5話 育児とは
村の婦人たちの元に戻ると、そこに待ち受けていたのは想像以上の質問攻めだった。
「どうしてそんな小さな子供が突然?」
「どこで拾ったんだい?」
「あんた、本当に育てられるのかい?」
その鋭い言葉に、私は完全に気圧されてしまった。もっと驚かれるかと思っていたが、彼女たちはむしろ現実的だった。逞しいというか、まるで嵐のようだ。
…しかし、当然だ。犬猫を拾ったとは訳が違う。彼女たちの懸念は当然だった。私も正直…一切自信がない。
そんな空気に驚いたのか、クロナが私の胸に顔を埋める。私は背を撫でながらなんとか落ち着かせたが、あの勢いで畳み掛けられると逃げ場がない。そんな風にしていると、私達が乗り込んだ馬車は動き始める。
…なんとか日没までには帰れそうだと安心して、先程の婦人達からの質問への回答を考える。
「まぁ、まずはこの子の服だね。あるのかい?」
……服、無いな。私は一瞬思考が停止しそうになったが、村の婦人のひとりがさらに追い打ちをかけるように畳み掛けてきた。
「赤ん坊みたいに布を巻けばいいなんて思っちゃダメだよ。ちゃんとした服がいるからね。裁縫、できるだろう?」
「……あぁ、私だって裁縫くらいは、できる。幼い頃に……よく教えられた」
「ならよかった。でも、あんた、小さい頃に覚えた程度なら練習が必要かもね。後で見てあげるよ。」
「た、頼む……」
婦人たちは次々と具体的なアドバイスをしながら話を進めていく。育児初心者の私にとってはどれも耳の痛い言葉だったが、それ以上にためになる内容だった。私は素直に「育児について教えてほしい」と頭を下げるしかなかった。
そして婦人たちは快く教えを引き受けてくれたが……その場では"この選択を後悔する日が来る"という予感は微塵もなかった。
◇
馬車を降りると、迎えに来ていたヴィム爺が驚愕の表情で固まっていた。口が大きく開いたまま、一瞬顎が外れたのではないかと思うほどだ。
「な、な、何じゃ……どうしたんじゃその子は…!?」
「いや…その…メイルで色々あって…私が育てることになった…」
「な、なんと…!?」
ヴィム爺に事情を話し、何とか納得してもらった。とはいえ、爺さんの表情は終始引きつっていた。家に戻ると、今日はもう遅いし私は早速クロナを寝かせる準備に取り掛かった。
「クロナ、今日は私と一緒に寝るぞ」
「いっしょにー!」
私のベッドに潜り込むクロナは、嬉しそうに私に抱きついてきた。その温もりが心地よく、私はすぐに眠気に襲われた。
「クロナ用のベッドも作らないとな……」そんなことをぼんやり考えながら、私は静かに瞼を閉じた。
———次の日から母親の過酷さを思い知ることになるとは露も知らずに。
初めての育児、それは試練の日々だった
「味が濃い!こんな味付けじゃクロナちゃんの舌が馬鹿になっちまうよ!」
私が作った食事の味見をした婦人のひとりが、眉間にシワを寄せながら私に言い放つ。
「……す、すまない」
旅の中で覚えた料理の味付けは、子供には濃すぎたらしい。言われてみれば、確かにクロナが水を飲む量が多い気がする。
「もっと薄味にしなきゃダメだよ。子供は濃い味に慣れると、他の味が分からなくなるんだから」
……育児とは、ここまで繊細なものだったのか。
「イーファ、あんた眠る前にクロナちゃんに絵本とか読んであげてるかい?」
「いや……絵本は……」
「じゃあ、これあげるよ。この年頃の子は言葉を覚えるのが早いから、毎晩読んであげなさい。」
そう言って婦人たちは絵本を何冊も持ってきた。言われるがまま、私は夜にクロナへ絵本を読み聞かせることにしたが……
「えほんきらーい!」
数日後には、飽きてしまったクロナが突然嫌いだと言い放った。その言葉に私が激しく打ちのめされていると、「おうまさーん!」とクロナが背に乗っかってきたのでおうまさんごっこをしていると機嫌を直してくれた。
「すぐに次の手を考えないとダメなのか…」
子供の興味を引き続けることが、こんなに難しいとは思ってもいなかった。
「イーファちゃん、まさかまだ煙草吸ってるのかい?」
「?あぁ、吸っているが……」
「お馬鹿!子供が小さいうちは煙草なんてやめなさい!」
厳しい声に、私は思わず手にしていたパイプを見つめる。婦人たちは全員一致で「煙草はダメだ」と言い切った。その日のうちに私はパイプごと捨てることになった。
「……突然の別れだったな」
そんな日々の中、ある日クロナが満面の笑顔で私に言った。
「おかあさん、わんわんひろった!」
振り返ると、小さな犬が私の足元に寄ってきていた。まさに天真爛漫そのものの姿に、私は思わずため息をつく。
「……それは、家で飼える犬なのか?」
「かえるの!」
クロナの満面の笑みを見ていると、もう何も言えなくなった。私はその場にしゃがみ込み、小さな犬の頭をそっと撫でる。
「よろしくな……新しい家族だ」
「なまえつける〜!!」
子犬がクロナを足元をピョコピョコ走り回る。
「う〜んとね〜!わん!なまえわんにする!」
「わん…?名前が"ワン"ということか…?」
「うん!!」
満面の笑みでそう言われたので、そんな笑顔の前に私の意思など地上に出てきた木菟より脆い。
「そ、そうか…じゃあ、ワン…よろしくな」
子犬改め…ワンの頭を撫でる
「ガウっ!!」
「わんじゃないのか…」
そんな事もありつつ、これが、母親としての試練と喜びが入り混じった日常の始まりだった。
「母親になるのって、こんなに大変だったのか……」
育児に追われる毎日は、想像以上に過酷で、それでも楽しい瞬間もたくさんあった。クロナの笑顔が、私を救ってくれる———そんな日々だった。
だが、クロナを中心にした嵐のような日々が終わることはない。子供は風の子、休みなどないのだ。
「イーファ、クロナちゃんの服の予備はあるのかい?」
婦人のひとりが、村の広場でワンや他の子たちと遊んでいるクロナを眺めていた私にそう話しかけてくる。
クロナが着ているのは、私が昨晩必死に裁縫した服だったが、確かに予備はまだない。
「す、すまない…まだ予備の服を作る時間がなく……」
「時間がない?そんな言い訳でどうするの!子供は汗をかくし、すぐ汚すんだから服はいくらあっても足りないよ。ほら、この布持っていきなさい!洗い替えを作るのが先決だよ!」
そう言って婦人が手渡してきたのは、大きな布の束だった。やや使い古されているが、きっと彼女の家で大切にされていたものだろう。その厚意に私は頭を下げたが、心の中では途方もない不安が渦巻いていた。
「……そんなにたくさん、縫える自信がないな。」
夜、裁縫道具を広げ、婦人からもらった布に手をかける。孤児院で習った裁縫の技術はそれなりに覚えているが、これほど小さな服を作るのは初めてだ。
「……よし、これでいいはずだ。」
作業を終え、裁縫台の上にはクロナ用に仕立てた服が2着並んだ。多少縫い目が曲がっているのはご愛敬だ。明日、クロナがこれを気に入ってくれるかどうか、先にベッドで幸せそうに眠るクロナの顔を見ながら…不安を抱えながら、私は眠りについた。
翌朝、クロナに新しい服を着せてみた。
「どうだ?…こんな物しか作れないが…」
「わーーい!!おかあさんがつくったの!」
予想以上の喜びを見せてくれるクロナに、私の心は少しだけ軽くなった。やはりこの子の笑顔は、私を救ってくれる。
「わん、みてよ〜!おかあさんがつくってくれたんだよ〜!いいでしょ〜!」
「わん!!」
ワンも褒めてくれているのかな…?
だがその直後、問題が発生した。クロナが村の広場で遊んでいる間、泥だらけのワンと同じくらい服が泥だらけになり、裾は引き裂かれていたのだ。
「クロナ……どうしてこうなるんだ?」
「わかんない!」
無邪気に笑うクロナを見ていると、怒る気力も失せてしまう。服の洗濯と補修を考えながら、私は深い溜息をついた。だが、不思議と悪い気はしない。…幸せ疲れとでも言うのだろうか
ワンに付着した泥をクロナと一緒に洗い流し、洗濯も手伝ってくれたのでその日の疲れは吹き飛んだ。私の娘はすごくいい子だ
ある日の午後、クロナが村の婦人たちに連れられて遊びに行っている間、私は家で膝の上にワンを乗せながら一息ついていた。
ようやく一人(と1匹)になれる時間が取れたかと思ったのも束の間、婦人たちの声が家の外から聞こえてきた。なので、扉を開けて自宅に招き入れるとこんな事を言われた
「イーファ、あんた、クロナちゃんの歯磨きしてるかい?」
「……は、歯磨き?魔法で洗浄ならしているが…」
私はぽかんとした顔をした。孤児院では歯磨きの習慣などなかったし、戦場にいる頃もそんな余裕はなかった。それに、まだ子供に歯磨きが必要だという概念が自分の中にはなかったのだ。いや、私の歯は綺麗だぞ?魔法で洗浄する方が手間も少ないし、早いのでそうしているだけであって…
「ダメだね、魔法なんかに頼ってちゃいざと言うときどうするのさ!歯は小さいうちから道具を使って磨かないと。ほら、この歯ブラシと歯磨き粉、この前商人さんから買ったのあげるから、今日からちゃんと教えるんだよ。」
「そ、そうか、感謝する」
その夜、クロナに歯磨きを教えようと試みたが……
「いやー!ぴりぴりするー!」
クロナはこの歯磨き粉の味が苦手らしく、泣きながら抵抗する。仕方なく私がなだめながら教えるが、力加減を間違えると痛がられる。結局、初日はほとんど磨けずに終わった。
「……歯磨きってこんなに忍耐がいるのか」
それでも辛抱強く力加減を間違えないようにクロナに歯磨きを教える。そして、クロナは私と一緒に磨くことで漸く受け入れてくれた。
そんな苦労と幸せが押し寄せる毎日が続いていたある日、クロナが不意に私の手を握ってきた。
「おかあさん、いつもありがとう。」
「き、急にどうしたんだ?」
「おいしいごはん、てづくりのふく、たのしいおはなし……ぜんぶ、ありがとう!わんもありがとうっていってるよ!ねっ、わん!」
「わうっ!」
その無邪気な笑顔に、思わず胸が熱くなった。私はまだ未熟で、母親としての自信は全くない。それでも、この子が笑ってくれるなら、それだけで十分なのかもしれない。
「そうか…なら、これからも頑張るよ」
私はクロナの頭をそっと撫でた。まだ始まったばかりの母親としての日々。けれど、私の隣で笑うこの子のためなら、どんな困難も乗り越えられる気がした。
その日、私はまた夜遅くまでクロナの服を縫い直していた。明日も、この子が元気に遊び回れるように—————そう願いながら。
「……母親って、大変だな…」
それでも、心の中には確かな充実感が広がっていた。きっと、これが「家族」というものなのだろう。
それと同時に何人、何十人もの性格も何もかも異なる子供達を世話している世の孤児院の院長というのはとても偉大なのだなと改めて実感するのだった。