【22日 471年12月】明帝崩御! 残されたものは
【471年12月】
資治通鑑原文1247文字(288/365位)
【登場人物】
・メインキャスト
7/1-蕭道成-8/1
7/5-馮太后-8/10
7/17-拓跋宏-8/19
・準メインキャスト
6/27-劉彧▲
7/16-蕭賾-8/14
【あらまし】
宋では明帝が崩御、後廃帝が立ちます。ポスト明帝時代の主導権を巡っての権勢バトル勃発です。北魏では暴れ回る柔然を前に、なぜか献文上皇が大立ち回り。なんか南北ともに訳がわかりません。
【できごと】
大別山脈の蛮で面白い人物が現れました。桓誕。なんと桓玄の子孫を名乗り、部落を引き連れて北魏に帰服します。北魏はその帰服を承認、韋珍を補佐として派遣したところその組織体制はのきなみ当を得たものとなったそうです。また北魏に攻めてくる柔然に対しては、なぜか献文上皇が軍を率いて撃退に回っています。どういうことなんだぜ。しかし柔然はその攻め手をゆるめません。太武親政による沈静化からここまでに何があったんでしょう、まったくわからないので「お、攻めてきたんだね」以上の感想を持てないのが惜しいところです。
さて明帝です。その病はどんどん重くなり、ついには自身の妃の兄、琅邪王氏の王景文に対して「死んでくれ」などと言い出します。王景文は囲碁を打ちながらこの詔勅および毒薬を受け取ると、囲碁を打ち終えてから客らに詔勅を示しました。あまりにもむちゃくちゃな下命を前に憤る客人たちでしたが、王景文は「我が一族のために考えてくれ」と答え、そしてもたらされた毒薬で死亡しました。また明帝は夢で「豫章太守の劉愔が反乱した」と告げられたため劉愔を誅殺しています。そうした末、崩御。当時10歳であった太子の劉昱が即位しました。後廃帝です。ちなみにどうでもいいことですが後廃帝は前廃帝に比べて在位期間がかなり長いです。なんで前廃帝よろしく即廃されなかったんでしょうか、不思議ですね!
明帝は後廃帝の後見に名族らをつけましたが、一方で実権そのものは明帝を擁立したもと庶人たちが引き続き握っていました。ともなればこの両派が対立するのは火を見るよりも明らかです。そうした中、明帝のおいたのおかげで外鎮に王族を派遣できなくなったため荊州、即ち西の守りの要に沈攸之が派遣されました。そして沈攸之は着任早々謀反の準備に入ります。しかもその準備のしかたが相当に暴虐であったとも書かれますが、一方でその行政措置はきわめて謹厳でもあり、治安は一気に改善されたそうです。まぁ民は苦しんでいますが。さらに、この措置によって宋に従っていた蛮たちが耐えかね、決起。大挙して武陵を襲撃してきます。しかしこれは武陵城を統治していた蕭嶷、すなわち蕭道成の弟によって鎮圧されました。なおこのタイミングで蔡興宗が死亡。またひとり、国の良心が退場しました。




