1 三年前に戻ってる!?
◆
「──がはっ!?」
その瞬間、何かが身体の中から湧き上がり、身を切り裂くようにして溢れ出るような感覚がした。
それが何なのか理解する前に、口から赤いものを吐いた。
鉄のような味が口や鼻に広がる。
体から力が抜けて、床に倒れる。
高級そうな絨毯に、赤黒いシミが広がっていくのを申し訳なく思う。
自身の命が危ういというのに、そんな事を思うのは現実逃避の為だろうか。
ふと影が差し、その主を見上げる。
私の夫であるバルド様が、冷たい眼差しで見下ろしていた。
そういえば、彼と話をしている最中だった。
彼はこんな時でも、焦る事なく死にゆく私を何の感情も篭らない瞳で見下している。
きっと、疎ましい妻が消えたとて、彼にとってはどうでもいい事なのかもしれない。
……いや、おかしいだろ。いくら疎ましい妻だからってもっと慌てるなり、人を呼ぶなりしろよ!! 何ぼうっと突っ立っているんだよ!! 毒盛った犯人でも、慌てる演技はするぞ!?
……ああ、もし生まれ変わっても、あなたとは二度と、結婚、しない──!!
そこで私の意識は暗転した。
◆
「──はあぁっ!?」
気がつくと、目に入ったのは見慣れた天井。
だけど、ここ一年は疎遠になっていたもの。
「え? あれ?」
急いで身を起こして、自身の状態を確認する。
寝汗はすごいが、体調は悪くない。
血を吐いたような感じもしない。
そもそもここは、自室だ。嫁ぎ先ではない。実家の方の自室。
幼少の頃から使い込んだ机も、ドレッサーも、ソファーのセットも、天蓋付きのベッドもよく知っている。
あまりの事に、実家に返品された?
いや、あの状態、明らかに私は死にかけていた。
なら何が──。
その時、部屋の扉がノックされた。
「お嬢様、お目覚めですか?」
「は、はい!」
思わず姿勢を正して返事をしたけど、お嬢様? 奥様ではなく? いや実家なら結婚しててもお嬢様か?
結婚してからは、家に帰っていないからわからないな………。
「失礼します。おはようございますお嬢様。今日もいい天気ですよ!」
「ララ!?」
「はい、ララでございます。さあ、お顔を洗ってください」
「う、うん。ありがとう……」
ララの持ってきた洗面ボウルに入ったぬるま湯で、顔を洗う。
洗いながら思う。
ララは私の専属侍女で、私が結婚する少し前に彼女も結婚、妊娠していたので侍女を辞めたはずだ。
「……ララ、今日って何日だったかしら?」
「今日は、ヴァルヌス歴七年、第三月の二日ですね」
ってことは、バルド様と婚約すらまだの時期。
「な、なるほどー。ありがとー」
その後、着替えを手伝ってもらい、一息つく。
「朝食の時間になりましたら、また呼びにきますね」
「わかったわ」
ララが、私の部屋を後にする。
さて、どうなっているのかしら?
◇
私は、マリアーナ・プルメリア。
プルメリア伯爵家の次女。
家族は父と兄と姉。母は数年前に病で亡くなった。
姉は母が亡くなる前に嫁いでいて、邸宅にはいない。
兄はまだ家を継がず、文官として王宮で辣腕を奮っている。
私は十九歳の時に、三歳年上のバルド・フェイジョア侯爵と婚約、一年後に彼と結婚。
そして、二十一歳になる誕生日前に血を吐いて──。
死んだっぽい。
そして今がヴァルヌス歴七年なら、私の死より三年前。
今の私は十八歳だ。
そして第三月の二日なら、まだバルド様と婚約すらしていない。
確か彼から婚約の打診が来るのは、私が十九歳の誕生日を迎えてすぐだから、今はまだ知り合ってもいない。
どうなっているのだろう。
あの日々は夢だった?
だとしたら、悪夢だ。
バルド様との結婚期間だったあの一年間は、はっきり言って苦痛だった。
婚約期間はとても優しかったのに、結婚し同居を始めた途端、彼は冷たくなったのだ。
初夜も無かった。
これはバルド様の仕事が忙しかったのもあるが、式を挙げた次の日くらいからバルド様の態度が変わったのだ。
以降、夫婦間の接触は一切無し。
使用人達はバルド様を非難する派が多かった。なんせ、理由が誰にも分からなかったから。
せっかく夫婦になったのだし、私は積極的にバルド様と関わろうとしたが、結局はダメだった。
どうしても彼の心を開くことができず、最後にはあんな事になってしまった。
というか、私の死因はなんだ?
病、ではない。
それまでの私は健康そのものだったし、そんな私がいきなり血を吐いて死ぬ病って何?
いや、そういう病気もあるだろうけど、それっぽい予兆は無かった。
なら、毒でも盛られたのだろうか?
誰に?
まさか、夫のバルド様? だからあんなに冷たい目で死にゆく私を見下ろしていた?
ないわー。だとしたら、二度とバルド様とは関わらないわー。
もしこれが何かの奇跡で人生をやり直しているのだとしたら、私はもう二度とバルド様と結婚しないわー。
また一から関係を築きたいとも思わないし、近付きたいとも思わない。
なんというか、この心が折れてしまったのだ。
きっと、彼の事を心の底から愛していたのならやり直そうとするし、あるいはその心が反転して復讐しようとするのかもしれないのだろうけど、私はそこまで彼を愛してはいなかった。
というか、そもそも彼との婚約自体、私にとっては想定していなかったことなのだ。
元々、バルド様には婚約者がいたのだが病を患ってしまい、結婚式の直前に亡くなってしまったらしい。
そして、その時に婚約者がおらず、元婚約者と爵位が同じで、年齢も丁度良くちゃんとした貴族令嬢が私しかいなかった為、彼と婚約することになってしまったのだ。
当時は何で私? とも想ったが、相手は侯爵。断る理由も無かった為、婚約に応じそのまま結婚した。
なぜ私に婚約者が居なかったかといえば、学生時代から今まで〝お守り〟製作にどハマりしており、その制作と研究に明け暮れていたからだ。
私は貴族であるのに、生活魔法を使う程度の魔力しかないが、お守りは術式を組み合わせて、発動は魔力石でやればいいので、必要なのは知識と術式を彫る技術だけ。私にでもできる。
ただ、地味な仕事なので専門で作る魔法使いはほとんどいないけど、そこそこ必要とされている仕事でもある。
しかも、いい感じのお得意さんを見つけ、作れば作るだけお金になったので、もうウッハウハ。
まあ、貴族の令嬢が嬉々としてやる仕事ではないが。
それに、兄にはすでに婚約者もいて仲は良好。姉は既に嫁いで子供もいる。私が結婚して家同士の繋がりを持たなくても、家が傾くことはないくらいに裕福。
ちなみに裕福なのは、私がお守りで稼いでいるからでもある。なので、お父様も結婚しろと強くは言えなかったのだ。
しかし、このまま何もしなければ、またバルド様から婚約の打診が来るかもしれない。
相手の方が爵位は上なので、こちらから断るのは難しいし……。
それなら、私の婚約者をさっさと決めればいいか!
……当てはないけど。
いや待てよ?
バルド様の本来の婚約者は、まだこの時点では生きているはずだ。
亡くなったのはこの年の第十一月ごろだった筈だし
なら彼女が死ななければ、私とバルド様が結婚することは無い。
なら、彼女が死なないように助ければ良いのでは?
私と彼女に接点はないけど、こういう時こそ、使えるコネは使わないとね!