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ある日の猫  作者: 星乃夢


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恩人


 湿気を含んだ重い空気と今にも降り出しそうな低い雲……千紗が車で向かった先は、一軒の花屋だった。

 穏やかそうな年配で男性の店主が、花束を作っているのが見えた。

「すみません、予約してませんが花束を作っていただけますか?」

「いらっしゃい。この花束を仕上げてからでもいいかな」

「もちろんです。急にやって来たのは私の方なので……」

 慣れた手つきで店主が、その誰かの為の花束を仕上げていく様子を千紗は尊敬の眼差しで見ていた。

 千紗は、パートとして数年は働いた事があったが、長年働いた経験がない分、働いている人を尊敬しているのだ。

「どんな人に贈りたいの?」

「長年お世話になってばかりの方です。今月末で閉院される事を知ったので、最後のご挨拶に感謝の気持ちの花束を持って行きたいと思いました」

 店主は、相手の年齢や性別を聞きながら、たくさんの花の中から数本ずつ取って片手に握っていく。

「病院か……百合やカスミソウはだめだね」

 店主は、強い香りの百合やむせる事が多いというカスミソウ以外の花を選びながら言った。 

 相手に負担にならない程度の予算を千紗が伝えると、店主は選び終えたばかりの花を持ってレジ横の台の上で電卓を叩いた。

「おっ、ちょうど予算通りだ。これで、いいかい?」

「すごい……はい、お願いします」

 先ほどと同じように店主が、今選んだ花で花束を作っていく。透明なセロファンに薄い不織布、1本のリボンを巧みに折り曲げながらリボンの花を作る一連の動作に無駄がない。

『やっぱり長年働いている人って、すごいなぁ。ありがとうございます』千紗が心の中で呟いた。

 

 ピンクの花束を持った千紗が、恩人がいる病院の前で躊躇している。最後の日という事で満員だったからだ。

 院内の人々の注目を浴びたくない、目立ちたくないという気持ち……忙しい時に邪魔してしまうかもと心配し、終いには受け取りを拒否されるのではないかとネガティブな感情に支配されて立ち尽くしていた。

『……それでも、最後にちゃんとお礼が言いたい』という気持ちが勝り、静かに院内に入った。

 小さな声で受付に伝えた千紗の心は、今すぐ逃げ出したくなる気持ちを必死に堪えていた。息の仕方や身体の使い方が分からなくなってきた……。 

 だが、恩人の顔をみた途端、ほっとして涙が滲んだ。

「今まで本当に、お世話になりました。ありがとうございました。どうぞ、お元気で……」

「千紗さん、ありがとう。嬉しいわ」

 恩人は、千紗の花束を受け取る時に、一瞬だったが千紗の手を握った。その手は、温かくて力強く……まるで千紗に『あなたも頑張ってね』と言ってるように感じた。

 恩人はその手を通じて、千紗の心を温かくした。千紗の心には、この先ずっと、その恩人の温かさが残り続け、力をくれることだろう……。

  

……ご恩は忘れません。ありがとうございました…… 

 

  

      

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