【16日 323年11月】王敦死亡! 温嶠の巧みさ
【323年11月】
資治通鑑原文4377文字(85/365位)
【登場人物】
・メインキャスト
1/4-慕容廆-2/26
1/26-王導-3/5
1/27-石勒-2/26
2/3-石虎-3/14
2/13-郭璞▲
・準メインキャスト
1/21-王敦▲
1/25-李雄-2/27
1/25-陶侃-2/27
1/26-劉曜-2/22
2/8-司馬紹-2/18
2/10-李寿-3/9
2/11-蘇峻-2/21
2/12-張駿-3/12
2/14-慕容皝-3/14
2/14-拓跋什翼犍-4/13
【あらまし】
再決起した王敦でしたが、病に倒れ、死亡。残党はたちまち蘇峻らの活躍により鎮圧されました。また涼では前涼の最盛期を築いた張駿が立ち、成では李雄が自分の子を差し置いて兄の子である李班を後継者に指名して火種を作ったりと、次の時代の布石が撒かれます。
【できごと】
王敦、簒奪どころか、気づけばまた追い詰められています。かくなる上は再決起しかない! と意気込みますが、その成否を郭璞に占わせたところ「無理ですね」と一刀両断。王敦は怒り、郭璞を殺しました。
中央には多くの難物がいますが、その中でも王敦が警戒していたのが、温嶠でした。そこで温嶠を自分のもとに送り込むよう要求します。手元で監視し、何かあったら即殺そう、というわけですね。しかし温嶠、到着したそばから王敦の配下将らをヨイショしまくります。あなたたちなら中央の奴らなんて物の数じゃないですよ! とでも言ったのでしょうか。しかも恐ろしいのが、これが士気向上には繋がらず、むしろ中央への侮りの空気ばかりが広がった、ということ。さらに温嶠は逆に王敦軍よりの信頼を得、その内情をつぶさに調べ上げた上で、「王敦の推挙により」建康に戻ります。わけがわからないよ。
これで王敦軍の軍容を把握した明帝は、ついに堂々と王敦との対決を表明。王敦は激怒、建康にまで攻めかかりましたが後の祭り、途中で病に冒され、死亡します。残された者たちは蘇峻らの率いる精鋭軍によってあっという間に制圧されましたが、「王敦に騙されただけ」と、ほぼ罪は問われませんでした。
この頃石勒は多方面作戦を展開、慕容部とは不明ですが、前趙や東晋と戦っています。劉曜には特に動きなし。涼州の張茂が死亡したため弔問と王号を追贈した、くらいです。その涼州で新たな主として立った張駿は、ここから涼の最盛期を築きます。一方成では、李雄が尊敬していた兄の子、李班を後継者としました。自分に息子がいたにも関わらずです。この決定に周囲は大反対しましたが、聞き入れることはありませんでした。
ちなみに、ここでひとつ、甥を後継者としたふたりの比較をしておきましょう。張茂には子がいませんでした。しかし李雄にはいました。この対比を踏まえて、では、このあと成はどうなるでしょうか。




