽笛が聞こえた。夜の列車だろう。西へ東へ、人も荷も運んでいく鉄の怪物は、この町の男たちにたいそう好まれている。進歩の象徴だそうだ。
その進歩の時代に、私の夫は居間で恋愛小説の出来損ないみたいな理屈をこねていた。
文明というものは、実に偏って届くらしい。
「奥様」
振り向くと、家政婦のミセス・ウェッブが戸口に立っていた。五十を少し過ぎた、背筋のしゃんとした未亡人で、私が嫁いでくる前からこの家にいる人だ。
使用人というより、もはや家の柱の一本みたいなものだった。
「お休み前に、火を少し落としましょうか」
「ええ、お願い」
彼女は黙って火箸を取り、手際よく炭を寄せる。私はふと、その横顔を見た。いつもどおり落ち着いている。
けれど、何年も同じ家を切り盛りしてきた人が、この数週間なにも気づいていないはずがない。
「ミセス・ウェッブ」
「はい、奥様」
一瞬だけ迷ったが、私は結局、遠回しな言い方をしなかった。
「あなた、町で何か耳にしていて?」
「はい」
あまりに簡潔な返事に、かえって気持ちよさすら覚えた。
「そう」
「この町では、みなさま耳がお早うございますから」
私は少しだけ息を吐いた。泣きたかったわけではない。ただ、正直な言葉が一つあるだけで、人は少し楽になるものだ。
「私が気の毒に見える?」
「いいえ」
思わぬ答えに、私は彼女を見た。
ミセス・ウェッブは炭を整え終えて火箸を置き、まっすぐ私を見返した。
「腹立たしくは思いますが、奥様を気の毒とは思いません。奥様は、ご自分が何をなさるべきか、もうお分かりの顔をしていらっしゃいますので」
私はそこで、ようやく本当に笑った。
今夜初めて、まっとうなことを聞いた気がした。
「そんな顔をしていたかしら」
「ええ。旦那様には少々わかりにくいようですが」
実にもっともだった。
◇
私は階段へ向かいながら、明日の予定を頭の中で数えた。
午前には教会の婦人会へ寄付の布地を届ける。午後はミセス・グラントに招かれてお茶。夕方には帳場の確認。いつもと変わらぬ一日だ。
そう、変わらぬ一日。
けれど明日からは、その「変わらなさ」そのものが、夫にとっての罰になる。
離婚はしない。騒ぎもしない。
ただ、彼が何に寄りかかって商売し、紳士ぶってきたのかを、町の誰もが自然に思い出すだけだ。
チャールズは、自分が背徳の恋を楽しむ主人公にでもなったつもりでいる。
だが実際には、看板を背負ったまま泥濘へ飛び込んだ商人にすぎない。
そして看板の汚れは、本人より先に人目につく。
◇
翌朝、私はいつもどおり真珠のピンで襟を留め、灰色の外套を羽織った。
鏡の中の女は顔色も悪くない。目も腫れていない。結構なことだった。あの程度の男のために、私の目元まで崩してやる義理はない。
階下へ下りると、朝食の席で夫が新聞を広げていた。昨夜あれだけの会話をしたというのに、彼はもう普段どおりを装うつもりらしい。
男というものは、自分に都合の悪いことを一晩で「済んだ話」にする才能だけはある。
「おはよう、エレノア」
「おはようございます」
コーヒーを注いでもらい、私はパンにバターを塗った。食卓にはハム、卵、ジャム。窓の外には薄い朝靄。壁の時計が七時半を告げている。
実に平穏で、実に普通の朝である。ただ一つ、夫が馬鹿であるという点を除けば。
「今日は出かけるのか」
「ええ。婦人会へ寄ってから、ミセス・グラントのお茶に」
「そうか」
夫は新聞の上からちらりと私を見た。
「余計なことは言わないでくれよ」
「余計なこと?」
「きみもわかっているだろう。軽率な噂が広がれば、誰のためにもならない」
「そうですわね」
私はジャムの瓶の蓋を閉めながら答えた。
「軽率な行いは、噂が広がる前から誰のためにもなりませんものね」
夫の手がぴたりと止まる。新聞の端が、わずかに震えた。
ああ、よろしい。ようやく少しは効いているらしい。
この調子なら、町のほうはもっと早い。
私はカップを置き、ナプキンで指先を拭いた。
さて今日は、誰が最初に、砂糖菓子みたいな口調で切り出してくるだろうか。
そして私は、嘘をつかない。ただそれだけで十分なのだ。
教会の婦人会は、季節ごとに寄付用の衣類や毛布を集める。
名目は慈善だが、実のところこの町の婦人たちにとっては、針仕事と情報交換が同じくらい大切な務めである。
そして後者において、みなさま実に勤勉だ。
◇
私は午前のうちに布地の包みを馬車へ載せさせ、いつもどおり教会へ向かった。
空は高く、風は冷たく、街路樹の葉はすっかり色を変えている。こういう朝に限って世界は妙に清々しく、こちらの事情など鼻先ほども気にかけていない顔をしている。
腹立たしいが、ありがたくもある。
夫が馬鹿だからといって、空まで曇られてはやりきれない。
教会の集会室では、すでに何人かの婦人が集まっていた。
ミセス・グラント、ミセス・ペンバートン、牧師夫人のミセス・リード。いずれも礼儀正しく、上品で、そして必要な時には抜け目がない。
「まあ、エレノア。今朝もきれいなお色の布地ですこと」
とミセス・グラントが言った。
彼女は五十代半ばで、いつも柔らかく微笑んでいるが、その微笑みの奥で人を観察する目は鷹より鋭い。
「冬物は少し厚手のほうが役に立ちますもの」
「本当にねえ。このところ風がずいぶん冷たくなってまいりましたし」
私は包みをテーブルの上へ置き、手袋を外した。
誰もすぐには本題へ入らない。
それがこの町の流儀である。先に天気、次に慈善、そこからようやく人の不幸へ至る。
階段を一段ずつ降りるみたいな丁寧さで、最後だけ地獄へ着くのだから感心する。
しばらく針と糸の音が続いたあと、ミセス・ペンバートンが何でもない顔で言った。
「ハロウェイさんの店のショーウィンドウ、近頃ずいぶん華やかですことね」
「まあ、そうですの?」
と私は答えた。
「ええ。若い娘さん向けの帽子飾りなんかが、ひときわ目立つようになって」
ミセス・リードが目を伏せたまま、糸を切った。
その沈黙が実に行儀よく、「さあ参りましたよ」と告げていた。
「ご主人、若い感性を取り入れていらっしゃるのかしら」
とミセス・グラントが、砂糖をひと匙落とす程度の軽さで言う。私は針山の位置を少し直してから答えた。
「ええ。最近は《《帽子屋の娘さんと親しくしていらっしゃる》》ので、その影響かもしれませんわね」
部屋の空気が、ほんのわずかに止まった。
咳払いひとつない。けれど、みなさまが今しがた胸の内で同じ言葉を唱えたのがわかる。
あら、やっぱり。
そう、やっぱりである。
ミセス・グラントが、たいそう穏やかな顔でカップを置いた。
「まあ……では、あれは単なる噂ではありませんでしたのね」
「残念ながら」
「お気の毒に」
「いいえ」
私は微笑みこそしなかったが、声を乱しもしなかった。
「気の毒というより、見苦しい話ですわ。本人はずいぶん洒落た冒険のつもりでいるようですけれど」
「冒険」
ミセス・ペンバートンが、思わずというふうに繰り返した。
「ええ。真面目な妻がいてこそ浮気は甘美なのだそうですの」
今度こそ、ミセス・リードが針を落とした。
私は拾って差し上げた。
牧師夫人はありがとうとおっしゃったが、その顔は礼拝中に不謹慎な冗談を聞かされた時のようであった。つまり、怒るべきか呆れるべきか、神に判断を仰ぎたいが今は人前なのでとりあえず堪えている、という顔である。
「……ご主人が、そのように?」
とミセス・グラント。
「ええ。昨夜、暖炉の前で大変得意げに」
「まあ」
「暖炉の火まで驚いておりましたわ」
その言葉に、とうとうミセス・ペンバートンが吹き出した。
すぐに口元を押さえ、「ごめんなさい」と言ったが、私も少しだけ口元が緩んだ。
笑っていい話ではない。だが、だからといって笑えぬほど立派な愚かさでもない。
ミセス・グラントは首を振った。
「男というものは、ときどき自分の体面がどこから生えているかお忘れになるのね」
「そうらしいですわ」
「そして、忘れている間もそれを奥様が支えてくださると思っていらっしゃる」
「そのようです」
ここまで来ると、もはや私が何か言い足す必要はなかった。
婦人たちはそれぞれに針を動かしながら、必要な結論へ静かに辿りついていく。
誰も露骨な非難はしない。だが、非難より始末の悪い理解というものがある。
この人は、自分の妻を看板にして遊んでいる。
それが共有された時点で、もう半分は終わりだ。
◇
帰り際、ミセス・グラントが私の腕にそっと触れた。
「午後は予定どおり、うちへいらして」
「でも、ご迷惑では」
「何が迷惑なものですか。むしろぜひ」
彼女は少し声を低くした。
「うちの人にも、少し思い出していただいたほうが良いことがありますの。成功した商人というものは、勘定だけで出来ているのではないと」
私は会釈した。
なるほど。もう伝わる先は決まりつつあるらしい。
◇
午後のミセス・グラント宅は、いつもより客が一人多かった。
偶然にしては出来すぎている。
いや、この町で社交の偶然を信じるほど、私は純真ではない。
客間には淡い花模様の壁紙、磨き込まれたマホガニーのテーブル、銀のティーセット。窓辺の鉢植えまで整っていて、家の主人が堅実で、主人の妻が堅実以上に有能であることがひと目でわかる。
そういう家の空気というものは、帳簿よりよほど雄弁だ。
追加の客はミセス・ウィルコックスだった。大手の雑貨卸を営む家の奥方で、夫はチャールズとも取引がある。
「エレノアさん、お会いできて嬉しいわ」
と彼女は言った。
「近頃お見かけするたび、お忙しそうで」
「まあ、みなさま同じですわ」
「ええ、本当に。特にこの町は、誰かしらがいつも余計なことをしてくださるものですから」
ミセス・グラントがカップを傾けながら、
「それで、退屈せずに済みますのよ」
とさらりと足した。
私はそこで、この午後がただのお茶会で終わらぬことを悟った。
そして案の定、話題はほどなく「最近の若い娘たちの帽子の趣味」から、「既婚の紳士が軽率に若い娘へ贈り物をすることの見苦しさ」へ移った。
誰ひとり固有名詞を出さないまま、しかし全員が同じ顔を思い浮かべている会話というのは、なかなか壮観である。
「うちの人も申しておりましたの」
とミセス・ウィルコックスが言った。
「商いでは、品物より人を見るものだって」
「もっともですわ」
とミセス・グラント。
「安い布地は取り替えが利くけれど、安っぽい評判はなかなか取り替えが利きませんもの」
私はティーカップをソーサーへ戻した。
カップの縁に小さな音がした。そのくらいで十分だった。大げさな相槌など要らない。この場では、静かな肯定がいちばんよく響く。
「ご主人は、お変わりありませんの?」
とミセス・ウィルコックスが私に尋ねた。
尋ね方は優しい。だがその実、答えはもう半分知っている。
「ええ。《とても》お元気ですわ」
「それは何より」
「ずいぶん若返ったお気持ちのようで」
「まあ」
ミセス・グラントが目を伏せた。
笑いを堪えているのか、それとも怒りを抑えているのか、判別がつかないあたりが上等な婦人である。
「ただ」
と私は続けた。
「若返るのは気持ちだけになさるべきでしたわね。分別まで若返らせてしまわれたものですから」
今度は、ミセス・ウィルコックスが露骨にカップを置き損ねた。
受け皿が鳴り、彼女は失礼、と口にしたが、その目にははっきりとした光があった。
わかりました、という光である。
ええ、どうぞお持ち帰りください。その理解こそ、今の私にはいちばん役に立つ贈り物です。
◇
お茶会が終わる頃には、私は妙に疲れていた。
泣きも喚きもしない会話というのは、案外体力を使う。
ただし、得るものはあった。少なくとも今日のうちに、グラント家とウィルコックス家では、夕食の席でそれぞれの夫に話が渡るだろう。
しかも「奥様が気の毒だった」という感傷ではなく、「ハロウェイはずいぶん分別をなくしているらしい」という評価として。
その違いは大きい。男たちは女の涙には鈍くても、同業者の判断力低下には敏感だからだ。
◇
馬車で家へ戻る途中、私は商店街の角で見慣れた背中を見つけた。
チャールズだった。しかも一人ではない。
帽子屋の店先で、若い娘が笑っている。
たしかに愛らしい顔立ちだった。栗色の髪に小さな帽子をのせ、薄い青のリボンを指先でもてあそんでいる。
年は十八か十九か。その隣で夫は、まるで自分が恋愛詩の一節にでもなったつもりの顔で立っていた。
あまりにも似合わなくて、私はしばらく目を疑った。
乾物商が若作りしても、乾物商は乾物商である。小麦粉の袋と砂糖樽の匂いがしそうな男が、いきなり恋の冒険者ぶったところで、見ている側はだいたい正気に返る。
ところが、娘――メイベルは、その瞬間ふいにこちらを見た。
そして驚くでも慌てるでもなく、ごく短く目を見張ったあと、実に素早く状況を飲み込んだ顔をした。
その顔で、私は少し考えを改めた。なるほど。この娘、夫の言うほど無垢ではない。
メイベルはほんの一拍ののち、きれいに会釈した。
店先から、既婚者の正妻へ向けるには少々図太い、しかし礼儀としてはぎりぎり無礼でない会釈だった。
こちらが騒げば騒がせてみればいい、でも自分は慌てない、という計算の見える会釈である。
おや、と思った。次が来たらしい。
私は馬車の窓辺に手を置いたまま、しばらくその光景を見ていた。
チャールズはまだこちらに気づいていない。
メイベルだけが気づいた。
それも、恋人を見つめる娘の顔から、客を見分ける店番の顔へ、恐ろしく滑らかに切り替えて。
なるほど。
この娘はただ若いだけではないらしい。
少なくとも、町の通りの真ん中で既婚者と並んでいる自分が、どう見えるかはよく知っている。
「奥様?」
御者が控えめに声をかけた。
私は視線を外し、背もたれにもたれた。
「そのままお進みなさい」
馬車は揺れながら角を曲がった。通り過ぎる一瞬、ようやく夫がこちらを見る。
顔つきが固まる。口元が半端に開き、片手が中途半端に上がる。
呼び止めるべきか、知らぬ顔をすべきか、判断のつかぬ男の顔だった。
私は軽く会釈だけした。妻として、これ以上ないほど礼儀正しく。
その程度で十分である。町なかで取り乱して見せてやるほど、彼に価値はない。
◇
家へ戻ると、ミセス・ウェッブが玄関先で私の外套を受け取った。
「お帰りなさいませ」
「ただいま。ミセス・ウェッブ、今夜の夕食は少し早めにできるかしら」
「旦那様にお急ぎのご予定でも?」
「ええ。たぶん、言い訳をしに帰っていらっしゃるでしょうから」
彼女のまぶたが、ほんの一度だけ上がった。
だがそれだけだった。
「それでは、胃に優しい献立にいたしますか」
「お願い。動揺した紳士には、柔らかい肉のほうが良いかもしれませんものね」
「もっともでございます」
私は客間へ上がり、帽子を脱いだ。
鏡の前でピンを抜きながら、自分の顔を見る。やはり崩れてはいない。
結構なことだ。夫の愚行に合わせてこちらまで顔色を悪くしていては、あまりに損である。
それにしてもメイベルの会釈は見事だった。
無邪気な娘なら、固まるか、赤くなるか、逃げるかのどれかだろう。
だが彼女は違った。
驚いた。状況を読んだ。礼をした。
しかも「私には私の立場がありますけれど、あなたも騒がないのでしょう?」という探りまで含めていた。
まるで値札の裏まで見てから買うかどうか決める客の目だった。
チャールズはああいう娘を「無垢」と呼ぶらしい。
男というものは、ときどき自分の都合をそのまま形容詞にする。
◇
予想どおり、夫は普段よりずっと早く帰宅した。
玄関で扉の開く音がして、そのあと床板を踏む足音がやけに速い。
書斎にも帳場にも寄らず、まっすぐ食堂へ来たあたりで、もう中身は決まっている。
釈明か、逆上か、あるいはその両方だ。
私はテーブルの端で銀器の並びを見ていた。
夫は部屋へ入るなり、声を潜めた怒鳴り方で言った。
「今日、通りで見ただろう」
「ええ」
夫の顔が引きつった。
人は自分の期待どおりの反応を得られないと、たちまち苛立つ。おそらく彼としては、こちらが泣くか、責めるか、せめて嫌味の一つでも言うはずだったのだろう。
だが私はただ認めただけで、続きを彼に渡した。
「何も言うことはないのか」
「もう十分うかがっておりますもの。真面目な妻がいてこそ甘美なのだとか」
「今その話は――」
「店先で恋人ぶるのも、その甘美さの一部かしら」
夫は唇を噛んだ。
「きみはわざと私を怒らせたいのか」
「いいえ。怒っていらっしゃるのはあなたでしょう」
「町なかで、あんなふうに通り過ぎる必要はなかった!」
「あんなふうに、とは?」
「……あの、平然とした顔でだ」
私は思わず目を瞬いた。
今の台詞はなかなか新鮮だった。
浮気の現場を見た妻に対し、もっと取り乱してくれればよかったのに、と不満を述べる男は、そう多くないだろう。
「取り乱したほうが、お好みでした?」
「そういう意味じゃない」
「けれど、そういうことでしょう。あなた、あの娘さんの前で、私がみっともなく騒ぐのを少し期待していらしたのではなくて?」
夫は返事をしなかった。
しなかったということは、だいたいそういうことである。
私はナプキンを開きながら言った。
「ご安心なさい。あなたの恋の芝居に、私が舞台装置として参加するつもりはありませんわ」
「芝居だと?」
「違うの?」
「私は本気で――」
「まあ」
今度は私のほうが、少しだけ声を落とした。
「本気でしたの?」
その一言が効いたらしい。夫の顔が変わった。
怒っている時の顔ではなく、侮られた男の顔に。
なるほど、そこだったのか。
家庭も商売も捨てる気はない。妻には黙って支えていてほしい。だが恋愛だけは“本物”であってほしい。
実に欲張りで、実に安っぽい。
「メイベルは、きみとは違う」
と夫は言った。
「ええ、そうでしょうね」
「若くて、素直で、私を必要としてくれる」
「店の飾り紐や小箱を買ってくださる殿方ですもの、必要にもなるでしょう」
「きみはすぐに金の話をする」
「商人の妻ですから」
「そこだ! そういうところが……」
夫は言葉に詰まった。
たぶん「冷たい」だの「現実的すぎる」だのを選びかけたのだろうが、そのどれもが今の自分にはずいぶん不利だと、さすがに気づいたらしい。
ちょうどそこへ、スープが運ばれてきた。
ミセス・ウェッブの指示で給仕をしている若いメイドは、顔を伏せたまま完璧に無表情を保っていた。だが耳まで無表情にはなれないらしい。少し赤い。
まあ無理もない。主人が恋の本気だ何だと食堂で語る家など、使用人としてもあまり働きやすくはないだろう。
夫はメイドが下がるまで黙っていた。
そして扉が閉まるなり、低い声で言った。
「とにかく、余計なことはするな」
「余計なこと」
「誰かに話したり、あの娘に接触したりだ。みっともない真似はよしてくれ」
「私が?」
「きみのような立場の女が、嫉妬で若い娘を責め立てるようなことがあれば、さすがに誰だって顔をしかめる」
私はスプーンを止めた。
ここまで来ると、もはや感心に近い。
昨日までは「賢い妻は黙って支えるべきだ」と言い、今日は「もし騒いだら妻のほうがみっともない」まで来た。
自分が崖を転がり落ちるたび、その斜面を私が悪いことにするつもりらしい。
「つまり」
と私は言った。
「あなたは浮気をし、私は口をつぐみ、もし私が傷ついたそぶりでも見せれば、それも私の品位の問題だと」
「大げさに言うな」
「とても簡潔に申し上げたつもりでしたけれど」
「きみは、どうしてそう……」
夫はそこでまた止まった。
いよいよ形容詞が足りなくなってきたらしい。
食事はまずいわけではなかった。むしろミセス・ウェッブの作る鶏のスープは上出来で、パンも温かく、肉も柔らかかった。
ただし同席者がひどかった。
上質の食卓でも、向かいに座る男が「私は浮気をしたが本気だから尊重しろ」とでも言い出せば、すべては薄味になる。
料理人の責任ではない。
途中で夫は、ふと思い出したように言った。
「明日、ウィルコックス氏と会う約束がある」
「そう」
「大きな話になるかもしれない」
「それは結構ですこと」
私は答えながら、昼の客間を思い出していた。
ミセス・ウィルコックスのあの目の光。
たぶん今ごろ、あちらの夕食の席にはすでに話がのぼっている。
そして男たちは、女たちが思うよりずっと素早く“同業者のまずさ”を嗅ぎ取る。
夫は続けた。
「だからなおさら、軽率な噂は困るんだ」
「ええ、本当に」
「わかっているなら――」
「あなたも、もう少し店先では慎んだほうがよろしいのではなくて?」
「エレノア!」
夫の声が上ずった。
その時だった。
扉が軽く叩かれ、若いメイドが青い顔で入ってきた。
「旦那様、失礼いたします」
「何だ」
「帳場のジョーンズさんが、お急ぎでと」
「今、夕食中だ」
「ですが、その……ウィルコックス商会から使いの方が見えて」
夫の手が止まった。
「何だと?」
「明日の件で、ご都合が悪くなったそうで……後日改めて、と」
食堂の空気が、実にきれいに止まった。
私はスープを一口飲んだ。温度もちょうどいい。
それだけに、目の前の男の顔色がなおさらよく見えた。
「後日?」
と夫が言った。
「何か理由は」
「いえ……急な立て込みで、としか」
夫は椅子を引いて立ち上がりかけたが、立ち上がったところで何をするのか決まっていない男の動きだった。
使いを追って問い詰めるわけにもいかない。
今すぐ商会へ駆けつけるには遅すぎる。
しかも断りの文句があまりに整いすぎていて、こちらから怒れば怒るほど見苦しい。
「わかった。下がれ」
メイドが頭を下げて出ていく。扉が閉まる。
そのあと数秒、夫は立ったままだった。
やがて、ぎこちなく座り直した。
「単なる都合だ」
と彼は言った。
「もちろん」
「たまたまだ」
「ええ」
「そう思っていない顔だな」
「では、どんな顔をすれば」
夫は答えず、ナイフを取った。
だが肉を切る手つきが少し乱れている。
それを見るだけで、私は今日一日の疲れがほんの少し報われる気がした。
ようやく第一音である。
まだ序曲のひとつにすぎないが、それでも音は鳴った。
◇
食後、夫は珍しく書斎にも行かず、客間をうろうろしていた。
新聞を開いては閉じ、ブランデーを注いではほとんど飲まず、時計を見る。
まるで待っているのは手紙ではなく、自分の無実を証明してくれる奇跡のほうらしかった。
残念ながら神は昨夜に続き今夜もお忙しいようで、その種の用事までは引き受けてくださらない。
九時を少し回ったころ、玄関のベルが鳴った。
夫がびくりとしたのを、私は見逃さなかった。
入ってきたのはメイベルではない。帽子屋の主人、つまりメイベルの父親だった。
私は二階へ上がる途中でその声を聞き、思わず足を止めた。
玄関広間は吹き抜けになっていて、下のやり取りがよく聞こえる。
「夜分に失礼します、ミスター・ハロウェイ」
「……どうしたんだ、こんな時間に」
「娘のことで、少々」
夫の声が低くなる。
「今は困る」
「こちらも困っております」
帽子屋の主人の声は、怒鳴るほどではないが硬かった。
商人同士の、ぎりぎり礼を失しない不機嫌さというものがある。あれは案外怖い。
「町でいろいろ言われ始めましてね」
「誰が何を」
「誰が、ではなく、見ればわかることを皆さん見ておられるのでしょう」
私は階段の手すりに指をかけた。
下の姿は見えない。だが夫が今どんな顔をしているかは、かなり正確に想像できた。
「娘はまだ若い」
と帽子屋は言った。
「店のためにも、変な噂は困ります」
「変な噂だと? 私は彼女に失礼な真似は――」
「失礼かどうかは別にして、既婚の旦那様が店先へ何度も見えるのを、皆さん面白く思っておりません」
「私は客だ」
「では、客らしくお振る舞いください」
ああ、と私は思った。これはきれいに刺さる。
夫は若い娘との恋に酔っていたのだろうが、相手の家にとってはそうではない。
未婚の娘の評判は商売道具であり、嫁入り道具でもある。
既婚男との噂など、甘美どころか傷物の札に近い。
そのくらいの現実を、チャールズはひとつも考えていなかったらしい。
「あなたの娘も、私に好意を――」
と言いかけた夫の声を、
「そんな話はしておりません」
と帽子屋がぴしゃりと切った。
見事な切り方だった。
恋愛芝居を家計の算段で真っ二つにする音が、階段の上まで聞こえるようだった。
「とにかく、これ以上目立つ真似はお控えください。明日からは、娘も店にはあまり立たせませんので」
「待て、それは」
「店の都合です」
数秒の沈黙。
そのあと、帽子屋は礼を述べ、帰っていったらしい。
扉の開閉する音、冷たい夜気の流れ込む気配、そして閉まったあとの重い静けさ。
私はゆっくり階段を上がった。ここで姿を見せるのは野暮というものだ。
夫には夫で、今しがた起きたことを一人で咀嚼していただいたほうがよろしい。
どうせろくに噛めないだろうけれど。
◇
寝室へ入り、髪をほどいていると、しばらくしてから夫が上がってきた。
扉の開け方が乱暴ではない。乱暴にできるほど元気がないのだろう。
「起きていたのか」
「ええ」
夫は上着を脱ぎながら、こちらを見ないまま言った。
「妙な男が来た」
「まあ」
「娘の父親だ。まったく、田舎者の狭量さにはあきれる」
「帽子屋さんはこの町の方でしょう」
「そういう意味じゃない!」
夫は声を荒げ、それから自分でも少し恥じたのか、咳払いをした。
「私とメイベルのことを、まるで不名誉な関係のように言うんだ」
「既婚者と未婚の娘さんですもの」
「私は本気だと言っているだろう!」
「その本気が、向こうにとってありがたくないこともございますわ」
夫は黙り込んだ。鏡越しに見ると、顔色が悪い。
昼の店先であれほど英雄めいた顔をしていた男が、半日でずいぶんしおれている。花屋で選ばれそこねた白百合みたいな顔だ。似合いもしないのに繊細ぶるとそうなる。
「みんなして、私を馬鹿にしている」
と、夫は低く言った。
「そんなことは」
「きみもだ」
私は髪をとかす手を止めた。
「私はあなたを馬鹿にしてはおりませんわ」
「では何だ」
「馬鹿なことをしていると申し上げているだけです」
夫の顔がこわばった。
だが否定はしなかった。できないのだろう。
私は櫛を置いた。
「チャールズ。あなた、まだご自分が恋の被害者にでもなったつもりでいらっしゃるの?」
「何だと」
「自分だけは本気で、周囲がそれを理解しないから苦しんでいる、と。そういうお顔をしていますわ」
「私は――」
「あなたは、妻がいて、家があって、店があって、その看板のまま若い娘に夢を見たのです。しかも、相手の家の都合も、その娘さん自身の立場も、何ひとつ考えずに」
夫はベッドの端へ腰を下ろした。
ひどく疲れた顔だった。
だが疲れたからといって、急に気の毒にはならない。自分で泥の中へ飛び込み、その冷たさに驚いている大人など、慰めようがない。
「……私はただ、少し」
と彼は言った。
「少し、別のものが欲しかっただけなんだ」
その言葉は昨夜なら、あるいはもっと違って聞こえたかもしれない。
だが今の私には、乾いた紙みたいに軽く聞こえた。
少し。別のもの。
男たちは、自分が他人の人生をどれだけ揺らしている時でも、その欲望を小さく言い換える才だけは豊かだ。
「そう」
と私は答えた。
「そして今、少しずつ代金を払っていらっしゃるのね」
夫は顔を上げた。
何か言い返したそうだったが、ついに何も出てこなかった。
私は蝋燭の火を落としながら思った。
明日は何が来るだろう。
店の客か、取引先か、それとも教会か。
この町は親切だから、たぶん何かしらすぐに届けてくれる。
◇
翌朝、夫は妙に早く起きた。
夜のあいだに何か名案でもひねり出したのかと思ったが、顔を見ればそうではないとわかる。名案どころか、寝不足と不機嫌を煮詰めてネクタイで括ったような有様である。
男というものは、心が乱れるとすぐ首まわりに出る。結び目が少し曲がるだけで、急に分別まで曲がって見えるから不思議だ。
「今日は店へ早く出る」
と夫は朝食の席で言った。
「そう」
「昨日の件は、ただの行き違いだ。私が先方へ寄れば済む」
なるほど。
つまり、まだ何とかなると思っているのだ。
夜のうちに帽子屋の主人に現実を叩きつけられ、なお翌朝には「自分で説明すれば大丈夫」と考えられるあたり、図太いのか、楽天的なのか、その両方なのか判断に迷う。
迷うが、どのみち褒められた性質ではない。
「ウィルコックス氏も、長い付き合いだからな」と夫は続けた。「外野が何を言おうと、商売は別だとわかっている」
「そうだとよろしいですわね」
「きみ、そういう言い方は」
「どういう言い方かしら」
「人が落ち着いて対処しようとしている時に、水を差すような」
私はコーヒーを口に運んだ。
今朝も良い香りだった。家の中にはまだ秩序がある。ありがたいことだ。夫の頭の中まで同じように整えろと言われたら、たぶん神でも断るだろう。
「水を差すつもりはございませんわ」
「だったら、もっと信じてくれてもいいだろう」
「何を?」
「私がこの程度のことで崩れるような男ではないことをだ」
私は思わずカップを置いた。
この程度。
なるほど、そう来たか。
妻の顔に泥を塗り、若い娘の家に迷惑をかけ、取引先に不信の種を蒔き、それでもなお「この程度」と呼べる男の自己評価というのは、ある意味では壮麗である。
大聖堂の天井画みたいに遠く高く、床にいる者の暮らしとは少しも噛み合わない。
「ええ、もちろん」
と私は言った。
「あなたはそう簡単には崩れませんわ。崩れる前に、たいてい周囲が迷惑を受けますもの」
夫はパンを皿へ置いた。置いたというより、軽く叩きつけた。
「きみは本当に、少しも可愛げがないな」
「今さらそこへ戻るの?」
「戻る?」
「真面目すぎるだの、息が詰まるだの、可愛げがないだの。要するに“自分に都合よく黙ってくれない”という一点を、ずいぶん華やかに言い換えていらっしゃるだけでしょう」
夫は返事をせず、ナプキンを放って立ち上がった。
そしてコートを取ると、見送りも待たずに食堂を出ていった。
廊下を急ぐ足音が響く。まるで自分の後ろから真実が追ってきているみたいな歩き方だった。
扉が閉まると、静けさが戻った。
私はジャムを少しだけ塗り足し、残りのパンを食べた。
腹が立っていても朝食は朝食である。何より、これから先しばらくは、私の周囲だけでもきちんとしていなければならない。
夫が恋に酔って看板を汚したのなら、こちらは余計に靴の泥を落とし、襟を整え、声を落ち着けておく必要がある。
理不尽ではあるが、世の中というものは概してそういうものだ。
◇
朝食のあと、ミセス・ウェッブが銀の盆を持って客間へ入ってきた。
小さな封筒が二通のっている。
「奥様へ、お届けものです」
「朝から?」
「ええ。お一つは牧師館から。もうお一つはグラント家の使いで」
私は先に牧師館の封を切った。
差出人は案の定、ミセス・リードである。
文面はたいそう丁寧で、婦人会の冬の寄付について相談したいから午後に少し立ち寄っていただけるか、というものだった。
そして末尾に、ごく小さく一行だけ、
お疲れのようでしたら、お顔を見せてくださるだけでも嬉しゅうございます
と添えてある。
私はそれを読んで、少しだけ目を伏せた。
この町の婦人たちは、こういう時に真正面から「大丈夫?」とは聞かない。
その代わり、相手が必要なら腰を下ろせる椅子を、何でもない顔で一つ増やしてくれる。
それがありがたいのか厄介なのかは、その時々で違うが、少なくとも無神経ではない。
もう一通はミセス・グラントからで、こちらはもっと露骨に親切だった。
午後のお茶の礼とともに、
今朝、うちの人が店へ出る前に少し面白い顔をしておりましたので、ご報告まで
とある。
面白い顔。それだけで大体わかる。
男たちはたいがい、妻から聞いた話にすぐ大騒ぎはしない。
だが翌朝、同業者と顔を合わせる時になると、急に「聞いておくべきこと」と「距離を取るべき気配」を嗅ぎ分け始める。
つまり、今日あたりから夫は少しずつ“なぜか”話が運びにくくなるはずだった。
私は手紙を畳んだ。
窓の外では、薄雲の向こうに弱い日が出ている。寒いが、天気は悪くない。
悪くない天気の日に男が勝手に転び始めるのは、なかなか見栄えが良い。
◇
午前の家事を一通り片づけ、帳面を確認し、台所の買い足しを指示してから、私は少し遅めに町へ出た。
表向きの用事はランプ油と茶葉の注文、それから慈善市へ回す布の見立てである。
実際その用も本当だったが、ついでに空気を見ておきたかった。
町というものは、一晩でどこまで色を変えるのか、それを知るのはわりに興味深い。
ハロウェイ商会の前を通ると、店先はいつもどおり開いていた。
乾物の袋、布地の見本、窓辺の小さな装飾。外から見れば平常である。
だが、平常というものは、中にいる人間の顔までは面倒を見てくれない。
若い店員のトムが、入り口近くで客の荷をまとめていた。
彼は私を見るとすぐ帽子を取り、「おはようございます、奥様」と言った。
礼儀正しい声だったが、どこか固い。たぶん店じゅうが今朝から落ち着かないのだろう。
主人の噂というものは、使用人にとっても決して他人事ではない。家の空気が悪くなれば皿が割れ、店の空気が悪くなれば注文が減る。そのどちらも、いずれ彼らの暮らしに触れる。
「おはよう。忙しそうね」
「はい、その……朝から少し立て込んでおりまして」
「ご主人は?」
「帳場に」
その一瞬、店の奥から夫の声が聞こえた。
いつもの商談声より半音高い。作り笑いをしながら苛立っている男の声である。私は思わず足を止めた。
「ですから、来週の船便には十分間に合います」
「ええ、ええ、もちろん。しかしこちらとしても少々慎重にならざるを得ませんでね」
相手の声は、バニスター氏だった。
穀物や豆の荷を扱う、中年の卸売商である。以前から何度か夫と組んでいたはずだ。
「慎重?」
「昨今はいろいろと……まあ、家庭の事情が商売に影を落とすこともございますから」
私は店先のガラス瓶を眺めるふりをした。
店員のトムが気の毒そうな目をしたので、私はほんの少し肩をすくめた。
彼のせいではない。むしろ目の前で主人の足元が崩れる音を聞かされる使用人のほうが、よほど気の毒である。
夫の声が固くなる。
「私の家庭に、何か問題でも?」
「いえいえ、私などが申すことでは。ただ、うちの家内が妙に気にしておりましてね。こちらも“奥様方はよく見ておられる”などと言われますと」
「商売は商売でしょう」
「まったくその通り。ですが、商売というものは人でございますから」
そこで話が途切れた。
たぶん夫の顔が、取引先としてあまり見たいものではなくなったのだろう。
私はその場を動いた。
今の会話を最後まで聞くのは、妻としては少々品がない。いや、正直を言えば全部聞きたかったが、好奇心にも一応の襟元というものはある。
ランプ油を頼みに隣の店へ入ろうとした時、背後でベルが鳴った。
振り返ると、バニスター氏が出てくるところだった。
彼は私を見て一瞬ぎょっとしたが、すぐに帽子を取った。
「ミセス・ハロウェイ」
「ごきげんよう」
「その……お変わりなく?」
「ええ、おかげさまで」
彼は何か言いたそうにした。
だが男の口は、婦人会の針ほど器用には動かないらしい。結局、「では失礼」とだけ言って去っていった。
実に結構。
言いよどむ男の背中ほど、町の空気を正直に語るものはない。
◇
茶葉の店を出るころには、私は少し機嫌がよくなっていた。
もちろん晴れやかな気分というのとは違う。夫が馬鹿を晒し、その余波がようやく本人に返り始めただけだ。それで人生が急に軽くなるわけではない。
ただ、秤が少し正しい位置へ戻り始めたのを見ると、人は多少息をしやすくなる。
ところが、その日の“次”は、さらに早かった。
家へ戻ると、まだ昼食前だというのに夫が先に帰っていたのである。
客間の扉を開けた瞬間、私は思わず立ち止まった。
チャールズが暖炉の前に立っていた。コートも脱がず、手袋も片方はめたままで、ブランデーの瓶だけが横のテーブルへ出ている。
まだ正午前に、商人が店を放って酒瓶の前に立っている。
この時点で、まともな知らせではない。
「まあ」
と私は言った。
「ずいぶん早いお帰りですこと」
「……きみか」
「ええ、妻ですもの。だいたいこの家におりますわ」
夫は嫌そうに眉を動かしたが、言い返す元気はないらしい。
顔色が朝よりさらに悪い。牛乳に少しだけコーヒーを垂らしたみたいな色である。
「ウィルコックスのところへ行った」
「そう」
「会ってもらえなかった」
「お忙しかったのね」
「違う。会わなかったんだ」
その言い方で、少しだけ事情が見えた。
単なる延期ではない。避けられたのだ。
商売の世界で“忙しい”は便利な言葉だが、本当に効くのは忙しさそのものより、その裏にある判断である。
今は会う価値がない、あるいは会うと面倒が増える。
そう思われた時、人はどんなに古い付き合いでもきれいに扉を閉める。
夫は続けた。
「番頭が出てきて、旦那様は急ぎの用向きで、と。だが窓から見えた。中にいたんだ」
「お気の毒に」
「きみ、他人事みたいに」
「他人事ではありませんわ。私もあなたの商売が傷むのは困りますもの」
すると夫は急にこちらを見た。
「なら、今からでも何とかしてくれ」
「何を?」
「ウィルコックス夫人に話せばいいだろう。女同士で親しいじゃないか」
「親しいからこそ無理ですわね」
「どうして」
「ご自分でお考えになって」
夫は口を開きかけ、閉じた。
そして腹立たしげに暖炉棚へ拳を当てたが、音はそれほど大きくなかった。怒りきるにも自信が足りないのだろう。
「彼らは誤解している」
「どのあたりを?」
「私が……軽薄な男だと」
「軽薄ではなく、本気だと昨夜おっしゃっていたでしょう」
夫はぎゅっと目をつぶった。
どうやら、そこを蒸し返されるのがいちばん苦しいらしい。
恋に酔っている時には自慢だった台詞が、朝になって商談に響き始めると急に重荷になる。
まるで昨夜の自分が今朝の自分の足首に石をくくりつけたみたいだ。実際そうなのだが。
「本気かどうかの話ではない!」
と彼は言った。
「では?」
「これは……私生活の問題だ」
「あなたは先日、暖炉の前でずいぶん雄弁に“人生の刺激”について論じていらしたけれど、今日は急に私生活なのね」
「当たり前だろう! 商売に持ち込むほうが卑怯だ」
「商売の看板を背負ったまま町じゅうで恋を見せびらかしておいて、持ち込まれたくないとは、ずいぶん器用な理屈ですこと」
夫はブランデーを注ごうとして、少しこぼした。
手が震えている。
ようやくである。
恋愛小説を気取るなら、せめてグラスくらい静かに持てればよかったのに。
その時、玄関のベルが鳴った。夫がびくりと肩を揺らした。
昨日の夜と同じ反応で、私はもう少しで笑うところだった。
人は一度効いた音に対して、驚くほど素直になる。
入ってきたのはメイベルではなかった。またしても、そちらではない。
今度は銀行の書記だった。
薄い封書を差し出し、「旦那様に」と言って、用件だけ済ませてすぐ帰った。
夫はその場で封を切り、中を読んだ。
そして、紙を持ったまましばらく動かなかった。
「何かしら」
と私が尋ねると、
「……信用枠の見直しだ」
と彼は言った。
ほう。
これは思ったより早い。
秋から冬へかけて、商家は仕入れに金が要る。現金だけで回る家ばかりではないし、銀行との関係は帳簿以上に顔で保たれることが多い。
その“顔”に曇りが出れば、数字が同じでも急に風は冷たくなる。
「一時的なものだ」と夫は、誰にともなく言った。
「年末前だから、どこも慎重なんだ」
「そうでしょうね」
「そうに決まっている」
だが、声に決まっている感じはなかった。
私は紙を見せてもらおうとはしなかった。見なくても十分だからだ。
銀行というものは、手紙の文面で人を叩きのめしたりしない。その代わり、丁寧な言葉だけで相手の肺から空気を抜く。
夫は椅子へ座り込んだ。
朝まではまだ「説明すれば済む」と思っていた男が、昼前には取引先に避けられ、銀行から釘を刺されている。
この町は、本当に働き者だ。
「エレノア」
と夫が言った。
声が少しかすれていた。
「きみ、まさか……」
私は待った。
たいてい男はこういう時、馬鹿な推理をする。
今朝の段階で私に出来ることなど限られているのに、自分に都合の悪い現実が一気に押し寄せると、つい“誰かが仕組んだ”ことにしたがるのだ。
世界が自分の失敗にこれほど素早く応じるとは、信じたくないのだろう。
「まさか、何ですの?」
「いや……」
夫はそこで口を閉じた。さすがに、私が半日のうちに卸商と銀行を動かしたとまでは言いにくいらしい。
そこまで私を買ってくれるのは嬉しいが、残念ながら私は魔女ではないし、ほうきで町の男どもを飛び回って躾ける趣味もない。
「違いますわ」と私は言った。
「私はただ、嘘をついていないだけですもの」
夫は私を見た。そしてその視線の中に、ようやく少しだけ本物の恐れが混じった。
おや、と思う。
ここへ来て、やっとわかり始めたのかもしれない。
自分が相手にしたのは、泣いてすがる妻でも、わめいて暴れる妻でもなかった。
黙って、整った姿のまま、事実を事実として立たせる妻だったのだと。
それがいちばん効くと、今ごろ知ったのだろう。
結構なことだった。
◇
その日の午後、私は約束どおり牧師館へ出向いた。
夫は客間に残り、信用枠の見直しとやらの手紙を前に、まだ何か考え込んでいた。
考え込む、というと聞こえはよいが、実際には椅子に沈み込み、紙を見てはブランデーを見、ブランデーを見ては紙を見ているだけである。
男の思案というものも、内容によってはだいぶ情けない。
外套を羽織りながら、私は一瞬だけ立ち止まった。
「今夜はお戻り、遅くなるかもしれません」
「……どこへ行く」
「牧師館へ。ミセス・リードからお誘いがありましたの」
「そんな時に?」
そんな時に、とは便利な言葉である。
昨日までは“そんな時”を自分で作っておいて、今日になるとこちらの外出にだけ驚くのだから、実に勝手がよい。
「こういう時だから、でしょうね」
と私は言った。
「教会の婦人方は、お暇ではありませんもの」
夫は何か言い返しかけたが、結局やめた。たぶん今の彼には、牧師館へ行くなと命じるだけの自信も残っていないのだろう。
こちらがどこへ行き、誰と茶を飲み、何を話すか。
その一つ一つが、もう自分の手の内ではないと、ようやくわかり始めたらしい。
◇
牧師館の客間は、いつも少しだけ乾いた花の匂いがする。
聖書と刺繍枠と薬草の束が、仲良く同じ棚に並んでいるのを見るたび、私はここが実に女たちの家だと思う。
男は壇上で神の言葉を説くが、その言葉のほつれを日々つくろっているのは、たいていこの奥にいる者たちだ。
ミセス・リードは暖炉のそばへ私を招き、紅茶を注いでくださった。
「お呼び立てしてしまってごめんなさいね」
「いいえ。お便り、ありがたくいただきましたわ」
「お疲れでしょう」
「少しだけ」
それ以上は言わなかった。
言わなくてもわかることを、わざわざ言葉にして増やす必要はない。
ミセス・リードも同じ考えらしく、しばらくは慈善市の話をした。
毛布の数、缶詰の寄付、冬の石炭代。だが、現実の話というものは案外ありがたい。夫の浮気だの背徳だのを相手にしているより、豆の値段のほうがよほど地に足がついている。
話が一段落したころ、彼女はそっとカップを置いた。
「今朝、夫が申しておりましたの」
「まあ」
「教会の理事のひとりが、ハロウェイさんのことを少し心配していると」
私は目を上げた。
心配、という言い方もまた上品である。
たいていそういう時の“心配”は、相手の徳を案じるふりをして、すでに評価が下がり始めているという意味だ。
「どのあたりを?」
「分別を」
とミセス・リードは大変静かに言った。
「店のこともございますし、教会への寄付の件もありますでしょう。来春の学校増築の話で、少し名のある方々にお声がかかるかもしれませんの。そういう時に、ご家庭の騒ぎが先に立つのは、あまりよろしくないと」
私はカップを持ったまま頷いた。
なるほど。もうそこまで行ったか。
教会の理事たちは、金だけで人を選ぶほど単純ではない。寄付はありがたいが、壇上の横に立たせる相手が、町じゅうの噂話の中心では困るのだろう。
ごもっともである。
「お気遣い、痛み入りますわ」
「あなたに申し上げるのも酷ですが」
「いいえ。知っていたほうが良いことですもの」
ミセス・リードは少し身を乗り出した。
「エレノア、ひとつだけ伺っても?」
「何でしょう」
「あなたは、どうなさるおつもりなの」
その問いは重かったが、押しつけがましくはなかった。
こちらに決断を迫るというより、椅子を引いて「立ち上がる時は声をかけて」と言ってくれるような響きだった。
私は暖炉の火を見た。
炎は規則正しく揺れている。世の中でいちばん腹立たしいことの一つは、自分の暮らしが傾きかけている時でも、火が妙にきれいに燃えることかもしれない。
「離婚はいたしません」
と私は言った。
「少なくとも今は」
「……そう」
ミセス・リードのまなざしは変わらなかった。
驚きも、安易な賛成もない。ただ、続きを待っている。
「自由にして差し上げるつもりはございませんもの」
私は続けた。
「妻がいるからこその刺激だと申しましたのよ、あの人は。でしたら、その妻が消えて差し上げる理由はありませんでしょう」
「ええ」
「自分で作った不始末の中に、ちゃんと立っていていただきますわ」
ミセス・リードは、そこでようやく小さく息を吐いた。
「お気の毒とは、やはり申しません」
「ええ」
「でも、あなたはお強いのね」
「強いというより、腹が据わっただけですわ」
それからの会話は穏やかだった。
子どもたちの学校のこと、冬支度のこと、来月の集会のこと。けれど、帰り際に彼女が手を握ってくださった時、その手のあたたかさに私は少しだけ胸を刺された。
こういう親切は、ありがたいが、同時に現実を固める。
ああ、もう本当に皆が知っているのだと、改めてわかってしまうからだ。
◇
夕暮れどきに家へ戻ると、玄関でミセス・ウェッブが珍しく少し早足で出てきた。
「奥様」
「何かあった?」
「旦那様が、帽子屋へ使いをお出しになりまして」
「まあ」
思わず声が軽くなる。
次が来たらしい。
「返ってまいりました」
「お手紙が?」
「ええ。封も切られず、そのまま」
私は外套を脱ぎながら、しばし黙った。
未婚の娘の家へ、既婚男が手紙を送る。それだけでももう十分に見苦しいが、しかも返送されるとは、なかなか良い趣向である。
恋文というものは、届かなかった時より、まるごと戻ってきた時のほうがよほど冷える。
「旦那様は?」
「書斎に」
「ご機嫌は」
「たいそうお悪うございます」
それはそうだろう。
使用人にまで状況が透けて見える不機嫌さというのは、だいぶ煮詰まっている証拠である。
私は書斎へは寄らず、先に二階の着替え部屋へ上がった。
わざわざすぐ覗きに行ってやるほど、親切な妻ではない。人は己の愚かさを噛みしめる時間を少しくらい与えられたほうが、たぶん教育上よろしい。
◇
夕食の席で夫は、封筒を脇に置いたまま座っていた。
見せつけるつもりなのか、隠す気力もないのか、判別しづらい置き方である。
「返ってきたのね」
と私は言った。
夫の肩がぴくりと動いた。
「見たのか」
「まだ。けれど、わかりますわ」
彼は封筒を裏返した。
表には確かにメイベル嬢の名があり、隅に小さく“受け取り辞退”と書かれている。筆跡はきっと父親のものだろう。実務的で、情緒の欠片もない。
夢の恋が、たった四文字で乾物みたいに片づけられている。
「ずいぶん失礼ですこと」
と私は言った。
「ええ?」
「あなたにではなく、恋愛小説に対して。せっかく情熱的なお手紙だったのでしょうに」
「きみは……!」
夫は怒鳴りかけて、途中でやめた。
怒鳴るには、さすがに材料が悪すぎる。こちらは何一つ嘘を言っていない。
「向こうの父親が勝手に差し戻しただけだ」
「そうでしょうね」
「メイベルは私を」
「必要としている、と?」
私はナプキンを膝へ広げた。
「それとも、本気なのだと?」
夫は唇を引き結んだ。
昨夜までなら、そこから長々と語っただろうに、今夜は言葉が細い。
人は銀行と卸売商と帽子屋に同時に現実を突きつけられると、急に詩人ではいられなくなるらしい。
◇
食事の途中で、また来客があった。
今度は驚くほど小さな話で、しかしその分じわりと効いた。
仕立て屋からである。
来週仕上がるはずだった夫の新しいフロックコートの仮縫いが、少々遅れるという知らせだった。
「それだけ?」
と夫は苛立って言った。
使いの少年は戸口で帽子を握りしめながら答えた。
「旦那が申しますには、その……注文が立て込んでおりまして」
「こちらは先月から頼んでいる」
「承知しております。ただ、先にお急ぎの方から――」
夫は少年を追い返すように手を振る。
少年が去ると、彼は苦々しく言った。
「仕立て屋までだ」
「まあ」
「偶然に決まっている」
「そうですわね。みなさま急にお忙しくなられたのね」
夫は私を睨んだが、睨みというのは勢いがあってこそ効果がある。
今のそれは、湿った薪がぱちりとも鳴らずに黒ずむのに似ていた。
私はスープ皿を押しやりながら思った。
本当に偶然かどうかはわからない。けれど、この町の職人というものは、案外妻の機嫌で順番が入れ替わる。
仕立て屋の仕事場で、女たちがどんな話をしているかを夫は知らないのだろう。知らないまま生きてきたのだろうし、これから知ってもたぶん遅い。
◇
翌々日には、さらにもう一つ届いた。
今度は義母からの手紙である。
チャールズの母は州都に住んでおり、普段は滅多にこちらへ口を出さない。
だが、一度だけ会った時から、私はあの婦人が“黙って見ている間は黙っているが、見過ごせぬと判断したら重いものを投げてくる人”だと感じていた。
手紙は四枚にわたり、たいそう立派な筆致で、まず季節の挨拶、次に私の体調への気遣い、そして三枚目の後半から本題に入った。
要するに、
お前は何をしているのです
という内容を、母親としての威厳と旧家の文体で三重に包み、しかも最後に
エレノアさんにこれ以上恥をかかせるなら、こちらも黙ってはおりません
と締めてある。
私は読み終えたあと、しばらく黙っていた。
そして不覚にも少し笑ってしまった。
恋の冒険者を気取っていた男が、ついに母親から叱責の手紙を受けるとは、なんとも結構な話である。
男の背徳ごっこは、母親の便箋ひとつで急に少年時代へ戻る。
夫は手紙を受け取るなり、色を失った。あれはなかなか見ものだった。
銀行の通知を見た時とも、帽子屋に断られた時とも違う。
もっと根の深い、古い習い性の震えである。子どものころ、悪さをして父親ではなく母親に見つかった時のそれだ。
「母上は事情を知らない」
と夫は言った。
「ええ、でしょうね」
「誰かが余計なことを」
「町というものは親切ですもの」
「皮肉を言っている場合か!」
私は手紙をたたみながら答えた。
「いいえ。今はたぶん、皮肉がいちばん役に立つ場面ですわ」
彼は歩き回り、立ち止まり、また歩いた。
書斎の絨毯が気の毒になるほどである。
だが気の毒といえば、こちらだって十分にそうだし、メイベルの家だってそうだし、店の若い者たちだってそうだ。
今さら一人だけ悲劇の主人公みたいに室内をうろつかれても困る。
「エレノア」
と夫はとうとう言った。
「今度の日曜、教会へは一緒に行こう」
「もちろん」
「……もちろん?」
「ええ。行かない理由がございます?」
夫は少し詰まった。
おそらく彼の考えていた“もちろん”は、自分の体面を保つために妻が黙って腕を組んでやる、という意味だったのだろう。
だが私の“もちろん”は、もっと単純だ。
私は教会員であり、寄付をし、婦人会に出入りし、牧師夫人と茶を飲み、冬の毛布の数まで気にする女である。夫の浮気一つで、その日課をやめる筋合いはない。
「並んで座ってもらえるのか」
と彼は恐る恐る言った。
その問いに、私はしばらく答えなかった。
暖炉の火が静かに鳴る。窓の外では風が出て、街路樹の枝が擦れた。
「座りますわ」
やがて私は言った。
「妻ですもの」
夫の肩から、少しだけ力が抜けた。
安心したのだろう。
そしてその安心が、どういう種類のものかを私はよく知っていた。
まだ看板は立っている。まだ自分は見捨てられていない。まだ何とかなるかもしれない。
そう思ったに違いない。
だから私は、その続きもちゃんと教えて差し上げた。
「ただし」
夫はまた身をこわばらせた。
「礼拝が終わったあと、どなたに何を訊かれても、私は嘘は申しませんわ」
部屋の静けさが、すっと薄くなった気がした。
夫は何も言わなかった。
言えなかったのかもしれない。
結構なことだった。
日曜までは、まだ数日ある。
そのあいだに何が届くか、少し楽しみですらある。
◇
日曜までは三日あったが、その三日も、夫にとってはなかなか親切ではなかった。
金曜には、倉庫へ入るはずだった豆の荷が半日遅れた。
それ自体は、この季節なら珍しくもない。道がぬかるむこともあれば、川の水位が変わることもある。
だが、普段なら「まあそういうこともある」で済む小さな遅れが、こういう時に限って妙に響く。
夫は帳場で声を荒げたらしい。ジョーンズが夕方、たいそう疲れた様子で帰ってきた。
「旦那様、ずいぶんご立腹で」
と、ミセス・ウェッブが私にだけ聞こえる声で言った。
「荷が遅れただけで?」
「荷そのものより、遅れた理由が気に入らなかったようで」
「理由?」
「御者が、向こうの倉庫で少々待たされたとか。先方が他の商会の荷を先に回したそうです」
私はそこで少しだけ眉を上げた。
先に回した、というのは良い言い方である。つまり後回しにしたのだ。
この町の商売人は、面と向かって絶交などしない。
その代わり、順番を少しだけずらす。返事を半日遅らせる。約束を来週にする。必要以上に丁寧な手紙を寄越し、肝心のところは曖昧にする。
紳士的で、実に陰湿だ。
◇
土曜には、もっと小さなことがあった。
夫が注文していた葉巻が、いつもの銘柄ではなく一段落ちる品になって届いたのである。
「こんなものは頼んでいない」
と彼は箱を見て言った。
「在庫がなかったそうでございます」
と若い使いの少年が答えた。
在庫がなかった。
それもまた、この時世なら十分あり得る。だが、その店の主人は昔から夫にへつらうくらい愛想がよく、少し高い葉巻でも「ハロウェイさんなら先に」と脇へ取っておく男だった。
その主人が代用品をよこしたのなら、品薄か、あるいは別の理由だ。
私は食堂のほうで帳面を見ていたが、夫が箱を乱暴に閉じる音ははっきり聞こえた。
恋の刺激とやらは、ずいぶん日用品にまで影を落とすらしい。
そして土曜の夜、夫はひどく不機嫌だった。
不機嫌、というより落ち着かないのだろう。客間で新聞を広げても、読んでいるというより紙に隠れているだけだったし、暖炉の前に立っても暖まっているのではなく、じっとしている理由がほしいだけに見えた。
「明日は、何時に出る」
と彼は、ようやく新聞の陰から言った。
「いつもどおりですわ」
「少し早めでもいい」
「どうして?」
「どうしてもだ」
私は編みかけの袖口から目を上げた。
夫は新聞を持ったままこちらを見ていた。いや、見ていたというより、こちらの返事に縋るような具合だった。
ずいぶん変わったものだ。つい先日は、真面目な妻がいてこその背徳だと得々としていた男が、今や日曜礼拝へ早めに行きたいと言う。
男の恋というものは、ずいぶん足元の冷えに弱い。
「お席を取っておきたいの?」
と私は訊いた。
「……そうだ」
私は毛糸を膝に置いた。
「取る必要はございませんわ。私たちの席は、いつも同じでしょう」
「だが」
「遅れたりはいたしません」
「エレノア」
その呼び方には、頼みたいのに命じる癖だけが残っていた。
なんとも中途半端である。威張るには力が足りず、へりくだるには自尊心が邪魔をしている。
見ていて少し気の毒ですらあったが、だからといって助け舟を出すほど、私は広い湖ではない。
「安心なさい」
と私は言った。
「逃げたりしませんわ」
その一言で、夫は少し黙り込んだ。
自分がまさにそれを恐れていたのだと、やっとわかったらしい。逃げられること。見捨てられること。
正妻が腕を引いて別の長椅子へ移ること。あるいは礼拝の場で、一人だけ空いた隣に座ること。
そんなものを恐れるくらいなら、最初から帽子屋の店先で恋人気取りなどしなければよかったのに、と私は思ったが、口にはしなかった。今さら追い打ちをかけずとも、日曜が勝手にやってくれる。
◇
翌朝、空はよく晴れた。
教会へ向かう馬車の中で、夫は妙に静かだった。
いつもなら、礼拝のあと誰それに会うだの、学校増築の寄付の話がどうだのと口にするのに、その日は窓の外ばかり見ている。
石畳の上を車輪が鳴り、冷たい朝の光が町を洗っていた。こういう朝には、人は小さな嘘より靴の泥を気にしたほうがましだと思う。
教会の前には、もう何台もの馬車が並んでいた。
夫は先に降り、いつもより素早く私へ手を差し出した。その手つきが妙に丁寧で、私は少しだけおかしかった。町じゅうの前では紳士で《《いたい》》のだろう。
いや、紳士であり続けたいのか。
その差は大きい。
入口の石段を上がる途中で、ミセス・グラントと出会った。
「おはようございます、エレノア」
「おはようございます」
「まあ、ミスター・ハロウェイもご一緒に」
ご一緒に。
何でもない言い回しだが、ほんの少しだけ綿を詰めすぎたクッションみたいに柔らかく、つまりは余計な含みがあった。
夫は帽子を取って挨拶したが、ミセス・グラントの目は私のほうへ向いていた。
「今朝は冷えますわね」
と彼女は言った。
「ええ。でも、お天気で助かります」
「本当に。こういう日は、何事もよく見えますものね」
私は「そうですわね」と答える。夫は聞こえないふりをした。
それもまた一種の才能だが、今日のところはあまり役に立たない。
◇
礼拝堂へ入ると、幾つかの視線がこちらへ流れてきた。
露骨ではない。誰もじろじろ見たりはしない。だが、見ていないようでいて、ちゃんと見ている。
この町の礼儀というものは、時として虫眼鏡よりよく焦点が合う。
私たちの長椅子へ着くまでのあいだ、三人の婦人と二人の紳士が挨拶をした。
婦人たちは皆、私に向かって少しだけあたたかかった。
紳士たちは夫に対して少しだけ堅かった。
ほんの少し、されどその少しが、朝の冷気よりはっきり皮膚へ触れる。
夫もそれを感じているらしかった。着席してから賛美歌集を開く指先が、昨日までよりやや慎重である。
説教は、驚いたことに姦通でも家庭の徳でもなかった。
牧師が選んだのは「人が委ねられたものに忠実であるべし」という箇所だった。
私は最初、その偶然に少し感心した。だが途中で、偶然ではないのかもしれないと思い直した。
牧師というものは、案外と世の騒ぎを聞いている。そして直接傷口へ塩を塗るかわりに、部屋じゅうへ塩気を漂わせるようなことをする。
忠実さ。委ねられた務め。公の信頼。私的な気まぐれによって損なわれる証し。
どの言葉も名指しはしていないのに、夫の耳にはずいぶん近く落ちているはずだった。
私の隣で、夫は一度だけ喉を鳴らした。
賛美歌を歌う声も、普段より控えめだった。いつもの彼なら、やや張り切って低音を響かせ、商会の主としての重みまで一緒に礼拝堂へ持ち込むのだが、その日はそうはいかなかったらしい。
重みというものは、持つ本人の足元が揺れると急に軽くなる。
◇
礼拝が終わると、夫は立ち上がる前に私を見た。
視線というより、確認に近かった。
ここで一緒に出るのか、別々に動くのか、どちらだと。
私は何も言わずに立ち上がった。妻として、隣の席から同じ通路へ出る。ただそれだけだ。
それだけのことで彼がほっとしたのがわかり、私は内心で小さく肩をすくめた。
刺激がどうこう言っていた男の安堵が、いまやこの程度で得られるのだから、人生はだいぶ倹約的である。
入口近くで、ミセス・リードが私の手を取った。
「今朝の聖句、よろしかったわね」
「ええ、本当に」
「人は、預かったものの重さを忘れがちですもの」
「ときどき、持っていることすら忘れますわ」
彼女の口もとがわずかに緩んだ。
夫はその横で咳払いをしたが、会話の流れへ入る勇気はなかったようだ。
そこへ、理事の一人であるミスター・フェルドンが近づいてきた。
白髪の、頑丈な顎の紳士で、来春の学校増築の話にも深く関わっている人物である。
「ミセス・ハロウェイ」
と彼はまず私へ言った。
「いつも婦人会へのご尽力、感謝しております」
「いいえ、とんでもございません」
「来月、寄付の品をまとめる時にもお力をお借りしたい」
私は頷いた。
そのあと、彼はようやく夫のほうを見た。
「ハロウェイ氏」
「フェルドン氏」
「先日お話ししていた委員会の件ですが、少し顔ぶれを見直すことになりましてな」
夫の肩が、ごくわずかに強張った。
「見直す?」
「ええ。学校のことですから、今はなるべく騒ぎの少ない方々で固めたい」
ああ、と思った。来た。
断り方としては、これ以上なく穏やかである。
騒ぎの少ない方々。
つまり、あなたではない方々。
礼儀の衣を着せてあるぶん、むしろ切れ味が良い。
「私が何か騒ぎを起こしたと?」
と夫は低く言った。
フェルドン氏は眉一つ動かさなかった。
「町の耳は早いものですな。ご家族のことはご家族でお収めになるのがよろしいでしょう。教会の事業へ余計な影を落としたくないだけです」
夫は何か言い返しかけた。
だがその時、ちょうど近くを通った別の紳士が「おはようございます、ミセス・ハロウェイ」と私へ声をかけたので、会話が半端に切れた。
しかもその紳士も、まず私へ挨拶し、夫には一拍遅れて帽子を動かしただけだった。
朝の礼拝堂の出口で、男が一番先に妻へ礼を言う。
それだけで、もう十分な説明になる。
夫は黙ったまま帽子を取った。
顎のあたりが少しこわばっている。怒りと屈辱のあいだで行き場を失った男の姿は、見苦しくもあり、どこか滑稽でもあった。
自分は恋に生きる洒落者のつもりでいたのだろうに、現実には教会の委員会から外される地方商人でしかない。その落差を埋めるには、どんな詩も足りない。
◇
教会の前庭へ出ると、冬の光がまぶしかった。
人々は小さな群れになって立ち話をし、子どもたちは石段の脇で追いかけ合い、御者たちは馬をなだめている。どれもいつもの日曜の景色だ。
ただ一つ違うのは、その中を歩く夫の立場だけだった。
ミセス・ウィルコックスが近づいてきて、私へ向かって言った。
「エレノアさん、来週の毛布の件、あとで少しご相談してもよろしい?」
「もちろん」
「助かるわ。こういう時こそ、しっかりした方が必要ですものね」
こういう時。
その四文字の中に何が入っているか、わからぬほど鈍くはない。
夫も聞いていたはずだが、何も挟まなかった。いや、挟めなかったのだろう。
そのまま二、三人と話をしてから、ようやく馬車へ向かうことになった。
石段を下りる途中、夫が低い声で言った。
「皆、きみにばかり話しかける」
「そうかしら」
「そうだ」
「婦人会の用がありますもの」
夫は少し荒く息を吐いた。
「わかっていて言うな」
「何を?」
「私がどう見られているかをだ」
私はそこで足を止めた。
前庭の端では、子どもが一人転んで泣き、母親がすぐ抱き起こしている。風は冷たく、鐘楼の上には薄い雲が流れていた。
日曜の朝としては、どこまでも普通だ。
「ようやく、お分かりになったのね」
と私は言った。
「私は最初から申し上げていたでしょう。あなたが遊んだのは、恋ごとではなく、家の看板だと」
夫はしばらく私を見ていた。
見ていた、というより、言葉を探していたのかもしれない。
だが結局、何も出てこなかった。
代わりに出たのは、冷たい息だけである。
◇
馬車へ乗り込む前、私はふと教会の入口を振り返った。
ミセス・グラントとミセス・リードが並んで立っていて、こちらへ軽く会釈した。
私は会釈を返した。その瞬間、夫の隣で思った。
ああ、まだ終わりではない。
これはまだ、ようやく人々が「この男は少々危ういらしい」と共有し始めた段階にすぎない。
真に効くのはここからだ。
なにしろ本人がようやく、自分の足元が崩れ始めていることを理解したばかりなのだから。
◇
家へ戻るまでのあいだ、夫はほとんど口を利かなかった。
馬車の窓に映る自分の影でも眺めていたのか、あるいは教会の前庭で交わされた言葉を胸の中で並べ替えていたのか、それは知らない。
だが、並べ替えたところで同じことである。委員会から外された。理事たちは距離を取り始めた。
婦人たちは私へ寄り、紳士たちは彼を少しだけ避けた。
事実というものは、順番を変えても味が良くなったりはしない。
◇
昼食の席で、夫はようやく言った。
「フェルドンは大げさだ」
「そうかしら」
「教会の仕事まで持ち出す必要はない」
「教会の方々は、たいてい必要のないことはなさいませんわ」
「きみは何でも私が悪いと言いたいんだな」
私はナイフを置いた。
「何でもとは申しません」
「では何だ」
「少なくとも、今回の件は」
夫は口を閉じた。
このところ、彼は口を閉じる回数が増えた。結構な変化である。男というものは、ときに沈黙から学ぶべきだ。
もっとも、それで賢くなるとは限らない。たいていは、言葉でごまかせなくなっただけである。
◇
昼食のあと、私は客間で来週の寄付の帳面を見ていた。
ミセス・グラントから預かった布の数、ミセス・ウィルコックスの毛布の口数、教会で集める缶詰の見込み。
そういう実務の列は心を落ち着かせる。数字は、浮気だの背徳だのと違って、自分が何であるかを妙に飾り立てない。
そこへジョーンズが来た。
帳場を預かっている、四十代の堅物である。父の代からこの店にいて、たぶんハロウェイ家の男たちを、店の商品より長く見てきた。
「奥様、失礼いたします」
「どうかなさった?」
「旦那様にお目通りをと思いましたが、お部屋にいらっしゃらないようで」
「何か急ぎ?」
「……少々」
彼の少々は、だいたい少々ではない。
私は帳面を閉じた。
「私でよければ聞きます」
「本来なら、旦那様へ申し上げることですが」
そう前置きしたあと、ジョーンズは声を落とした。
「バニスター氏のところから、次の荷は現金でとの申し出がございました」
「信用ではなく?」
「はい」
「急に」
「急に、でございます」
私は椅子の肘に指先を置いた。
ついにそこまで来たか、と思う。
信用商売の町で、現金を先にと言われるのは、数字の問題に見えて、半分は数字ではない。つまり、あなたを待つ気はない、ということだ。
「旦那様はご存じ?」
「まだ」
「では、私から伝えるのはやめておきます。あなたが先におっしゃって」
「承知いたしました」
ジョーンズは一礼したが、すぐには下がらなかった。
私は顔を上げた。
「まだ何か?」
「……奥様」
珍しく、彼は言い淀んだ。
「店の若い者たちも、少し落ち着きません」
「でしょうね」
「仕事に差し障るほどではありませんが」
「でも空気は悪い」
「はい」
私は小さく頷いた。
それも当然だ。商家の主人が町の笑いものになりかけていて、店の空気だけ晴れているはずがない。
働く者は天井の染みひとつで気分を変えるものだが、主人の染みはさすがに広すぎる。
「ありがとう、ジョーンズ。知らせてくれて」
「とんでもございません」
彼はそこでようやく下がった。
その背中を見ながら、私は思った。
夫が失っているのは、取引先の機嫌だけではない。店の中で当然のように持っていた重みまで、少しずつ削れているのだ。
しかも本人だけが、その目減りの速さを信じたがらない。
◇
夕方、夫はひどく苛立った足取りで戻ってきた。
玄関の扉が閉まる音で、だいたい察しがつく。うまくいった日の男は靴音が柔らかい。失敗した日の男は、まるで床板に責任を取らせるつもりで歩く。
私は居間で針仕事をしていた。
夫は入ってくるなり手袋を放り出し、帽子を椅子へ叩きつけた。
「ひどい話だ」
「何が?」
「メイベルだ」
私は針を止めた。
ようやくそちらが来たか、と思う。
「どうなさったの」
「店へ行った」
「帽子屋へ?」
「そうだ。父親が邪魔をするなら、本人と話せばいいと思って」
なるほど。実に筋の悪い判断である。
「それで?」
「会わせてもらえなかった」
「まあ」
「しかも」
夫はそこで言葉を切った。
言いにくいのだろう。言いにくい話ほど、だいたい聞きごたえがある。
「しかも?」
「他の男がいた」
私はまばたきを一つした。
「他の男?」
「薬種屋の甥だ。あの、背の高い、つまらない若造だ」
「薬種屋の甥御さんなら、州都で勉強して戻られた方でしょう」
「そんなことはどうでもいい!」
夫は暖炉の前を二歩ほど歩き、また戻った。
「メイベルは、あいつと話していた。笑って」
「店先で?」
「奥でだ。父親に取り次ぎを断られて、出てきたところで見えたんだ」
私はゆっくり針を置いた。
頭の中で、店先でこちらへ会釈した娘の姿と、今の話を並べる。
まあ、そうだろうと思う。
あの娘は、少なくとも一人の男に全人生を賭けて頬を染めるような種類ではなかった。
店の中で何が売れ、何が売れず、どの客がどれだけ使い、どの視線が面倒を呼ぶか、そのくらいはとっくに見ている顔だった。
「若い娘さんですもの」
と私は言った。
「若い男と話すこともあるでしょう」
「きみは何もわかっていない」
「そうかしら」
「彼女は私を」
必要としている。本気でいる。そのへんの言葉が出かかったのだろう。
だが夫は途中で止まった。
自分でももう、そう言い切るだけの力がないのかもしれない。
「彼女は、少なくとも私に笑っていた」
と彼は言い直した。
私は思わず目を伏せた。
笑っていた。
それだけで恋だと信じられるのなら、世の男たちはずいぶん安上がりである。
「ええ、でしょうね」
「どういう意味だ」
「帽子屋ですもの。客には笑うでしょう」
夫は私を睨んだ。
だが今の睨みには、怒りより傷ついた子どものような薄さがあった。
だんだん形が変わってきている。最初は虚勢を張った男の大きな影だったのに、今では明かりの位置ひとつで消えそうなほど頼りない。
「きみは冷酷だな」
「現実的とおっしゃってくださらない?」
「同じことだ」
いいえ、と私は内心で思った。ずいぶん違う。
冷酷なのは、妻と家と店の看板を抱えたまま若い娘へ夢を見た男のほうだ。私はただ、その夢が値札つきだったと申し上げているだけである。
◇
その夜は、さらにもう一つ届いた。
電報である。
州都から、チャールズの母親が翌日の午後に着くという知らせだった。
夫はそれを読んだとたん、椅子へ座り込んだ。
銀行の通知よりも、教会の理事よりも、帽子屋の拒絶よりも、よほど深く効いたらしい。母親というものは、成人した息子にとっても時として裁判官であり、過去そのものであり、つまり逃げ場のなさを一度に連れてくる。
「……どうして来るんだ!」
と夫は言った。
「電報があるくらいですもの。列車で」
「そういうことを聞いてるんじゃない!」
私は肩をすくめた。
「手紙では足りないと思われたのでしょうね」
「誰かが余計なことを吹き込んだんだ」
「町というものは親切ですもの」
もうこの台詞も、だいぶ使い慣れてきた。
夫は聞くたびに腹を立てるが、では他に何と言えというのだろう。この町は実際、驚くほど親切なのである。
人の愚行を決して見逃さず、しかも最も効く相手へきちんと届けてくれる。
◇
翌日、義母は予定どおり現れた。
ミセス・オーガスタ・ハロウェイは背の高い婦人で、喪服でも着こなせそうな濃紺の旅装をきっちりと整え、傘の先まで意志のある人だった。
年齢は五十半ばのはずだが、動きに少しも緩みがない。若い頃はかなりの美人だったろうと想像できる造作だが、今いちばん印象に残るのは美しさよりも輪郭の確かさである。
ああ、この人の息子がどうしてああなったのか、少しわからなくなる類いの母親だ。
「エレノアさん」
と彼女はまず私に言った。
「このようなことで参ることになって、実に申し訳ありません」
「いいえ、お義母様」
そして彼女は、私の返事を待たずに夫へ向き直った。
「チャールズ」
「母上、これは」
「黙りなさい」
一刀両断とはあのことを言うのだろう。
夫は本当に黙った。
五分ほど前までこの家の主人だった男が、一瞬で十二歳くらいまで戻ったように見えて、私は危うく視線を逸らすところだった。
笑ったわけではない。礼儀もある。ただ、だいぶ愉快ではあった。
「エレノアさん、少しお時間をいただける?」
「ええ、もちろん」
義母は私を客間へ連れていき、扉を閉めると、息をついた。
「詳しいことは、町で十分に聞きました」
「それは、お早いことで」
「州都でも、この手の話は汽車より先に届くのですよ」
私はそこで少しだけ微笑んだ。
なるほど。親切なのはこの町だけではないらしい。
「あなたは、どうなさりたいの」
義母は率直だった。
「離婚をご希望なら、私も力になります」
「ありがとうございます」
「ただし、そうでないなら、それもはっきり決めたほうがよろしい。あの子は今、自分の困った都合に押されるまま喋るでしょうから」
私はその言葉に頷いた。
困った都合に押されるまま。まったくその通りである。
「今のところ、離婚は考えておりません」
と私は言った。
「そう」
義母の目が、ほんの少しだけ細くなる。
反対ではない。続きを確かめる目だ。
「自由にして差し上げるつもりはございませんもの」
「ええ」
「妻がいるからこその刺激なのだそうです。でしたら、その妻がいなくなって、被害者の顔をされては困ります」
義母はしばらく黙っていた。
やがて、ごく静かに言った。
「よろしい」
「お義母様?」
「気に入りました」
私は思わず瞬きをした。
「もっと泣いておいでかと思ったのです。あるいは、怒りのあまり全部壊したいと願っておいでかと」
「多少はございますわ」
「でしょうね。でも、あなたはきちんと立っていらっしゃる」
彼女は手袋を外しながら言った。
「でしたら、あの子には立ったまま恥を見させればよろしい」
さすが親子である。
いや、親のほうがだいぶ出来が良いが、少なくとも言葉の刃先は似ているのかもしれない。
◇
その午後、義母は夫を一時間ほど書斎へ閉じ込めた。
何を言ったかは知らない。
だが、終わって出てきた夫の様子を見れば、おおよその見当はつく。背筋は伸びていたが、その伸び方が勝ち誇った男のものではなく、叱られた生徒が廊下へ出てきた時のそれなのだ。
頬は少しこけたように見え、口もとには妙な乾きがあった。
◇
夕食で義母は穏やかに話した。
州都の店のこと、列車の混み具合、冬の石炭の値上がり。夫には一切触れない。触れないほうが、かえって効く場合がある。
そして食後、彼女は何でもない顔で言った。
「来週の学校増築の寄付、私の名前で少し足しましょう」
「母上」
と夫が言うと、
「あなたのためではありませんよ」
と即座に返ってきた。
私はカップを持ったまま、心の中でそっと拍手した。
音を立てない拍手というのは案外難しい。
◇
翌々日、決定的なものが来た。
銀行からの正式な通知である。
信用枠の一部停止。季節物の仕入れは、当面現金比率を増やしてほしいとのことだった。
文面は実に丁寧で、配慮に満ち、こちらの長年の取引へ深く感謝しており、今後も変わらぬ関係を望んでいると書いてある。
そして、そのどこを読んでも、こちらを信用しているとは書いていない。
夫は通知を読み終えると、机へ両手をついた。
義母はその横で黙っていた。私は少し離れて立っていた。
部屋の中には暖房の乾いた熱があり、窓の外には灰色の空が広がっている。こんな日に商売の土台が少し沈む音を聞くのは、なんとも季節に合っていた。
「一時的なものだ」
と夫は言った。
もはや誰も相手にしない種類の言い訳だった。
「一時的でも何でも」
と義母が言った。
「お前が自分で招いたことです」
「母上まで」
「までではありません。むしろようやくでしょう」
夫は私のほうを見た。
「エレノア」
その呼び方で、私は少し身構えた。
よくない頼み方が来る時の声だったからだ。
「少し、話がしたい」
義母が立ち上がった。
「私は部屋を外しますよ」
「いいえ、お義母様」
と私は言った。
「いてくださいな」
夫の眉が動いた。
おそらく二人きりで、何か都合のいい形へ持ち込みたかったのだろう。だが、私はもう、彼の都合のいい密室に入るつもりはなかった。
「何でしょう」
と私は促した。
夫はしばらく黙った。それから、ひどく苦いものを飲み込むみたいに言った。
「……しばらく別に暮らしたほうがいいかもしれない」
「まあ」
来た、と思った。
やはりそこへ落ちるのか。
「町の空気も落ち着くまで」
と夫は続けた。
「きみにとっても、そのほうが」
「私のため?」
「そうだ」
「あなたが家を出るの?」
「いや、そうではなく」
ここで言い淀むあたりが実に彼らしい。
つまり、自分はこの家と店と看板を保持したまま、私だけを少し脇へどけたいのだ。
そうして“いろいろあったが別居中”という、最も自分に都合のいい曖昧さへ逃げ込むつもりらしい。
なるほど、反省はしていない。困っているだけだ。最後まで、その筋はぶれない。
「私は出ていきませんわ」
と私は言った。
「この家は私の家でもありますもの」
「そういう意味では」
「では、どういう意味?」
「今は、少し距離を置いたほうが」
義母がそこで鼻で息をついた。
夫はびくりとした。
「距離」
と私は繰り返した。
「あなたが帽子屋の娘さんと店先でお取りになっていたものなら、もう十分ではなくて?」
「エレノア!」
「あなたは私に、離婚は望まぬ、家は壊したくない、けれど自分の気分のために浮気はしたいとおっしゃったのよ。今度はそれがまずくなったから、少し距離を置こうと?」
「私は事態を収めようとしているんだ」
「ええ。ご自分が立っていられなくなった場所から、滑らかに退きたいだけでしょう」
夫は青ざめた。
言い返したかったのだろうが、言葉より先に事実が部屋に満ちていた。
銀行の通知、卸の現金条件、教会の委員会、帽子屋の拒絶、母親の来訪。そのどれもが、彼のほうを向いて黙っている。
黙っている事実ほど、人を追い詰めるものはない。
「離婚はいたしません」
私ははっきりと言った。
「別居もしません」
「きみは……」
「あなたがご自分のしでかしたことの中で、ちゃんと夫として、店の主人として、息子として、教会員として立っているところを見届けますわ」
義母がゆっくり頷いた。
「私もそのほうがよろしいと思います」
と彼女は言った。
「甘い逃げ道は、もう十分お与えになったでしょう」
夫は椅子へ沈み込んだ。その様子は、ようやく本当に何かを失った男のものだった。
恋ではない。恋など最初から大した中身はなかったのだろう。
失ったのは、自分だけは体面も家も保ったまま、少しばかり刺激的に生きられるという幻想である。
◇
数日後、学校増築のための寄付を集める会が開かれた。
私は義母と並んで会場へ行き、毛布の帳面を持ち、婦人たちと話し、必要な布の数を確認した。
夫も来ていた。来ないわけにはいかない立場だったし、来たからといって以前のように大きな顔ができるわけでもなかった。
人はそういう中途半端な位置に立たされると、急に背丈が合わなくなる。
けれど、その日ひとつだけはっきりしたことがある。
寄付の席で、ミスター・フェルドンが皆の前で私の名を挙げたのだ。
「婦人会の働きと、ミセス・ハロウェイのお力添えに感謝を」
拍手が起きた。
大きすぎず、けれど確かに部屋を満たす拍手だった。
私は立って一礼した。義母も隣で軽く頷いた。
夫は少し離れた場所に立っていた。
そのとき私は思った。
ああ、これで十分だ、と。
彼を失脚させてやりたいわけではない。破産させたいわけでも、追い出したいわけでもない。
だいたい私が離婚して何になる。実家に戻ってそれで安泰なんて無理に決まってる。だからそれは元々選択肢にない。
ただ、自分の家と妻と看板を背負いながら、背徳ごっこだけを甘く味わえると思った、その考え違いを、二度と気楽に口にできないようにしたかっただけだ。
そしてこの先、私の信用で店が持ち直していくのをその目で見ればいいのだ。
◇
会が終わって帰る馬車の中で、夫はずっと黙っていた。
義母は窓の外を見ている。
私も何も言わなかった。
家へ着き、玄関の灯りの下で外套を脱いだ時、夫がぽつりと言った。
「……きみは、本当に出ていかないんだな」
「ええ」
「このままずっと?」
「少なくとも、あなたが楽になりたいからという理由では」
夫はしばらく立っていた。
そして、ひどく疲れた声で言った。
「私は、ずいぶん馬鹿だったらしい」
私はその言葉を聞いて、少しだけ考えた。
謝罪ではない。告白とも違う。ただ、ようやく自分の位置を見た男の、乾いた報告みたいなものだ。
それでも最初の頃に比べれば、たいそうな進歩ではある。
「ええ」
と私は答えた。
「ようやく、そこまでは」
義母が背後で小さく咳払いをした。
たぶん笑いを堪えたのだろう。私も少しだけ口もとが緩んだ。
暖炉の火は、その夜もきれいに燃えていた。
夫が最初に愚説を披露した晩と同じように、ぱちりと音を立てる。
ただ違うのは、もう彼がその火の前で恋の冒険者を気取っていないことだった。
結構なことである。
真面目な妻がいてこそ浮気は甘美なのだと、あの人は言った。
ならば、その真面目な妻が変わらず家にいて、変わらず町へ出て、変わらず嘘をつかなかった時に何が起きるかも、きちんと味わっていただけばよろしい。
離婚はしない。
それが、いちばんの罰なのだから。




