恋綴り
――春眠、暁を覚えず。
四月序盤は、風がやや冷たく日差しが暖かい。
そんな空気の中で眠たくなる授業を聞くのは、二年生になったばかり、十七歳程度の少女達にとって、苦痛というよも、苦行でしかなかった。
窓際の一番後ろともなると、その感覚も大きくなる。
春の太陽と風は、その席に着く少女を眠りへと誘う。
生徒に厳しいと評判の中年数学教師の印象を悪くしたら、一年間のテストが辛くなる。
だからその少女は、襲いかかる睡魔をはね除けようと、脳内でタップダンスを踊る羊に狼をけしかけていた。
だが、そんな横道にそれた妄想が悪かったのか、少女の意識はだんだんと身体から剥離しようとしていた。このままでは、数学に赤い印しがつけられてしまう。そんな、取り留めもない極端な思考が、少女の頭を緩やかに埋め尽くしていく。
少女は、負けるものかと気合いを入れると、シャープペンシルをノックして、書き出せる体勢に移行する。目標は、自分の机。眠気覚ましの落書きタイムだ。
蝶を追いかける熊を、木陰から狩人が狙っている。
その狩人を木の上から狙う猿と、猿の頭上でほくそ笑む炊飯器の化け物。
ここまで書いて、少女は自分の脳を疑った、普段何を考えて生きているのか解らない、不思議な絵だった。
やがて少女は、机の上に自分以外の文字があることに気がついた。
ころころとした可愛い字。その主は、女性だろう。
何故自分の机にこんな落書きがあるのか。そんなこと、少し考えればすぐに解る。
この学校は、夜間にも開いている。その夜間の部の生徒が少女と同じ席で、この落書きを書いたのだろう。
机の端に綴られた“眠い”の二文字が、小さな共感を少女の胸に抱かせた。
少女はふとあることを思いついた。
そして、思いついたからには即実行に移る。
なにせ、眠気覚ましも兼ねているのだから。
ノートの最後を、音を立てないように切り取ると、それにシャープペンシルで文字を綴っていく。手紙の出だしは、すぐに思い浮かんだ。
『初めまして。私も眠いです』
眠気を表現する、猫のイラストを書き添える。
それだけで、質素な手紙がぐっと可愛らしくなった。
『眠気覚ましに、文通しませんか?』
その一言を綴ると、そこからはもう自由だ。
好きな言葉を書き綴り、好きな歌詞を書き殴る。
授業の終了までそうすると、眠いと書かれた文字の下に、矢印を書いた。
そして、矢印に気がつくように願いながら、手紙をそっと机に入れた。
思わぬ暇つぶしが出来たことに、少女――水島香澄は、小さく微笑んだ。
†
香澄は、一言で言い表すのなら、すこし真面目な“普通”の生徒だ。
この年の女子高生にしては珍しく、染めていない黒い髪と、着崩さずに身を包む制服。
スカートの丈も長くもなく短くもない。彼女の友人達に比べれば、長いくらいだろう。
校則に違反しない程度のナチュラルメイクは、彼女の雰囲気を落ち着かせる。
あまり派手なことが好きではない香澄は、こうしてひっそりのんびりとしているのが好きだった。
「かすみんっ!」
荷物を纏めて帰宅しようとしていた香澄に抱きつく、小さな影。
色素の薄い茶色の髪をショートにした、小柄な少女。
「千穂……」
彼女は安西千穂。香澄の幼なじみである。
くりくりとした大きい目と、一見校則違反と思われがちな、金に近い薄茶色の地毛。
千穂は、女子の平均身長よりも僅かに低い香澄の背よりも、さらに頭一つと少し低い背だ。
「ささ、一緒にかえろー」
ふにゃけた表情で、へらりと笑う千穂。
香澄の首に巻き付く彼女は、地元の道場に通う、柔道二段。
小柄な体型に見合わない、強い女の子だ。
「そうだね。さっさと帰ろう」
千穂に促されて、帰宅する。
桜の花が咲く校庭を抜けて、帰宅する生徒で賑わう正門へ歩く。
吹き抜ける春一番の心地よさに、香澄はそっと目を閉じた。
†
閑静な住宅街の一角。
駅からはやや遠く、車以外の交通の便が不便なため土地が安かった、という理由で香澄の父親が購入した、広い家。青い屋根に申し訳程度に設置された、ソーラーパネルが目印だ。
道の途中で千穂と別れて、香澄は一人帰宅した。
小さな門を潜ると、まず聞こえてくるのは、元気な柴犬の鳴き声だ。
『ワンワンッ』
「おかえり流星号」
犬の名前は、香澄の母親――香織――がつけたものだ。
流星号の親である彗星号からちなんで名付けたと言っていたが、彗星号も香織が幼い頃につけた名前だ。実に斬新なセンスである。
玄関を、鍵を使って開ける。
ローファーを脱いで、玄関に上がると、振り向いて靴を揃えた。
「ただいまー」
「――おかえり~」
やや間延びした、のんびりとした声。
どこかぽやぽやとしている、香織の声だ。
「あれ?雪人、まだ帰ってないんだ」
「ゆきくん、今日は部活だよー」
リビングに入ると、そう呟く。
すると、庭で洗濯をしていた香織が、ひょっこりと頭を出した。
黒のウェーブががかった、長い髪だ。この癖毛は、香澄には受け継がれなかったようだ。
香澄は髪を伸ばさずセミロングで切りそろえているため、髪型も異なるが、顔立ちはよく似ていた。
香澄は、母親譲りの滑らかな黒髪が、自慢だった。
いつものならリビングでだらけている弟の姿が見えず、香澄はそう訊ねた。
そして、返ってきた答えに、今日は弟は、サッカー部の練習だったかと納得した。
雪人は、高校一年生。香澄と比べてワンランク下の男子校に通っている。
時折弟に勉強を教えるのは、家族の中でも彼女の役割だ。
冷蔵庫からペットボトルのお茶を取り出すと、それを持って二階に上がる。
自分の部屋に入ると、予習復習を済ませてから、雑誌を広げてベッドに転がった。
「手紙、見つけてくれるかな」
そう零した香澄の顔は、期待の笑顔に花開いていた。
彼女の日常に、一つの変化が、生まれようとしていた。
†
翌日、眠気と戦わなければならない数学の授業で、香澄は机の中を探った。
事前に調べておくのは、味気なかったので、今調べるのだ。
机の中に伸ばした手。
その手に当たる、小さな紙の感触。
ゆっくりと引き抜くと、自分の書いた紙ではない、感触。
手紙を開くと、そこには似た様な出だしがあった。
『初めまして。はい、私も眠いです。すごく』
そんな出だしに、香澄は頬を綻ばせた。
日常的なことや趣味、眠気覚ましになんでも書こうと綴った言葉が、全て返ってくる。
与え合う情報は、互いを特定できない簡素なもの。向こうもこちらも女性同士のお話だ。
シャープペンシルを手に、ノートに綴る。
最後に書かれたイニシャルは“m・k”だった。
香澄はそのイニシャルに目を丸くすると、自分のイニシャルも最後に書き綴る。
『それでは、“また”――――k・m』
この日から、顔も知らない女性と香澄の、小さな文通が始まった。
†
ある日は、香澄は道路で犬の散歩中に見つけたお地蔵さんの話を書いた。
すると彼女は、散歩帰りに見た、一際大きな木の話を綴った。
ある日、香澄は散歩コースですれ違う、顔のよく似た犬と飼い主の話を書いた。
すると彼女は、馴染みのカフェにいる、顔のよく似た姉妹の店員の話を綴った。
ある日、香澄は道で見つけた綺麗な白い花を、押し花にして手紙に挟んだ。
すると彼女は、自分のお気に入りの場所でみつけた桃色の花の話を綴った。
ある日、香澄はゴールデンウィークに京都へ行く話を自慢した。
すると彼女は、ゴールデンウィークに婚約者と旅行へ行く自慢をした。負けた。
ある日、香澄は散歩中にお気に入りのピアスを落とした話を書いた。
すると彼女は、お気に入りの場所でお気に入りの指輪をなくした話を綴った。
二人は、授業そっちのけで、手紙を交換した。
そうしている内に、いつの間にか、眠気覚ましが目的ではなくて、手紙のやりとりそのものが目的となっていた。
†
ゴールデンウィークが開けても、香澄は手紙を書いた。
だが、翌日帰ってきた手紙に、妙な胸騒ぎを覚えた。
その胸騒ぎの理由は、わからない。
だが、香澄の勘は、割と良く当たるのだ。
家に帰っても胸騒ぎが収まらなかった香澄は、踵を返して学校へ向かった。
走ってはいるが、そう早く学校へは戻れない、交通の便が不便だから、徒歩で通っている程、面倒な道のりなのだ。
夕暮れの校舎に入る。
駆け足で階段を上って、そこからは、慎重に。
ゆっくりと歩いて、教室を覗き込む。
そこには――自分の机に“手紙”を入れる、茶髪の男性の姿。
同じクラスの少年――――“香川、満”。
そのイニシャルに思い至り、香澄は思わず教室に飛び込んだ。
「水島……」
「なに、してるの」
満は、手元の手紙に気がついて、鳶色の目を泳がせた。
その仕草が“認めて”いるようで、香澄はその場にいることが耐えきれなくなり、背を向けて走った。
「み、水島!」
悔しかった。
女性のフリをしていた手紙に、気がつかなかったことが。
悔しかった。
まんまと騙されていたことが。
悔しかった。
――――顔は合わせなくても、“友達”だと、思っていたのに。
屋上に上がって、柵まで走る。
夕暮れを見ながら、香澄は涙をにじませた。
「水島!」
追ってきた満に、振り返る。
満は、涙に濡れた香澄の顔を見て、辛そうに目を逸らした。
「笑いに来たなら、笑えばいいでしょ?今までだって、笑ってきたんじゃないの?」
淡々とした声は、必死に激情を押し殺そうとしている証だった。
満は、その言葉に申し訳なさそうに――――首を、振った。
「違う」
「なにが」
「違うんだっ!」
自分よりも先に声を張り上げられて、香澄は肩を震わせた。
何故自分が怒鳴られているのか解らず、理不尽に対する怒りよりも、困惑が強くなる。
「ついてきてくれ」
「え――?」
踵を返して歩く満。
ますます意味がわからない。
だけど――――。
「ちょっ、ちょっと!待ってよ!」
――――ここでついていかなければ、後悔するような気がして。
香澄は、俯いて歩く満を追いかけた。
†
歩いている最中も、タクシーに乗り込んでからも、満はずっと無言だった。
その一種異様な空気に気圧されて、香澄は泣いていたことも忘れてついていった。
そして、辿り着いたのは――都心部の、総合病院だった。
ためらいもなく進んでいく満の背を、追いかける。
そして、ごく自然な歩みで、個室に入った。
「ちょっと――――え?」
その場所で香澄が見たのは、機械に繋がれて眠る、包帯姿の女性だった。
ベッドに横たわる姿は、見ていて痛々しい。
そして、その枕元。
そこに置いてある“手紙”に、香澄は目を見開いた。
それは、自分がやりとりしてきた、手紙。
「“真宮、佳奈”――俺の、従姉だ」
「まみや、かな」
その、イニシャルは――。
「ゴールデンウィークに、出かける前……交通事故で、意識不明になった」
ふらふらとおぼつかない足取りで、ベッドの上の佳奈に近づいた。
閉じられた目は、穏やかだ。
「意識を失う直前に、手紙を“もっと、続けたかった”って言ったんだ」
だから満は、自分が代わりに続けようとした。
人の字を真似るのは、満が得意とするところだった。
「でも、それって、水島を“騙す”こと、だったんだよな」
満の顔は、悔しげだ。
香澄に怒られるまで、彼はそれに気がつくことが出来なかった。
――――大好きな従姉の顔に、泥を塗りたかった訳じゃないのに。
「だから、ごめん」
その声に含まれた、真摯な感情。
佳奈を見た時点で、香澄の心に怒りはなく、この言葉で、僅かな翳りも消え去った。
「私こそ、疑ってごめん……佳奈さんのこと、聞かせて貰っても良い?」
「水島……あぁ、あぁ……聞いてくれ。なんでも、聞いて欲しい」
病室の、椅子に座る。
佳奈にも佳奈のことを聞かせるというのはおかしな話だが、それで目が醒めて欲しいという願望も、あったのだ。
満は、香澄に色々なことを話した。
小さい頃の、佳奈との思い出。
案外抜けている佳奈の、失敗談。
音楽が好きで、良く聞いているというCDの話。
二十歳に結婚を約束していた男が、事故と同時に婚約を破棄してきた、話。
感心して、笑って、納得して、憤慨して。
聞き入る香澄に、満は佳奈の話を続けた。
「お気に入りの指輪をなくしたって、落ち込んでたな」
そう呟いた、満の言葉。
香澄はそれを聞いて、勢いよく立ち上がった。
「それ、探そうよ!」
「え?」
「探して、佳奈さんに届けよう!」
困惑する満の手を掴んで、香澄は正面から、椅子に座る満の目を覗き込んだ。
あっけにとられていたが、満はすぐに、笑って頷いた。
「敵わねぇな……そうだな、うん。探そう!」
そこに、先ほどまでのわだかまりはない。
ただ、決意の笑顔だけがあった――。
†
集合は、日曜日。
佳奈が良く歩いていたという場所に、二人は集まった。
「この辺りをぐるぐると歩くのが趣味だった、みたいなんだけど」
「うーん……まずは歩いてみよう!」
古ぼけた神社、苔の生えた小川。
小さいけれど活気のある商店街。
寂れた映画館と、小ぎれいな喫茶店。
とくに手がかりの無いまま、二人は喫茶店で休憩していた。
「うぅ、なにかキーワードでもあればいいんだけど」
「そんな都合良くは、いかないか」
机に突っ伏して、項垂れる。
諦めるのはまだ早いが、息抜きが欲しかったのだ。
ストレートティーを注文して、窓の外を眺めながら、見逃している除法は無いかと考える。
満も、同じような気持ちで、額に指を当てていた。
「お待たせしました」
「あ、ありがとう、ござい……」
受け取ったまま、香澄はウェイトレスの女性の顔を見て、固まった。
満は、そんな香澄の様子を見て首をかしげていた。
「水島?どうし――」
「そうだっ!」
香澄はストレートティーをその場で一気飲みをすると、お金を置いた。
そして、満の手を引いて店を飛び出した。
喫茶店では、飲み物を持ってきたウェイトレスと“顔のよく似た”レジの女性が首をかしげていた。
「ど、どうしたんだよ!」
「手紙!」
香澄は、手提げ鞄から、佳奈に貰った手紙を取り出した。
そして、そこに書いてある内容を下に、走る。
「道を抜けて、花屋があって、公園があって――そう、一際大きな木!」
目を丸くする満をよそに、香澄は進んでいく。
大きな杉の木の下を走って、まっすぐと突き進む。
その足取りには、迷いもためらいも、なかった。
「桃色の、花」
薄い桃色の、小さな花。
名前も知らない花が咲いた、開けた場所。
手紙が導いた、友達の“お気に入りの場所”に、香澄は笑みを浮かべた。
「探そう」
「え?」
その風景がどんな場所か。
それだけ聞いていた満は、見事に探し当てた香澄に目を丸くしていた。
「ここで、佳奈さんは指輪をなくした……だから、一緒に探そう!」
今更ながらに、お気に入りの場所でなくしたという話を思い出した満は、苦笑を零した。
だが、その顔は、どこか嬉しそうだった。
「あぁ……うん。探そう」
桃色の、花畑。
満は優しい笑みを浮かべたまま、身体を屈めて探し出した。
†
空が茜色に染まる頃、香澄と満は満足げな顔で帰るところだった。
香澄の鞄の中には、探し出した指輪が入っている。
「佳奈さん、喜ぶかな」
「喜ぶよ、絶対」
満の顔は、優しげだ。
その暖かい表情に、香澄は和やかに笑った。
彼が笑っているところを見るのが、なんとなく、気に入っていた。
「うん、そうだよねっ」
そう言って、笑う。
満も、香澄がこうして笑うのを見るのが、やはりなんとなく、気に入っていたのだ。
駅へ向かおうという道。
小さな商店街にさしかかったとき、香澄は後ろからぶつかってきた男に突き飛ばされた。
そこを、慌てて満が支える。
「あ――――鞄」
香澄の手提げ鞄を持って、走る男。
あの中には、思い出の詰まった手紙と――――指輪。
「ちっ!」
「ひったくり!」
叫びながら、走る。
だが、スタートが遅れていたせいで、離されていく。
「誰か!捕まえてっ!」
香澄の声を聞きながら、ひったくりの男はマスクの下でほくそ笑む。
それほど大事なものなら値がつくはずだ。遊ぶ金が増えると、笑う。
男は、走る先に立ちふさがる、小柄な少女の姿を見つけた。
邪魔をする障害を突き飛ばそうと、走りながら手を伸ばす。
少女は、男の伸ばした右手を払うように、左手で逸らす。
そしてそのまま男の右手を掴むと、力の流れを利用して、男の懐に背を向けて潜り込んだ。
「へ?」
「でりゃあぁっっっ!!!!」
そして、走っていた勢いを全て利用して、投げ飛ばした。
見事な一本背負い投げだ。
「ふぎゅっ!?」
「――成敗」
蛙の潰れたような声をあげて、男は気を失った。
その男を見下すと、少女――千穂は、一言そう呟いた。
彼女の道場はこの近所。
道場の帰りだったのだ。
「で?どうしたの?かすみん」
「千穂……ありがとう」
万感の念を込めて千穂から鞄を受け取ると、香澄はその場にへたり込んだ。
そんな香澄を支える、満を見て、千穂は得心がいったように頷いた。
「警察への調書はわたしがやっておくからさ、二人は安心して続けて良いよ~」
「へ?千穂?」
「お、おい、安西……」
やってきた警察の下へ走っていく千穂。
香澄と満は千穂がどのような“勘違い”をしたのか思い至り、顔を見合わせて赤くなった。
†
夕暮れの、病室で、香澄は佳奈の枕元に座る。
その後ろでは、満が香澄の両親に事情を説明していた。
香澄は佳奈の手を握ると、その手に桃色の宝石がついた指輪を握らせる。
「私は、佳奈さんと、お話がしてみたいです」
佳奈に、ゆっくりと語りかける。
包帯で巻かれた佳奈の頭、僅かに見える、栗色の髪。
「たくさんお話しして、もっと佳奈さんのことが知りたいです」
指輪を握らせた、佳奈の左手。
その手を、香澄は優しく包み込む。
「一緒に笑って、一緒に泣いて、一緒に遊んで、佳奈さんと過ごしたい」
香澄は、目を閉じて、包んだ手を自分の頬に当てた。
「私の願い、叶えてくれませんか?私も、佳奈さんの願いを叶える、お手伝いがしたい」
そして、一筋の涙をこぼした。
「教えてくれませんか?佳奈さんの、願い」
こぼれた涙が頬を伝い、佳奈の手を伝って、指輪に落ちた。
指輪に涙が染み渡り――――そして。
「――――ん」
佳奈の瞳が、ゆっくりと、開いた。
「佳奈!」
「佳奈ちゃんっ」
「姉さん!」
佳奈の両親と、満が、佳奈に駆け寄る。
佳奈はまだはっきりとしない意識の中で、それでも薄く微笑んだ。
「わた…し…も……おはなし……したい…です…」
そうして、再び目を閉じる。
今度は意識を失った訳ではない。
体力を回復させたら目が醒める、緩やかな眠りだ。
香澄はその手を握ったまま、大粒の涙を流しながら、頷いた。
「はいっ!」
そしてそれでも、暖かな笑みで、笑って見せた。
†
朝焼けの空の下。
病院の屋上で風に当たる香澄の隣りに、満が並んだ。
「佳奈さんのそばに、いなくていいの」
「うん。おじさんもおばさんも、沢山話したいことがあるみたいだしね。――――婚約のことも、なんだか納得してるみたいだった」
こうなることがわかっていた。
そんな風に、寂しそうに微笑んだ、佳奈。
その顔を見て、自分では理解できない“なにか”があるのだと、満は感じた。
「でも、好きだったんじゃないの?佳奈さん」
その言葉に、満は苦笑した。
隣に佇む人の顔を覗くことが出来ないのは、香澄も同じ。
二人とも、顔を見れば、言葉を交すことが出来なくなってしまう。
「俺」
「うん」
短い言葉。
その言葉に込められた想いは、よくわかっていた。
「水島のことが、好きだ」
「うん」
香澄は頷くと、満の手に、自分の手を重ね合わせた。
「私も、好き」
手を握る。
すると、満も、暖かく握り返した。
朝日を全身に浴びながら、ゆっくりと目を合わせる。
満は赤い顔で微笑み、香澄は同じような顔色で、はにかんだ。
暖かい、光の中。
二人の影が、ほんの少しだけ重なった――――。
†
季節が巡り、春になる。
玄関で待ち合わせて楽しそうにデートへ向かう姉とその恋人の姿に、雪人はため息をついた。いつまで経っても、姉はバカップルだ。
そう言ったら姉は否定するが、否定できるのは当人達だけだ。
だいいち、惚気話を聞かされている雪人は、それを言う権利があった。
それを言うのなら、雪人だって。
そう言い返した姉に、雪人は言葉を詰まらせたことがある。
彼も散々、自分の姉に“恋人”の自慢話をしていたのだ。
甘い会話に花を咲かせる姉の姿を見て、雪人は年上の彼女に、無性に会いたくなった。
そして、それならば会いに行こうと、携帯電話を開く。
「あ、佳奈さん……雪人だけど、今から――――」
桜の季節から始まった、小さな手紙に書かれたことば。
繋がっていく感情は、今もなお紡がれ続けている。
彼ら、彼女らの胸に刻まれた、小さな小さなことば。
それはきっと、暖かくて、優しくて、甘い――――。
――――“恋”綴り。
手紙で繋がる、恋のお話です。
温めていたプロットを掘り出して、纏めてみました。
前作にファンタジー長編を書いたので、今回は毛色の違う恋愛短編を書きました。
次は中編かな……。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
また他の作品でも、お会いできれば幸いです。




