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【夕刊シチ】デイリー両晋南北朝  作者: ヘツポツ斎
【〇三月】三三六年〇六月~三六五年〇七月

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61/83

【1日 336年03月】石虎豪遊! 慕容が迫る

【336年03月】

資治通鑑原文1226文字(292/365位)


【登場人物】

・メインキャスト

 1/26-王導-3/5

 2/3-石虎-3/14

・準メインキャスト

 2/10-李寿-3/9

 2/12-張駿-3/12

 2/14-慕容皝-3/14

 2/14-拓跋什翼犍-4/13

 2/28-慕容儁-3/26


【あらまし】

 慕容皝は慕容仁を破った勢いもそのまま、さらに宇文部および段部も強襲、大破します。いよいよ慕容部が北方の覇者となった印象です。一方でそんな慕容部を引き受けるはずの後趙では石虎がトチ狂ったというしかない勢いの贅沢話が展開。旱魃が起こったと書かれますがなにそれ? という世界です。対して東晋では清談が流行りすぎたせいで学問の振興に失敗した、と紹介されます。なにそれこわい。



【できごと】


 慕容仁が段部や宇文部とも結んでいたため、慕容皝は引き続き段部を攻撃。このときの慕容皝は両軍の心理状態を的確に読み切り、弟の慕容評を始めとした配下将を巧みに操り、大破をしてのけました。これにより、これまで遼河沿岸地域にのみ勢力圏のあった慕容部がいよいよ中原に向け進出を開始します。これはつまり、後趙との正面衝突が近づいてきた、ということでもあります。


 その後趙。始まりました、石虎豪遊祭。石勒が思いとどまった鄴の都市機構拡充を、石虎が、悪い意味で亢進します。ここで資治通鑑に載る贅沢ぶりが既に凄まじいんですが、鄴中記という本における記述がさらにその数倍。もはや笑うしかありません。黄河に石を積んだ橋を渡そうだとか、どでかい灯籠を作ったはいいが倒れて二十人を焼き殺したとか、微妙にリアリティのあるラインでその狂乱ぶりが示されてしまい、いつもみたいにどうせでっち上げでしょ、とも言いきれない感じなのが、こう。また後宮では一万人からなる女性に官僚組織を編ませたりもしており、もう何なんだか訳がわかりません。ここにそっと飢饉が起きたという記述もあり、まるで石虎が起こしたかのような書きぶりです。まあ、そういう論調になるのは必然なのでしょうけれど。


 東晋では「政情がようやく安定した」とのことで太学、すなわち教育機関の復興が提唱されました。しかしこの頃建康宮中には清談のもとである老壮の言葉が飛び交っており、儒の言葉は隅に追いやられ、満足な設立、拡充が叶いませんでした。なお資治通鑑では載りませんが、この頃仏教もかなり東晋に流れ込んでいます。仏教は老壮と合体するような形で始め伝えられもしたそうですので、この時期は思想体系についても大きな転換期になっていたのかもしれません。そうしたことが世説新語における、このあたりのぶ厚い扱いにもつながったのかもしれないです。


 あと成ではこのときも李期が臣下殺しに忙しかったみたいです。一方で李寿は漢中に進撃してきた東晋軍を撃退、そのまま駐屯。国内の輿望、果たしてどのようだったのでしょうか。

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