【7日 341年11月】成帝崩御! 庾氏不穏
【341年11月】
資治通鑑原文963文字(317/365位)
【登場人物】
・メインキャスト
2/3-石虎-3/14
3/3-冉閔-3/18
3/4-慕容垂-5/3
・準メインキャスト
2/10-李寿-3/8
2/12-張駿-3/12
2/14-慕容皝-3/14
2/14-拓跋什翼犍-4/13
2/28-慕容儁-3/26
【あらまし】
庾亮の弟のひとりが琅邪王氏の王允之を暗殺しかける、という事件が起きました。この事件にショックを受けた成帝は、間もなくしてわずか二十二歳で崩御します。代わって弟が即位しました。康帝です。このような動きで結局庾氏の権勢が高まり、これを嫌った何充は北府軍に出向しました。また漢では李寿が石虎の統治に憧れ暴政を開始、漢の衰退をもたらし始めます。
【できごと】
庾亮が死亡して、家の繁栄を危ぶんだのでしょうか。この年はやけに庾氏の不穏な動きが目立ちます。たとえば庾亮の一番上の弟である庾懌が琅邪王氏の王允之を暗殺しようとして失敗、自殺を命じられています。こうした事態を受けて成帝は「大舅が天下を乱したと言うのに、小舅までその真似をしようというのか!」と悲嘆に暮れました。
こうした事態が成帝の心労として大きくのしかかってきたのは想像に難くありません。この年、成帝が崩御。わずか二十二歳でした。生まれてすぐに王敦の乱を目の当たりとし、即位しては伯父の暴走による蘇峻の乱で側近を殺され、更にその一族による不穏な動き。あまりにもいいところのなさすぎる生涯でした。
成帝の跡を継ぐ皇帝としては、はじめ産まれたばかりの息子である司馬丕、のちの哀帝が候補となりましたが、赤子ではまずい、とのことで庾冰が成帝の弟、司馬岳をゴリ押しし、即位させます。康帝です。継承周りでは議論に庾氏を混ぜ込むな、といった讒言もあったりはしたのですが、結局の所、庾氏の意見が通っているわけです――あんなことがあったにもかかわらず。なおこのとき康帝の後見として、元帝の末子、つまり康帝の叔父に当たる司馬昱がついています。のちの簡文帝です。また後見人のひとり、何充は庾氏の権勢に巻き込まれるのを嫌い、京口、すなわち北府軍の駐屯地への移鎮を願い出ました。
なおこの年、前燕後趙の話はありません。その代わりに、後趙の使者から鄴の様子を聞いた李寿が石虎の豪奢な宮殿の建造や厳罰統治に憧れ、漢の統治にも取り入れ始めます。これによって処刑されるものが急激に増えました。もちろん臣下にはこうした動きによって国が衰退してしまう、と憂い、李寿を諫めるものもいました。しかし李寿、こうした人物もまた処刑してしまいます。なんと言うか、またいつものやつが始まった感じです。こうした中、李寿は息子の李勢を太子に据えます。
まぁ、比較的静かな年とは言えるのでしょうけれどもね。




