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【夕刊シチ】デイリー両晋南北朝  作者: ヘツポツ斎
【〇二月】三〇九年〇八月~三三六年〇五月

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57/80

【25日 332年05月】成の石虎! 李寿活躍!

【332年05月】

資治通鑑原文377文字(352/365位)


【登場人物】

・メインキャスト

 1/4-慕容廆-2/26

 1/26-王導-3/5

 1/27-石勒-2/26

 2/3-石虎-3/14

・準メインキャスト

 1/25-李雄-2/27

 1/25-陶侃-2/27

 2/10-李寿-3/9

 2/12-張駿-3/12

 2/14-慕容皝-3/14

 2/14-拓跋什翼犍-4/13


【あらまし】

 この年は東晋の動きはさほど目立たず、成における李寿の活躍が目立ちます。ここで李寿が過去に母親ごと晋に囚われていたこと、また伯父の元で武勲を大いに立てたことなどが語られ、改めて資治通鑑が李寿と石虎の類似性を強調しているのが印象深いです。



【できごと】


 久しぶりに、ものすごく資治通鑑の薄い日が来ました。資治通鑑の薄い年というのは「後世的な教訓が少ない年」となりますが、もちろんそれとは全く関係なく事態は動き続けています。つくづく思うのですが、こうして内容が薄くなっているときほど東晋内部でのできごとが面白そうです。なおこのときの東晋は陶侃に人臣の極み的な待遇を与えようとして辞退されています。あと後趙から「仲良くしようぜ!」的な使者が多くの贈り物とともに派遣されてきましたが、そうした贈り物をことごとく焼き捨てたそうです。うーん不倶戴天。とは言え後の時代、東晋末期頃の事績を魏書が綴る際には晋から国使がもたらされていた、と書かれていたりします。なので「本当は国交もあったけどプライド的に書かれなかった」可能性も捨てきれません。


 この年についての内容は、とにもかくにも成まわりが非常に多いです。前年から引き続いての拡大戦略が記述され、そこの原動力が李寿であった、と書かれる。こうした流れを見ると、驚くほど李寿の立場って石虎そっくりなんですよね。ちなみに過去、敢えて資治通鑑に書かれた内容で見て見ぬ振りをしたものがあります。304年、つまり1月26日分のところで李寿、こっそりと初登場しているんです。そしてこのときの内容が母親と共に羅尚に囚われ、のちに解放された、と言うものでした。こんなところまで石虎そっくりなので、のちの伝記に「石虎のやり方を真似した」と書かれるのも、あるいはシンパシーめいたものを覚えていたのかもな、と感じてしまいます。


 なお涼では、張駿が臣下より「そろそろ涼王としてお立ちになるべきではありませんか」と提案されています。これについては、あくまで晋の臣下たるべしとする張駿が却下しています。だいたいの通史本とかにおいてもそうですし、実態としてもこの時期の涼はとっくに独立国状態、つまり前涼と呼んでしまっていいんですが、もう少し当企画では晋の涼州扱いとしておきます。名目がそれなので。なおこの年張駿は、次男の張重華を後継者に据えました。ちなみに「重華」は伝説の聖王、舜の名前と同じです。この地がどうなってほしいか、の思いがダダ漏れで、ついついオメー完全に志向が王じゃねーか、とツッコんでしまいました。

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