9話 魔法訓練
「お母さん、魔法覚えたい!」
それは本当に突然だった。夕食の片付けをしていた私の背中越しにクロナの元気な声が飛び込んできた。振り返るとクロナは両手を腰に当てて胸を張り、目をキラキラ輝かせながら私を見上げていた。
「……魔法?」
一瞬、私は彼女の言葉を聞き間違えたのかと思った。けれど、その真剣な瞳に揺らぎはない。
「そう!お母さんみたいにかっこいい魔法を使いたいの!」
私は思わず息を飲んだ。彼女の言葉は素直すぎて、かえって私の心を深く刺した。
「私みたいに、か……」
私自身、魔法を使うことには慎重になっている。10年前、あまりにも多くのものを失い、その傷が癒えることはなかった。あの時の力を振るうたび、私は過去に引き戻される。そんな私に魔法を教える資格があるのか、疑問すら覚える。
「クロナ、その……どうして突然魔法を?」
「私ね!魔法でお花を咲かせたり、お星さま作ったりしたい!それを魔法使えたらお母さんのお手伝いもっといっぱいできるでしょ!」
そんな純粋な理由に思わず微笑んでしまう。
「クロナ、魔法はそんな簡単なものじゃないぞ。危険もあるし、覚えるのには時間がかかる。それに……」
それに、私が教えることで、クロナがサーシャのように私の側から消えてしまうかもしれない。そんな想いを溢れてくるのを必死に堪え、クロナの瞳を見る。
真っ直ぐなクロナの瞳が、無垢な光を宿し私を見つめてくる。
「お母さんお願い!私、魔法が覚えたいの!」
その真っ直ぐな願いに、私の心は少しずつ折れていく。教えるべきじゃないと分かっているのに、クロナの熱意に押し流してしまう。
「……分かった。けど、約束がある」
「うん!何でもする!」
「魔法は慎重に学ぶこと。それと、絶対に勝手に使わないこと」
「分かった!絶対に守るよ!」
クロナの顔がぱあっと明るくなる。私はため息をつき、棚に仕舞ってあった一冊の本を手に取る。それはサーシャが遺した魔法書。気付くと私の鞄に入っていたそれを開く勇気がなく、こうしてずっと本棚に仕舞ってあった。
だが、サーシャのことだ、きっとこの本の中に魔法についての膨大な知識が収められている。
私はそう確信し、私だけでは開く勇気が湧かなかった魔導書をクロナの前まで持っていく。
「お母さん、それなあに?」
クロナが目を輝かせて尋ねくるので、私は魔法書をクロナの前にそっと置いた。
「これは……私の古い友達が書いた魔導書だ。クロナに教えるなら……これが一番いいだろう」
「古いお友達?」
「そうだ。……そいつは私にとって大切な友人だった。そして…誰よりも優れた魔法使いだった」
そして、魔導書を開けばサーシャの字で魔法理論や術式などが事細かに記されている。
「……むずかしい」
クロナが小さく呟く。その様子に私は小さく笑った。
「当然だ。これは大人でも難しい内容だ。だが、心配するな。クロナが憶えるのは魔法の基礎部分からだ、ゆっくり練習していこう……」
クロナは元気よく頷くと魔法書を小さな手で持ち上げページを捲り始めた。
◇
「いいか、クロナ。魔法は心を静めて、力を感じ取ることから始めるんだ」
次の日、私は庭にクロナを連れ出し、魔法の基礎を教えることにした。クロナは興奮気味に本を開き、指を指しながら質問攻めだ。
「お母さん、この『流星』ってどうやって作るの?」
「それは初歩の魔法だな。ただし、簡単だからといって侮ってダメだぞ?まずは心を落ち着け、イメージを明確に持つんだ」
クロナは私の言葉を真剣に聞き、目を閉じた。小さな手を胸の前に組み、呼吸を整える。私もそっと彼女の手を握り、魔力の流れを教えていく。
「冷たく、それでいて暖かな光……それが魔力だ」
「光……光……あ、なんとなく分かる!」
その言葉に、私は微かに驚く。初めての練習で、これほど早く魔力を感じ取れるとは。クロナはやはり抜群の才能を持っているのかもしれない。
「よし、その感覚をそのまま保って、その光を手の中に集めて球にするイメージをしてみるんだ」
クロナは小さな手を空に向けた。そして、彼女の指先に淡い光が集まり始める。揺らぎながらも確かにそこにある光り輝く小さな球————彼女の初めての魔法だった。
「……できた!お母さん見て!星ができたよ!」
「すごいな、クロナ。本当に才能がある……クロナは天才だな……」
私は思わず呟きクロナの頭を撫でる。光り輝く球を手に笑顔でワンに見せびらかすその純真さに私の頬は自然と弛んでいった。
練習が終わり、家の中に戻った私たちは、暖炉の火の前で一息ついていた。クロナはサーシャの魔法書を膝に広げ、夢中になって次の魔法を読んでいる。その姿を見つめながら、私はふと過去を思い出した。
サーシャも、こんなふうに魔法を学び、私を導いてくれた。彼女は才能だけではなく、人を守る意志が強い人だった。そんな彼女が遺した魔法書を、今こうしてクロナに手渡す日が来るとは思ってもみなかった。
「……サーシャ、私のやり方でいいのか?」
呟いた言葉は誰にも届かない。けれど、クロナの小さな背中が私に答えをくれるようだった。
彼女が私に言った「お母さんみたいにかっこよくなりたい」と。
その言葉の意味に応えるために、私は前に進むべきだろう。
「クロナ、今日はこれくらいにして休もう」
「えー!もっとやりたい!」
「また明日だ。時間がいくらでもあるんだから休める時に休むことも大切なことなんだぞ?」
クロナは不満そうにしていたが、結局素直に頷き、本を大事そうに閉じた。布団に入るとすぐに眠りに落ちた彼女を見て、私は小さく微笑む。
「……ありがとう、クロナ。お前が私に進む勇気をくれる」
その夜、私は窓の外に浮かぶ星を見上げながら、これからの道のりを静かに考えた。
「サーシャ……お前の魔法がクロナの未来を明るく照らすものになれるよう……私も努力するよ。……見ていてくれたら嬉しいな」
暖炉の火が小さく揺れ、部屋は深い静寂に包まれていった。
◇
クロナが魔法の練習を始めてから早1ヶ月……クロナと家族になって二度目の冬が訪れた。
ワンの毛が伸びに伸びて毛玉みたいになっているのをいいことに膝に乗せ、撫でるという癒しを受けながら、軒先で今日も今日とて魔法の練習をしているクロナを見守る。
クロナはやはり才能に恵まれていた。魔導書を読み、私が軽く助言するだけでその日には魔法を扱えるようになる。"灯台都市"の魔導士にも劣らないだろう。補助の杖無しでこれだ。正規の訓練を受け、適した杖を持てば忽ち一流の魔法使いになれる……と言ってもこれは私の主観なので正しいとは限らない。
ただ、才能があるのは事実だ。
熱中しすぎて時間を忘れるところはあるが、魔力暴走も起こしていないしこの年では十分すぎるくらいだ。
今日はクロナの好きな物を作ろう……そう思い至りクロナに視線を向ければ……クロナの足取りが覚束ないことに気が付く。
「………クロナ?だいじょう——————」
クロナの体から力が抜け崩れ落ちていく
「クロナッ!!!?」
異変に気付いた時には既にワンは膝から降りており、私もすぐにクロナを抱き止め、地面に落ちるのを防ぐ。
「クロナ…!なにが……!?」
混乱する頭で必死に理由を探す。
クロナの額に手を当てればその額が普段よりも熱くなっているのが嫌でも分かる
なぜ————何故こうなるまで気付いてやれなかった——————
その感情が私を支配してくる。だが、今は自己憎悪に陥っている場合ではない。私よりもクロナの方が苦しんでいる
急いで医者に診せなければ……しかし、この村に医者はいない。ならば、頼れるのは…
「メイル教会……」
私とクロナが出会った場所…あそこの司祭なら必ずクロナを助けてくれる……そう信じた私はクロナに防寒用の上着を何着も着せて、手の温度を下げる魔法でクロナの額を冷やしながらヴィム爺の家の扉を叩く。
「どうしたんじゃイーファよ…!?」
「クロナが…クロナが病気なんだ……!」
ヴィム爺の顔に浮かぶ驚愕と不安。それもそのはずだ。クロナの顔色は真っ青で、彼女の普段の元気な姿を知る者であれば、この状態にただならぬものを感じ取るだろう。
「……とにかく、話は後じゃ!まずはクロナを中に運べ!」
ヴィム爺の力強い言葉に私は頷き、クロナをしっかりと抱き上げたまま彼の家の中へ足を踏み入れた。暖炉の火が赤々と燃える室内は外の寒さとは比べ物にならないほど暖かい。クロナをヴィム爺が用意したベッドにそっと横たえ、私はその横に膝をついて額の冷却を続ける。
「どんな様子なんじゃ?」
「急に倒れたんだ……。魔法の練習中、最初は何ともなさそうだったのに、ふとした瞬間に力が抜けて……熱もあるようで……」
「時期も時期じゃ……子供の体はまだまだか弱い…風邪を引いてしもうたのじゃろうか……」
ヴィム爺の言葉に、胸が痛む。私はクロナが無理をしていないかを十分に気に掛けていなかったかもしれない。
「……それにしたって、熱まで出るのはおかしい。病気かもしれんし診せるべきじゃな」
「……やはりメイル教会しかないな」
私は力なくそう呟いた。メイル教会の司祭、コルネリウスならきっと何とかしてくれるはずだ。この辺りで頼れるのはあの司祭しかいない……
「エオランの馬を使うがよい…儂から話は通しておく……」
「……いつもすまない…この礼は必ず……」
ヴィム爺はしばし私を見つめ、やがて静かに頷いた。
「……気を付けるんじゃぞ。今は冬じゃ、お主も寒さの備えをしっかりの…同じまで倒れたとあったらクロナも村の皆も悲しむ」
「……忠告感謝する、ヴィム爺」
私は深々と頭を下げた。そして、クロナを再びしっかりと抱き上げ、防寒具をしっかりと整える。彼女の頬は熱のせいか赤く染まり、弱々しい吐息が聞こえるだけだった。
馬を借り、クロナを毛布で包んで片手で抱えながら、私はメイル教会へと急いだ。雪が再び降り始めたのか、凍てついた風と共に白い粒が顔に当たる。馬車の車輪が雪を踏みしめる音だけが響き、周囲の静寂が耳に痛いほどだ。
「クロナ……大丈夫だからな……少し我慢してくれ……!」
抱き締めたクロナの体は小さくて軽い。そんな彼女を守れるのは自分しかいないという思いが、私の心を締め付けた。
「……サーシャならどうしただろうな」
ふと、そんなことを呟いてしまう。サーシャなら、この状況でどう行動しただろう。きっと迷わずに、何もかも最善の方法を見つけ出し、私を導いてくれただろう。
でも、今は私が導かなければならない。私は母親なのだ。
◇
メイル教会の光が見えたとき、私は心底安堵した。教会の前には炊かれた火が灯り、厳しい冬の冷気の中でも暖かみを感じさせていた。
馬を止めてクロナを抱え、教会の扉を叩く。硬い木の扉が重々しい音を立てて開かれると、出迎えたのはコルネリウス司祭だった。
「フェレル様……こんな時間に一体どうされました?」
「クロナが急に倒れたんだ……頼む…どうか、助けてくれ……!」
その言葉に、司祭の顔が緊張に包まれる。
「急いで中へお入りください。診療所のベッドに寝かせて、すぐに診ましょう」
教会の中は外と比べ物にならないほど暖かかった。クロナを司祭の指示通りに寝かせ、私は彼の手の動きをじっと見守る。聖職者としての彼の動きは無駄がなく、手際が良い。クロナの額に触れ、静かに魔法を使って診断を行う。
「……診たところ風邪のようです。どうか、御安心をこの程度でしたら薬を飲んで2、3日安静にしていればすぐ良くなります」
その言葉に、私は肩の力が抜けた。安心感が胸に広がる。
「ありがとう……私は、クロナの体調に気付いてやれなかった……母親失格だな」
「そんなことはありません。近いからこそ気付けないこともあります。それに人は失敗する生き物、これから注意して見守るのがこれからの貴女様に出来ることです。今は気を落とさず、クロナさんを安心させてあげてください」
司祭の言葉に、私は眠るクロナの手を握り黙って頷くのだった。
その夜、私はクロナのそばで眠らずに見守った。熱は徐々に下がり、彼女の表情にも安らぎが戻りつつある。小さな寝息を聞きながら、私は深く息を吐いた。
「クロナ……すまない」
クロナの髪をそっと撫でる。クロナが元気を取り戻したら、もう少し魔法の練習を慎重にしよう。才能があっても、それを守るのが私の役目だ。栄養にもっと気を遣おう。
…クロナの為ならなんでもしよう。
教会の窓から差し込む朝日が、少しずつ部屋を明るく染め始める
「次は……絶対に…気付いてやるからな……」
その約束を心に刻み、私はクロナの小さな手を握りしめた