4話 覚悟
「私が母親に、か…」
その言葉が自分の口から出た瞬間、胸の奥に冷たい重石が落ちたような気がした。
母親。そんな立派な役目を担う資格が、この私にあるのだろうか。
剣を振るうことしか知らず、守るべき友を守れなかった私に。
捨てられた子供の人生に責任を持つなど、そんな大それた覚悟を抱く権利などあるのだろうか。恐怖と躊躇、そしてかつての自分への嫌悪感が胸の内を締めつける。
お前はそれでいいのか、と私はそっとその子の顔に触れる。
この小さな頬に何が詰まっているのか、私にはまだ分からない。
血の繋がりもない、心の繋がりすらまだ芽生えていないのに、
私はこの子の未来を預かることができるのだろうか。
「おかあさん?」
眠りから覚めたばかりの子供と目が合う。
その舌足らずな声が耳に届いた瞬間、心が一瞬揺らいだ。
子供らしいあどけない顔、しかし一切ブレず私を見つめるその瞳———その瞳は透き通った碧い色をしていて、私の記憶の深層にある光景を不意に呼び覚ます。
その碧眼は……サーシャによく似ていた。
気がつけば息が詰まり、目の奥に熱いものが込み上げてくる。
「……まだ違う」
震えそうになる声を押し殺し、私は視線を逸らした。
この子に期待される資格はまだない。期待に応える覚悟も。
あのサーシャのように、無条件の優しさを与える勇気もない。
私はただ、その碧眼が心を揺さぶるたび、自分の弱さを思い知らされる。
「お嬢さん、お嬢さんの名前を教えてくれないかな?」
神父が柔らかな口調で子供に問いかける。
その声は優しさに満ちていて、子供を安心させる力があった。
私は、こんなふうに問いかけることすらできない自分が情けなく思えた。
この子のことを何一つ知らない。名前も、本当の親も、何も。
「なまえ?……」
言葉に詰まる子供を見て、司祭は更に問いかけを変える。
「分からない、ですか…でしたら御両親、お母さんはどちらに行かれましたか?」
子供は困惑したように顔を歪めた。そして、答えない。
むしろ、答えられないのだろうと私は直感した。
小さな体には抱えきれないほどの孤独がまとわりついているように見える。
「なるほど……何も覚えていないのですね」
司祭の言葉は静かで穏やかだが、私にはそれがひどく重い現実の宣告に聞こえた。
この子が今までどれだけ孤独だったのか、考えるだけで胸が痛んだ。
こんなに小さいのに…名前すら与えられていなかったというのか…
「フィレナ様、この子はどうやら……」
「訳あり、だろうな。…あぁ、お陰で決心できたよ」
そう言ったものの、決心という言葉にはどこか嘘が混じっている気がする。
ただ、それ以上躊躇するのは自分自身が許せなかった。
私は一歩踏み出す。その小さな命の側に立つために。
…立つべきだと思ったから
その子の側に行き、膝をつき、目線を合わせる。
何も分からないままに立てた覚悟。それがこの子を幸せにする保証になるだろうか。
それでも———この小さな碧眼が私を見つめるなら、逃げるわけにはいかない。
「———この子は私が育てる。」
自分の言葉が思った以上に強い響きで耳に届く。
逃げ続けてきた自分にとって、それは最後の逃げ道を断つ宣言だった。
しかし、その言葉にはわずかな希望も混じっていた。
「……そして今度こそ守り抜いてみせる。必ず……」
この子が望むものを
この小さな命を———守ってみせる
もう二度と失わないと誓う
それは、自分の過去に負けないための新しい戦い…
私はもう、逃げない。
逃げ続けてきた私が、この子と共に新しい一歩を踏み出すのだ
◇
「本当に"祝福"を授けずによかったのですか?万が一の可能性もあります故、私としては授けておきたいのですが…」
「…今は構わない。…もう少しだけこの子の事を知ってからにしたいんだ。」
「貴女様がそう仰るなら私としてはこれ以上は言いません。どうか、御健康に気をつけてその子を健やかに育ててあげて下さい。」
「…約束しよう。では…」
そう言い、私はまた眠ってしまった幼子を優しく抱き抱えながら教会を後にした。
私の腕の中に収まり、また眠ってしまった柔らかな小さな体の重みが、私の腕の中に静かに伝わってくる。この子は、何も知らない。何も選べないまま、世界の理不尽の中に放り出された—————そんな無垢な存在だった。
神父の温かな視線を背に感じながら、私は教会の大きな扉を潜り抜ける。閉まっていく扉の奥で手を合わせ祈る神父の姿が見えた。その口から紡がれる祈りの声は聞き取れなかったが、その思いが私とこの子に向けられていることは分かる。
「主よ、どうかあの母子に御心のまま大いなる愛を授けると共に、母子に永遠の導きがあらんことを」
神父が言ったあの言葉———「母子」という響きが、どうしても胸に刺さった。私は本当に、母親になれるのか? この子の人生を守り抜くことができるのか?
「……」
抱える腕を少しだけ強くする。その重みに応えるように、子供は小さなため息をつきながら私の胸に頭を預けた。無防備な寝顔を見ていると、どうしようもなく愛おしさがこみ上げてくる一方で、同じだけの恐怖が私の胸に居座っていた。
外に出れば、昼だった空はすっかり夕焼けに染まっている。私の中に焦りが生じる。
村の婦人たちを、待たせてしまっている…護衛を頼まれたのにその私が待たせてしまうなど…そう思うと村の婦人たちが待っているであろう場所へと進む足が早くなる。
◇
教会を後にし、私は石畳の道を歩き出す。夕焼けの空から少し冷たい風が吹いていたが、子供が寒そうにする気配はない。私の体温を感じているのだろうか。そう思うと、少し安心すると同時に責任の重さを思い知らされる。
道中、子供の顔を見るたびに様々な思いが頭をよぎる。皺一つない整った顔立ち。将来、きっとこの子は美しく成長するだろう———その時、私は母として胸を張れるのだろうか?
ただ「この子を育てる」と言葉にしただけでは、何一つ始まらないのだ。
「まさか、本当に名前が不明だとはな…」
口にしてみると、それがどれほど悲しい事実なのか改めて痛感する。名前がない…それはこの子の過去が誰にも顧みられていないことを意味している。この子にとって、私は一体何者になれるだろう。
小さな声が聞こえた。
「ううん…」
眠りから覚めたのか、腕の中で子供が軽く身じろぎする。起こしてしまったらしい。こんなに疲れただろうに、悪いことをした。
「…すまない、起こしてしまったな」
「おかあさん?おかあさん…」
その言葉を聞いた瞬間、心臓が一瞬止まった気がした。
母親—————私は今、その呼びかけを受けるべき存在だろうか?
本当の母親を思い出しているのだろうか。それとも、この子が求めているのはただ「誰か」……守ってくれる存在なのか
「あぁ、私は此処にいるよ。心配しなくていい…よしよし…」
そう言いながら背中を撫でる。ぎこちない手の動きだったが、子供は安心したように小さく笑う。その笑い声が耳に届くと、胸の奥が少しだけ暖かくなった。
「えへへ…」
「……これで良かったのだな。よしよし…」
この子にとって、私が安心を与えられる存在であるなら、それだけでいい———そう自分に言い聞かせた。
婦人たちに申し訳なさを感じながらベンチを見つけて腰を下ろすと、膝にその子を座らせる。これから先のことを考えなくてはならない。この子の人生が始まるために、まず名前を——————そう、名前を与えなければ。
「その、ええっと…その…だな…」
「?」
小さな顔が不思議そうに私を見上げてくる。その瞳は透き通った碧い色で、サーシャの面影を幻視してしまう。
「名前を、決めたいのだが…いいだろうか?」
「なまえ!」
その言葉に、笑顔を浮かべる子供。喜んでいるようだが、その純粋さが逆に私を焦らせる。一生使う大切な名前をこんな場所で決めてしまっていいのだろうか――そんな考えが頭をぐるぐると回る。
『子供ができたらさー、私の故郷の名前をつけようって決めてるんだよね!』
ふと、過去の記憶が頭をよぎる。故郷——————それは私にとっても大切な場所だ。捨てられたとは言え、生まれ故郷には愛着がある。ならば、この子の名前にもその想いを込めよう。
「…クロナ、クロナ・フィネラ…お前の名前だ…その、…どうだ?」
恐る恐る名前を告げると、子供は目を輝かせて声を上げた。
「くろな、くろな!なまえ、くろな!」
その声が純粋に嬉しそうで、私は思わず笑みをこぼしてしまう。
「!!そうか、喜んでくれるか…クロナ、これからよろしくな?」
「おかあさん!くろな!」
小さな手が私にしがみつき、満面の笑顔で名を呼ぶ。私は膝の上の小さな存在に応えるように頭を撫でた。
こんな感情が自分の中にまだ残っていたのだと気付かされる—————それは驚きと同時に、嬉しさでもあった。
「危ないからあまりはしゃぎ過ぎては駄目だぞ?」
そう言いながらも、私は嬉しさを隠しきれなかった。この子が笑うたびに、私の中の欠けた部分が少しずつ埋まっていくような気がする。
「ふふっ…これでいいのだろうか。なぁ、サーシャ……」
空を見上げながら、私は遠い友の面影を追いかけた。彼女なら、この場で何を言うだろうか。そして、どんな顔でこの子を見守るだろうか。きっと笑顔を浮かべて、私を励ましてくれるだろう。
その笑顔を思い浮かべながら、私は胸の中で静かに誓う。
「……私は、もう一度歩いてるよサーシャ…」
腕の中のクロナの温もりが、その誓いを後押ししてくれた。