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【夕刊シチ】デイリー両晋南北朝  作者: ヘツポツ斎
【〇一月】二八〇年〇三月~三〇九年〇七月

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3/18

【2日】281年02月~281年12月

【281年02月~281年12月】

資治通鑑原文293文字(357/365位)


【登場人物】

・メインキャスト

 1/1-司馬炎-1/11

 1/1-司馬衷-1/29

 1/1-劉淵-2/2

・準メインキャスト

 1/1-賈充-1/3

 1/1-孫皓-1/4

 1/1-司馬倫-1/23

 1/1-張華-1/22

 1/1-杜預-1/6


【できごと】


武帝の乱脈! 統治はどっちだ


 この年のトピックは大きく二つ。西晋統治の根本の歪み、北東に起きた新たな流れの萌芽です。


 呉の皇帝は先に洛陽に引っ立てられましたが、その後呉にあった宝、そして美女たちもが洛陽に召し上げられました。特筆されているのは美女たちです。その数は五千人とも言われ、これで洛陽の後宮には、おそらく下働きも含めて、ではあると思いますが、一万人もの人が配されました。ここで有名な「武帝は車を引く羊が止まった部屋の后を選んで夜の伴とした、このために后たちは部屋の前に羊が好む塩を置いた」というエピソードが出てきます。


 ただ資治通鑑には載りませんが、武帝自身はきわめて聡明であった女性、胡氏を深く寵愛して、彼女との時間をきわめて重んじていました。もしかしたら、それ以外の后についてはただの仕事としてのみ見ていたのかもしれません。こうしてもうけられた男児は二十七名に及びますが、羊に決めさせた后の子への寵愛など果たして、と言う感じがありますね。ちなみに胡氏との間に子はいませんでした。


 そして、子作りだけでなく政もだいぶおざなりになった、と書かれます。ここについて武帝の気持ちを推し量るのは難しいのですが、一方で「その代わりに皇后の叔父である楊駿らが権勢を振るった」と書かれますので、むしろ、武帝が楊駿らに静かに包囲されたと見るべきかもしれません。


 対して、北東です。この頃、北方遊牧民族である鮮卑の南下が目立つようになりました。中でも特筆されているのが、鮮卑慕容部。のちの前燕です。この年、慕容部が昌黎を攻撃した、と書かれます。ただし一方で、もともと慕容部は晋に臣従していたとも書かれています。この動きが慕容部の勢力伸張によるものか、あるいは晋の地方政策の何かに反発したかはわかりません。具体的な情勢が、これ以上は載っていないからです。こうした中で確実に言えるのは、このころ晋の統治が内外から、天下統一後早々にきしみを上げはじめていた、ということです。

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