【2日 310年07月】是謂永嘉之乱
【310年07月~311年05月】
資治通鑑原文5178文字(65/365位)
【登場人物】
・メインキャスト
1/1-劉淵▲
1/4-慕容廆-2/26
1/12-劉琨-2/10
1/17-拓跋猗盧-2/8
1/26-王導-3/5
1/27-石勒-2/26
・準メインキャスト
1/11-司馬熾-2/4
1/21-王敦-2/16
1/23-張軌-2/6
1/13-司馬越▲
1/25-李雄-2/27
1/25-陶侃-2/27
1/26-劉聡-2/10
1/26-劉曜-2/22
1/26-司馬睿-2/15
司馬鄴-2/9
【できごと】
洛陽、終わりました。お疲れさまです。
劉淵が死亡しました。劉淵の跡を継いだのは劉和でしたが、弟の劉聡を疑って殺そうとして逆に殺されました。劉聡はこのときに他の兄弟も殺し、皇帝となります。そして改めて息子の劉粲に劉曜や王弥を率いさせ、洛陽を攻撃させます。ここに石勒も合流予定でしたが、途中でうっかり晋軍に負けて後退。ほんにこのひとは強いんだか弱いんだかわかりません。
匈奴漢をなんとか食い止めんと、劉琨が動きます。拓跋猗㐌より大人位を継承した拓跋猗盧と結び、南下。匈奴漢軍のバックアップ的な役割を帯びていた劉虎を撃破しました。この功績を劉琨が洛陽にアピールしたため、拓跋猗盧が代公に任じられました。すなわち、代の建国です。ただしこれは北土の権勢を握りたい王浚の癇に障りました。以降、劉琨は味方であったはずの王浚に恨まれ続けます。しかも匈奴漢軍を止められませんでした。
洛陽ではなんとか匈奴漢に対抗するための兵力を集めようとしますが、叶いません。なにせこのとき石勒が洛陽の南方、襄陽周辺を襲撃、陥落させています。江南とも完全に寸断された状態です。ここで司馬越が懐帝に石勒討伐のために洛陽を出ます、と言い出しました。懐帝は引き留めますが、結局司馬越は王衍を副官とし、許昌に。しかし許昌も足場とするに足りないと判断、さらに進みました。そして項城で憂いを抱えつつ病死します。この移動は封爵地の東海に向かおうとしたとされますが、どちらかと言えば司馬睿のもとに逃れようとした、と言うほうが正しいのでしょう。残された官吏らは王衍を主に推戴しました。しかしここで、石勒の急襲に遭い、壊滅。石勒は王衍に「お前のようなやつが晋を滅ぼしたのだ!」と詰っています。
なおこの一行に同行していた宗族のひとり、司馬範は、強襲にうろたえる一行を前に「今更うろたえるやつがあるか!」と一喝、石勒をも心服させました。もっともこのような人物が石勒の元に降るはずもありません。石勒はその度量を惜しみつつも、結局は殺害します。
ともあれ、こうして完全に孤立無援となった洛陽城に、匈奴漢軍がいよいよなだれ込むことになります。




