レーニンを継いだ男
世界に跨がる新進気鋭の共産主義を世に拡め、世界最大の帝国であったロシア帝国を崩壊させて世界最大の共産国家を建国した男、レーニン。その男は余りにも強烈で、重責で、そして余りにも偉大であった。だからこそ、強権的な指導者にはよく有る話で、彼の死後には熾烈な権力争いが行われることになる。これは、その後釜を巡って争った、二人の男の物語である。
1924年7月28日 モスクワ
「今日で第一次世界大戦の開戦からも一年か。長い闘いだった、そう思わないか? トロツキー同志」
『鋼鉄』の異名を持つ男が『牢番』の異名を持つ男に話し掛ける。彼らそれぞれの筆名はスターリン、トロツキー。今は亡きレーニンが権力を握っていた時代に、その補佐役として政治を取り仕切っていた男達であった。
「……あぁ。あと少しの作業を片付ければこの闘いも終わるだろうな、同志スターリンよ」
トロツキー、茶色の服を身に纏うその男は静かに口を開く。流れるようにウォッカの瓶を開けると、彼は自分のグラスの中に波々と注ぎ入れた。
「同志レーニンの死から6ヶ月。この前の党大会では彼のの遺志も明らかにされた。どうやら同志レーニンは私を書記長にするつもりであったらしい。どうだ、同志スターリン。少し内地へ散策に行く気は無いか?」
トロツキーは尚も言葉を発する。ウォッカを中々放そうとしないトロツキーの手から瓶をひったくると、スターリンはにこやかに返答した。
「ふっ、トロツキー同志。散策に行くなら一人で行くがいいぞ。安心してくれ、同志の居ない間も私が留守を守っていよう」
「……そうか。いや、同志スターリンが少しお疲れなのでは無いかと思ってね。大丈夫なら問題は無いんだ」
「それはそれは。トロツキー同志に態々心配して頂けるとは、身に余る光栄だよ」
斯くして、会談はにこやかに進む。もうすぐ8月だと言うのに未だ肌寒いモスクワで、暖炉の火が静かに弾けた。
「ところでトロツキー同志よ。紅茶やフェズがお好きなようだが、少し送るべきだろうか?」
フェズ、それはトルコ帽の別名である。赤い地に黒の細長い紐が付いたそれは、オスマン帝国にてよく着用されていた。スターリンは緩やかにグラスを傾けると、親しげにトロツキーに話し掛ける。
「何、心配する事は無い。亡きレーニン同志に認められていたトロツキー同志を、粗雑に扱うことは無いさ」
その言葉に、トロツキーが思案顔を返す。そのままポケットから煙草を取り出して火を点けると、口に含んで一服した。
「なるほど、紅茶やフェズか。そうだな、茶は少し嗜んでいるが、紅茶を格別に好む事は無いな。フェズも異国情緒としては面白いが、我らがソビエト連邦で使うものでは無い」
「そうか、チェーカーからそのような話を聞いたものでな。済まなかった」
「ふむ、チェーカーから……」
チェーカー、別名『秘密警察』。ソビエト連邦に大きく貢献した諜報組織『KGB』の前身であるその組織は、数々の人材を政府中枢へ輩出してきた組織でもあった。
「まぁいい、同志スターリン。その話を今する必要は無いだろう。今日は共産主義の今後について語りに来たのでは無かったか?」
そして早速、話題は政治へと切り込んでゆく。トロツキーは煙草を口から離し、ゆっくりと煙を吐き出した。
「私も同志スターリンも暇では無い筈だ。そろそろ本題に入ってくれたまえ」
「あぁ。そうだったな、トロツキー同志よ。今日は共産主義の今後について話に来たのであったな」
スターリンが目を細める。彼自身もポケットから一本の煙草を取り出すと、ライターでカチリと火を点けた。
「トロツキー同志、私は世界に共産主義を広める前に一つやる事が有ると思っていてね」
「なんだ? 害虫の駆除くらいしか思い浮かばないが」
「あぁ。その通り、害虫駆除だ。トロツキー同志とは初めて意見が合ったかも知れないな」
鋼鉄の男、スターリンはにこやかに微笑む。煙草を灰皿に押し付けてウォッカの入ったグラスを揺らすと、酒と煙草の混ざった何とも言えないような香りが辺りを包み込んだ。
「この国にはまだまだ害虫が多くてね。働かない人民、腐りかけた組織、寝返る機会を狙う奴まで居る。この状態で国家が上手く纏まる筈はあるまい」
「そうだな。少なくとも皆の意志は一つにしないと纏る物も纏まらん。その為にレーニン同志の遺志はうってつけだったのだが」
スターリンを尻目に、トロツキーが独り言のように愚痴る。それを当然のように聞き流したスターリンが、そのまま話を続けた。
「私は世界だの何だのと言う前に、先ずは国内を共産主義で一つにするべきだと考えている。レーニン同志に代わる新たな指導者がこの巨大な共産主義国家を纏め、世界革命の前にソビエト連邦の足元を固める。どうだ、君もそう思わないか?トロツキー同志」
今度はスターリンが舐め回すようにトロツキーを見る番だった。まるで『君はそんな指導者に相応しくない』とでも言うように。暖炉に放り込まれた薪が、パチパチと音を立てて弾けた。
「ふん。同志レーニンは世界に共産主義を拡げることが重要であると言っていた。同志スターリン、まさかとは思うがそれを覆そうとしている訳では無いだろうな?」
「……まさか」
「ネップ然り、この件然り。同志スターリン、同志は余りにも動き過ぎだ。自身が本当に同志レーニンの代わりを担えると思っているのか?」
「……」
ネップ、別名『新経済政策』。レーニンが経済の一時的復興を目指して始めたこの資本主義寄りの政策を、スターリンは未だに強行している。党内から数々の反対が出ているのにも関わらず継続されているこの政策は、様々な反発を生み出していた。
「この国にまだ害虫が多いという意見については同意する。働かない怠惰な人民や帝国主義に寝返ろうとする反乱分子、営利を貪る企業は私達の共産主義ソビエトには似合わない」
「ははは。トロツキー同志、また意見が合ったな」
「あぁ。私も同志スターリンと意見が合った事に驚いているよ。人民の敵は尽く粛清して黙らせ、この国の礎にするべきだ」
「賛成だな」
煙草を蒸しつつ、スターリンが笑う。だがトロツキーの瞳は笑っておらず、スターリンの顔を見つめていた。
「そしてもしかしての話だが、政府の中にネップを通じて企業と営利を貪っている奴が居たら、其奴も粛清の対象になるだろうな」
「……勿論だ」
「そうすれば、営利を貪らせた奴も責任問題として粛清の対象になる訳だ」
譫言のようにトロツキーが呟く。ウォッカを喉に流し込み、スターリンは少し間を置いて答えた。
「……そうだな」
「どうした、同志スターリン。少し浮かない顔をしているように見えるが」
ウォッカを煽りつつ、トロツキーが心配そうに声を掛ける。その言葉に少し笑うと、スターリンも再びウォッカを喉に流し込んだ。
「いやいや、害虫というのについて少し考えていてね。確かに、古い理想に囚われる害虫は排除しないといけないな」
スターリンは笑う。トロツキーを揶揄するように。
「そうか? 周囲の意見を聞かずに暴走する人こそ、私は害虫だと思うがね」
トロツキーも笑う。スターリンを揶揄するように。
「「同志が、この国の害虫で無い事を祈るよ」」
レーニン人民委員会議議長の死から数年後。党書記長として権力を握り続けてソビエト連邦の指導者になったのは、トロツキーでは無く、スターリンであった。
3000文字縛り、お題は「後継者」となります。内容はちょっと難しい…かもしれません。悪しからず。