『どこにもいかない旅』蛇足
本稿を読むにあたっては、事前に前書き「どこにもいかない旅」を読了していることを前提とする。
なお、本稿の執筆者である私 (あからさまなはたやわ)は、作中で「どこにもいかない旅」の著者として語られるセツナとは同一人物ではない。本作における語りの関係は、演劇的な役割分担に基づくものであり、この点を理解した上で読解されたい。
多くの読者は、小説のページをめくる中で場面を想像し、その連続性の中に物語を見出す。登場人物の過去が現在を規定し、現在の決断が未来を形成する――この時間軸に沿った因果律こそ、私たちが慣れ親しんだ物語の骨格である。
しかし、もし主人公自身がその連続性を一切認識できず、過去という名の錨を持たないとしたら、物語はいかに変容するだろうか。出来事の繋がりを保証するはずの主観が断片化している時、読者は何を頼りにその世界を歩けばよいのか。本稿の目的は、この特異な構造を持つ物語を解き明かし、(1人芝居のようだが)意図的に断片化された記述に込められた作者の思索と、そこに読者が果たすべき役割を明らかにすることにある。
この物語は、単に読むのではない。記憶なき主人公の視点と、すべてを知る観測者の視点とを往還し、散らばったピースを自ら組み上げる「体験」そのものである。考察の始点として、まず物語の静かな中心、主人公「セツナ」という極めて特異な存在に焦点を当てよう。
この物語の構造を規定する根源は、主人公「セツナ」の特異な存在そのものにある。彼女の記憶の欠如は単なる設定に非ず、読書体験そのものを支配する、作者の巧妙な仕掛けなのだ。彼女はまさしく、現在という瞬間に囚われた囚人であり時間と記憶が織りなす悲劇がその周りを公転する、不動の中心点なのである。
セツナにとって、世界とは「目を開くたびに新しい“今”があるだけ」の連続体であり、過去という概念は存在しない。彼女は自らの状況を「どこにもいかない旅」と看破するが、他者にとっては時間を巡る悲劇的な旅路であっても、彼女の主観においては「前」がない以上、それは道筋すら描かない。彼女は断言する。「だからこれは旅じゃない」と。彼女はどこへも行かず、ただ「世界が勝手に姿を変えるのを、次々と目撃しているだけ」なのだ。これは、記憶なくして人格は成立するのか、という根源的な問いを我々に突きつける。
この彼女の存在様態が冷徹に描き出されるのが、「終わりの丘」の場面である。仲間たちの声が重なり合う。「やっと終わったな」「これで、もう誰も迷わない」。彼らが長年の苦闘の末にたどり着いた解放と安堵を分かち合う中、セツナはその「言葉の意味は分からない」まま、「きょとんとした目で私たちを見ていた」と描写される。他者の感情の文脈を理解できず、共有されるべきカタルシスから完全に疎外された、純粋で絶対的な孤独。それこそがセツナという存在の本質なのである。
だが、物語は彼女の静的な視点のみで完結しない。セツナという不動点の周囲には、時間と記憶という重荷を背負い、循環からの脱出を渇望する人々がいる。彼女というパラドックスは、彼らの苦悩によって初めて、その悲劇性の全貌を現すのだ。
セツナの断片的な「今」とは対照的に、彼女を観測する者たちは、痛みを伴う過去の記憶と、循環を終わらせるという明確な目的意識に突き動かされている。彼らの視座から物語を捉え直すことで、この作品に宿る深遠な悲劇性が浮かび上がる。セツナの物語に血肉を与えているのは、まさしく彼らの苦闘なのである。
「始まりの終わり」で明かされる通り、彼ら「私たち」の目的は、「何年もかけて、この永遠トワの循環を終わらせる方法を探してきた」ことにある。彼らにとってセツナとの出会いは「十度目」の「別れ」であり、繰り返される絶望の終着点であった。だが、記憶を持たないセツナにとっては、それは常に「最初の出会い」に過ぎない。この残酷な非対称性こそが彼らの苦しみの源泉であり、共有されるべき記憶も、共に乗り越えたはずの困難も、彼女の中には決して蓄積されないのだ。
彼らが「終わりの丘」で見せた「涙と笑顔」は、この長きにわたる闘争からの解放感を物語っている。セツナをこれ以上時間の中に跳ばせないための「最後の儀式」は、循環を断ち切るための唯一の希望だった。その儀式の最中、セツナが体験するのは「過去も未来も記憶もすべて溶けて消えていくような感覚」である。この描写は、儀式が単なる概念ではなく、彼女の存在そのものを内側から溶解させる、具体的で凄絶なプロセスであることを示唆している。
しかし、ここには痛切な倫理的問いが潜む。彼らにとっての悲願の「おわり」は、セツナにとってはまっさらな「始まり」でしかない。この救済は、果たして本当に彼女のためだったののか。あるいは、終わりなき介護の苦しみに耐えかねた観測者たちが、自らの解放のために彼女の存在様態を根底から変質させた、一種の慈悲深きエゴイズムではなかったのか。この解釈の余地こそが、物語の悲劇性を一層深めている。
作者は、この二つの対照的な視点を並列するために、意図的に物語を断片化した。読者はこの構造を通して、両者の視点を同時に追体験させられるのだ。次章では、この「意図された断片化」という手法そのものを解剖する。
本作が「終わりの丘」「森の欠片」といった断片で提示されるのは、単なる時系列の錯乱を狙ったものではない。それは、記憶の不在と循環という主題を、読者自身の体験として精神に刻み込むための、極めて戦略的な構造なのである。作者は我々に物語を渡すのではない。記憶を巡る事件の証拠品が入った箱を手渡し、その再構築を委ねるのだ。我々読者こそが、この物語の真の探偵なのである。
各断片は、セツナが体験する無数の「今」のスナップショットであり、同時に観測者たちが経験した永劫回帰の一場面でもある。この断片化された構造は、読者をほとんど神のような視座へと強制的に引き上げる。ある断片ではセツナの刹那的な混乱に同化し、次の断片では観測者たちの歴史を背負った俯瞰的な視点へと跳躍する。この絶え間ない意識の転換こそが、物語の共感を駆動させるエンジンなのだ。
この体験設計の巧みさは、「森の欠片」の一節に凝縮されている。セツナは「君は何度もここに来ている。でも覚えていない」と告げられるが、彼女自身にその言葉は響かない。だが、複数の断片を繋ぎ合わせてきた読者だけが、その言葉の背後にある真実と、告げた者の痛みを理解できる。森の奥から響く「時計の音」は、セツナには認識できないが観測者たち(と読者)を苛む、不可逆的な時間の流れを象徴する聴覚的シンボルとして機能している。読者はこのように、セツナの視点と観測者の視点の双方を同時に生きるという、特権的でありながら引き裂かれた立場に置かれるのだ。
そしてこの構造は、読者自身を物語の玉座に据えるための、壮大な序章に他ならない。物語の真の顔は、最後に提示される「あとがき」によって、劇的な反転を遂げる。
物語の断片をすべて拾い集め、ここまでたどり着いた読者は、本作の真の結論と対面する。「あとがき」は、これまでの物語の視点を根底から覆し、我々一人ひとりに向けられた直接的なメッセージを突きつける。三人称的に物語を眺めていたはずの読者「君」は、ここで自分が物語の「真の当事者」であったことを知るのだ。
「あとがき」は、記憶を持たない語り手「私」(セツナ)と、読者である「君」との鮮烈な対比を提示する。
語り手 「私」の性質: 名前を持たず、ただ「今」を生き、何度も生まれ変わる循環的な存在。彼女は物語の記録装置ではあるが、その意味を解釈することはできない。
読者 「君」の役割: 記憶を携え、時間の流れを自由に遡ることができる「過去を歩く旅人」。その記憶は、断片を繋ぐ「武器」であると同時に、結末を知るがゆえの「呪い」にもなる。
この構造転換により、物語は再定義される。これはセツナの物語であると同時に、それ以上に、「君のための」「物語の逆行」なのである。観測者たちが経験した十度の苦しみは、彼らのための贖罪であると同時に、読者である「君」が今まさに手にした記憶の礎そのものだったのだ。「覚えていてほしい。君がこの旅の真の当事者であることを」という最後の呼びかけは、読者への挑戦状に他ならない。セツナが決して持ち得なかった「記憶」という能力を行使し、この断片化された世界を再び歩き、そこに秘された意味を自らの手で見つけ出せという、作者からの招待状なのである。
結論として、この物語は一度読んで完結するようには設計されていない。それは、読者「君」が記憶という名のコンパスを手に、セツナが体験した無数の「今」を何度も遡行することで、その風景がまったく異なる意味を帯び始める、精緻な体験装置なのだ。この解説は、君が本当の旅を始めるために渡された、最後の鍵である。さあ、ページを閉じて、君自身の物語を始める時が来た。
本来いらないはずの蛇足が、結果的に本文よりも長くなってしまった。
これを単なる書き過ぎと片づけることもできるが、本作が「語られなかったもの」や「記憶されなかったもの」を扱っている以上、その周縁で語られる言葉が増えていくのは、ある意味では自然な成り行きだったのかもしれない。そう考えると、この分量自体が、作品の構造に対するささやかな皮肉でもある。




