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【夕刊シチ】デイリー両晋南北朝  作者: ヘツポツ斎
【〇二月】三〇九年〇八月~三三六年〇五月

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49/83

【17日 324年10月】明帝 その早すぎる崩御

【324年10月】

資治通鑑原文2611文字(169/365位)


【登場人物】

・メインキャスト

 1/4-慕容廆-2/26

 1/26-王導-3/5

 1/27-石勒-2/26

 2/3-石虎-3/14

 2/13-郭璞-2/17

・準メインキャスト

 1/25-李雄-2/27

 1/25-陶侃-2/27

 1/26-劉曜-2/22

 2/8-司馬紹▲

 2/10-李寿-3/9

 2/11-蘇峻-2/21

 2/12-張駿-3/12

 2/14-慕容皝-3/14

 2/14-拓跋什翼犍-4/13



【あらまし】

 王敦死亡後の東晋は急ピッチで組織再編がなされました。陶侃が再び西方守備の任に戻り、庾亮が総取り締まり的な職務に。また建康周辺の軍務取り締まりには郗鑒という人物がつきます。両名の軍府がのちに西府、北府と呼ばれるようになります。しかし、その一方で早くも明帝が死亡。東晋、なかなか安定しません。石勒は東晋との境界をじわ、じわと蚕食し、東晋北部の緊張を更に高めています。


【できごと】


 王敦が滅ぶと、大幅な配置の見直しがなされます。この方針決めには王導、温嶠、庾亮のほか、郗鑒という人物も関わっていました。この人物は建康にほど近い京口という街にて流入民らの取りまとめをし、のちに北府軍と呼ばれることになる東晋主要戦力の礎を組んだ人です。こうした人物との協議を経て、南方にいた陶侃が荊州統治に復帰しました。この対応を荊州の民はみな喜び、迎え入れたそうです。


 ここから陶侃が取りまとめていく軍府は、のちに西府軍と呼ばれるようになります。陶侃の統治は非常に規律が厳しく、かつその節約倹約ぶりもすさまじかったため、二十年ほどのちの名将、桓温が陶侃時代に蓄えられた物資に基づいて作戦行動を展開できたほどであった、と書かれます。


 ただここで、明帝がいきなり死亡しました。このためわずか五才の嫡子、司馬衍が即位します。成帝です。


 石勒の全方位作戦は、ここで一つの極点を迎えます。段部や宇文部に慕容部への攻撃をけしかけたり(これは慕容部の完勝に終わりました)、劉曜とも大規模な激突をしていたり、東晋軍の領土を分捕っていたりもします。こうやって書くと勢いがすごいようにも思えますが、どの方面とも割と拮抗していると言ってよく、その拡大戦略にもやや限界が見え始めたようにも感じられます。ここで石虎の率いる軍が大破した前趙軍の兵らを穴埋めにする、という大虐殺を決めていますが、これも言い換えればそれだけ「養う余裕がなかった」ことの裏返し、と言えるでしょう。以降も穴埋めは五胡十六国時代における五胡勢力の暴虐の象徴としてしばしば取り沙汰されますが、「その選択肢を取らねばならないほど黄河沖積平野域における人口増加率が異常」とみなすほうがニュートラルだと思います。


 対する劉曜は、せっかく獲得できていた仇池を失陥。以降この地は仇池の楊氏のもとに収まります。途中に前秦による支配を経て、北涼すら上回る長寿国家となります。まあとは言え、お隣にそれ以上の長寿国家、吐谷渾があるわけなのですが。


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