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11話 ハイドラ



メイルの街全体に鐘の音が響き渡る。

眠りについていた家々に灯りが次々と灯り、同時に南門の方向から生じた激しい衝撃波が街を揺らした。


その衝撃は、イーファたちのいるメイル教会にも届き、窓は軋み、外壁は微かに震える。そして揺れが収まるや否や、街に響き渡る鐘とは異なる、甲高い生物の咆哮が夜空を切り裂いた。


その咆哮を耳にした瞬間、イーファはその咆哮の主を思い出す。旅の最中に何度も何度も耳にした聞き覚えのある咆哮だった。

10年前、災厄の王討伐の旅の中で幾度も行く手を阻み、絶望の獣(ドゥルフヴォルタ)の尖兵として都市を襲い人々を恐怖に陥れた存在。行商団を壊滅させた話に事欠かない巨大な魔獣。


———八つの頭を持つ蛇の魔獣、ハイドラ。


突然の鐘の音と衝撃音、そして恐ろしい咆哮に怯えるクロナをイーファは抱き上げた。その小さな体が震えているのを感じ、腕の中でそっと抱き締める。


「大丈夫だ、クロナ……怖がらなくてもいい。お母さんがいる」


クロナの髪を撫で、声を落ち着ける。


コルネリウス神父もまた冷静だった。事態を把握しようと額に手を当て、祈りのように短く息を吐く。するとバンッ!という音と共に教会の扉が開かれ、慌てた様子の冒険者が飛び込んできた。


革鎧を纏い、顔には緊張の色が浮かぶその男は、言葉を詰まらせながら報告する。


「大変です、神父様!み、南門にハイドラが現れました!」


「承知しております。現状はどうですか?」


毅然としたコルネリウス神父の態度に、男は少し落ち着きを取り戻したのか、続けて口を開く。


「現在、南門でハワード隊長以下20名が応戦しています!ただ……その……」


男の言葉が詰まる。恐怖と無力感が滲む表情だった。


イーファもそれを理解していた。

ハイドラは一般的な魔獣とは比べ物にならない。個体によっては八本の首から強力な魔法ブレスを吐き、全身を覆う鱗は名剣すら弾き返す。災禍の魔獣の眷属であるのは伊達ではない。オマケに冒険者のあの様子だとイーファが一年前に討伐した暴食の眷属と違い弱ってもいないようだ。


防衛設備が整った大都市でもハイドラが相手ともなればその脅威は未だ現在、寧ろ災禍の魔獣、そして災厄の王の存在が消えた今、人類に最も身近な脅威的な存在と言えるだろう。


そんな相手にメイルの冒険者たちが時間を稼げるかどうかも怪しい。このまま放置すればメイルは壊滅するだろう。ハイドラとはそのレベルなのだ、故に目撃情報があれば近隣の大都市から騎士団が派遣されるのが通例だが、到底間に合わない。現に間に合っていない。


イーファはクロナをそっと床に下ろした。


「クロナ、ここで待っていてくれるか?お母さんは……獣退治に行ってくる」


クロナは目を見開き、縋るような瞳でイーファを見上げた。


「お母さん……街の人を助けに行くの?」


「ああ、……私にはその責任があるからな」


その言葉に込めた決意を察したのか、クロナは小さな手でイーファの手を握りしめた。


「じゃあね!私からお母さんに———勝利のおまじない!!」


クロナが手をかざすと、そこに魔法陣が浮かび上がり、一瞬の霞となってイーファの体を包む。不思議な感覚が体を駆け巡り、イーファは体中に力が漲るのを感じた。


「……これは……クロナこれをどこで…?」


「えっとね…なんかね、夢で見たの!これ使えばお母さんの役に立てるって!」


体中に漲る力…それはかつてサーシャがイーファに掛けていた身体強化魔法を思い出させる効果、しかしサーシャの物とはまた違う温かみを持つクロナの"おまじない"に懐かしさと深い安心感を抱いたイーファが強く手を握る。



「…やはりクロナは天才だな。私の自慢の娘…あぁ、お陰でお母さん今なら"暴食の獣(カダルヴォルン)"でも蹴散らせそうだ…ありがとうクロナ、愛してる」


イーファがその長身を屈ませ、クロナの額にキスをする。そして、最後にクロナの頭を撫でて、コルネリウス神父に向き直る。


「—————ハイドラを殺してくる。ただ、武器の手持ちがない。…冒険者、悪いがその剣を貸してくれないか?潰した時は弁償をすると誓おう」


「えっ……まぁ…いいけどよ…いや!でも相手はあのハイドラ——————」


「ご心配なく、この御方はハイドラよりも強い」


「そうだよ!!お母さんはハイドラ?になんか負けないもん!!」


「…期待が重いな。だが、できるだけ応えてくるとしよう」


剣を受け取り、イーファは教会の扉を開け放つ。振り向くと、愛しい娘が手を振っていた。


「——————いってらっしゃい!!」


その声を背に受け、イーファは跳躍し教会の外に飛び出した。





教会を飛び出したイーファは、南門を目指して屋根を駆け抜ける。民家の瓦の音が響き、跳躍するたびに風が長い髪を揺らす。民家の屋根に着地し、走り、再び跳躍…これを繰り返し南門へと急ぐ。


街の人々が混乱の中で教会へ避難する姿を目にしながら、さらに速度を上げた。


「……間に合うか」


戦闘の音が次第に大きくなり、南門が見えてくる。メイルの城壁、屋根を走るイーファの視線よりも高いその壁をイーファは足に力を込め、大跳躍、城壁を飛び越え視線を向ければ…



「⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎—————————‼︎‼︎」



————月明かりの下、荒れ狂うハイドラの姿が目に飛び込んできた。


八つの頭を振り回し、長い尾で地面を薙ぎ払い、その鱗で冒険者達の攻撃を跳ね返す。冒険者たちは懸命にハイドラから距離を取りながらその巨大に巻き込まれないよう必死で戦っている。しかし、放った矢は鱗に弾かれ、魔法すらも掻き消されている。


「……好き放題してくれる」


重力に身を任せ落下しながら、剣を握り直す。


イーファの体は、クロナのおまじない…身体強化の魔法によって限界を超えた力で漲っている。心の中で笑うクロナの面影を一瞬だけ思い起こし決意を固める。


「背後にクロナがいる、必ず此処で仕留める」


月光を背に剣を構えて弧を描きながら、イーファはハイドラとの戦いに突入していった。






軽装の冒険者達の先頭に立ち、ハイドラと相対する無精髭を生やした浅黒の男、ハワードは心の中で激しい後悔に襲われていた。


子供の頃に故郷を魔獣に襲われ、故郷を追われたハワードは成り行きで冒険者と呼ばれる集団の前身に当たる無冠の勇士と呼ばれていた義勇兵団の一隊に入団した。戦いの才能こそあまり持ち得なかったが、人との交流が得意だったハワードは仲間たちを後ろから支える役割に徹していた。そのまま、戦争が終わり自由衛士団が冒険者と呼ばれる都市に雇われる傭兵へと変化した際も辞めどきを見失い、ズルズルと冒険者を続けてきた。


それでも雇われたメイルは平和で食事も旨く、美人の妻とも出会えたハワードは今の生活に満足していた。


—————今この時までは



仲間たちと軽食片手に夜警に当たっていただけなのに、突如黒いモヤと共にハイドラが現れたことで状況は一気に最悪の方向に変化した。


ハワードは当然ハイドラの脅威を知っている。それがメイルからしたら滅亡クラスの災厄であることも。咆哮で吹き飛ばされ、地面を転がり、半狂乱気味にハイドラに立ち向かった新入りは目の前でハイドラに丸呑みにされ、ムードメーカーのお調子者は腰が抜けていたところを尻尾で叩き潰された。


恐怖から歯が鳴ってしまう。全身が尋常じゃないぐらい震えてしまう。それでも、冒険者として染み付いた癖から頭で勝てる筈がないと理解っているのにハワードはハイドラに剣を向けてしまう。




ハイドラの十六の眼が一斉にハワードを凝視する。


全身の血が引く感覚がした。ハワードの体から感覚が抜け硬直する。


脳裏に浮かぶのは「死」の一文字。ハイドラの左端の首が動き、山なりにハワードに降ってくる。


夜でもはっきり見える鋭い牙。どう足掻いても助からない、助けもない。思い出されるのは死んでいった仲間たちの顔と今日も弁当を作ってくれた妻の笑顔




「————————あぁ、くそ……」



眼前にハイドラの口が迫り、絶望に目を閉じた瞬間—————————




——————ハイドラの首が斬り落とされた





「えっ、あっ…?」


ハワードが恐る恐る目を開ければ視界一杯に広がるハイドラの口内の光景。異臭が漂ようその空間にハワードは驚き思いっきり飛び退いた。


「あれ?俺生きてる?なんで?てか、ハイドラの首が…誰が」


自分の顔を触り、生きていることを自覚し直したハワードは顔を上げる。

眼前では首を斬り落とされたハイドラが黒い血を噴き出させ、残った首が怒りの咆哮を上げている。そして、遅れて斬り落とされたハイドラの首に着地する人影。



何処にでも売られている革の外套に何の変哲もないズボンとブーツ、格好だけ見ればメイルの一般的な住民と見間違いそうだが、そこに浮かぶ琥珀色の眼と視線が合った時、相手がただの住民ではないと一瞬で悟った。全てを見透かされた感覚に陥り、その体はハイドラと対峙した時とはまた違う緊張感に包まれた。鋭い眼光がハワードを一瞥し、一度怒り狂うハイドラに向けられ、またハワードに向けられる。



色が落ち地毛が見えつつある黒髪を揺らした女性が右手に剣を持ち、ハワードを見ていた。男性と比べても高い部類の長身、スラッとしたスタイル、女性でありながら一撃でハイドラの首を切断できる実力、ハワードの脳が混乱に陥る。




「———————怪我は」 


「おっ、ん?えっ?」


「怪我はないか」


凛とした声、ハワードは妻とはまた違う声質の女性の声に先程までの出来事との落差に不思議な感覚に陥る。


「あっ、だ、いや…ない、大丈夫……だ」


「そうか、間に合ってよかった。……もっと早く来るべきだった、すまない」


高圧的かと思えば、謝罪されるハワードは混乱しすぎて未だ目の前にハイドラが健在なのを忘れかけてしまっていた。斬られた首を再生させたハイドラが腹いせとばかりに八つの口を大きく開き、ハワード————そして斬られた首の上に立つイーファに向けて属性ブレスを吐き出す。


その範囲はハワードやイーファだけで済むものではなく、他の冒険者たちや背後のメイルにも被害が行きかねないもの、ハワードが我に帰る。



「ま、前!あんたブレスが来るぞ!?生きたと思ったのにこれかよクソがっっ!!!!!」


思わず口から溢れた悪態、しかし、ブレスよりも先にイーファがハワードに声を掛けた。



「落ち着け、問題ない。ハイドラも私が仕留める、負傷者を安全な場所に。……信用しろとは言わない、ただこの場は任せてほしい」



放たれるハイドラの八本のブレス。




——————しかし、そのブレスがハワード達を呑み込むことはなかった。



メイルやハワードたち冒険者を守るように展開された防御魔法、幾何学的紋様が浮かぶそれはハイドラのブレスの一切を遮断している。


「す、すげぇ……あんな規模の魔法防御を…」


「何者だ、あの女…?」


「助かった…の?」


口々に冒険者が驚嘆や安堵の声を漏らす中、ハワードは唯一その防御魔法に目を奪われていた。


10年前、とある馬車列を護衛した時に魔獣に襲われた。鷹を彷彿とさせるその魔獣の襲撃にパニックに陥った時に、馬車列を一瞬で覆い尽くし魔獣から守ってくれた魔法の壁、それをハワードは思い出していた。


そして、その時初めて見た2人の英雄の姿。

魔法耐性を持つ魔獣を塵に変える魔法の数々、その傍らで振るわれる大地を削り飛ばす斬撃。その光景は未だハワードの脳裏に焼き付き離れない。




奏者(フィオナール)……?」



その単語にイーファはハワードに振り返り困ったように小さく笑った


「……残念だが別人だよ」


ハイドラがブレスの放出をやめ、イーファに突進してくる


「下がっていろ、すぐに終わらせる」


ハワードは頷くと仲間達を纏め上げ、後ろに退がるのだった。






月明かりの下では戦いが続く。


ハイドラがイーファを潰そうと首を振り落とせば逆にイーファはその首を斬り落とし、その勢いでまた一本斬り落とす。しかし、ただ斬っただけではハイドラの首はすぐ再生してしまう。傷口から生えてきた首がイーファにブレスを放つ。


背後のメイルに被害がいかないよう防御魔法でブレスを防ぎつつ、クロナの"おまじない"で強化された身体能力を最大限発揮して、ハイドラに接近



「その口を閉じろ」


ブレスを回避しながら、跳躍。ブレスを吐く右から2番目の首の顎を蹴り上げ、ブレスを中断させる。


かちあげられた首が大きく仰け反り、その巨体が僅かに後方に浮き上がったところをイーファの琥珀の瞳は見逃さない


「落ちろ」


そのまま、空中でイーファは剣を両手で握り締め…

全力で横に一閃——————‼︎


大気が斬り裂かれ纏めて三本の首を斬り飛ばし、ハイドラの黒い鮮血が宙に撒き散らされ、地面を染め上げる。


その様子を確認してイーファは着地。しかし、満足いかなかったのか舌打ちする。


「チッ……私も衰えたな、あれで三本か……情けない……!」


10年間、マトモに剣を振るって来なかった代償をイーファは改めて自覚する。1年前の戦闘以来感を取り戻すべく剣の鍛錬を積んでいたがクロナとの生活の優先順位の違いから全盛期の剣技を取り戻すことはできていない。


側から見れば十分過ぎるほどの剣技だが、かつてのイーファを知る者がこの場に居れば溜息を吐いて首を横に振っていただろう。



「…分かってはいたがキリがないな。私自身ここまで鈍ったとあっては一撃で消し飛ばすこともできない……」


既に刃毀れし、ボロボロになった剣を確認し、精々一撃が限外だろうと結論付ける。武器を変えたところで結果は同じ、永遠と消耗戦が続くだけでもし、ハイドラがイーファから攻撃対象をメイルに変えれば全ての行動の意味が失われる。


「やれるか……?」


ならば、と考える。物理的に倒せない以上、残された手は魔法で一気に消し飛ばすのみ。ただ、イーファは元来剣士であり、魔法は相棒のサーシャの影響で取得したに過ぎず専門ではない。しかも、10年間のブランクでハイドラを倒し切れる程の魔法が確実に発動するとも限らない。


しかし、こんな状況で博打的な決断を行う経験をイーファ達は何度も経験していた。むしろ、予定通りにいったことの方が少ないぐらいである。ならば、迷っている暇はない。



「前進あるのみ……」


剣を握り直し、腰を低くし剣を斜め下に構える。狙いをハイドラの中心の首に定め、足に力を込める。


—————おまじないにより強化されたイーファの体が雷のような轟音と共に地面から掻き消える。


地面が捲れ上がり、イーファの姿がハイドラの背後に現れる


中心の首がズリ落ち、地響きと共に地面に落ち、血が噴き上がった。


宙を蹴り上げ、イーファがハイドラの上に陣取る。先程の一撃で刀身が砕け散った剣の柄だけを握り、ハイドラに指向する。


その柄の先端に黒い魔法陣が現れる。既存の魔法理論には存在しない独自の魔法陣、それがハイドラに向けられる。


「(サーシャ……私に力を……)」


そう願う。かつてサーシャが使用していた攻撃魔法の応用、不思議と詠唱が空に浮かぶ星々のように浮かび上がってくる。


「…流れ墜つ星の残響よ、虚空の嘆きで劇場を染め上げよ——光無き音で詩を奏で世界の理を楽譜に刻め———」


ハイドラが空中のイーファにブレスを放とうとする。だが、イーファの方が早い。





「——————————《虚奏曲(オルガノン)》」







魔法陣から放たれた漆黒の柱がハイドラを呑み込み……



"空間ごとその巨大を引き裂いた"





「驚いたぜ……まさか、本当にハイドラを討伐しちまうなんてよ…」


ハイドラが消滅し、無事危機を脱したメイルの南門でイーファはハワードに呼び止められていた。


「…とは言え流石に疲れた。専門でない魔法を使うものではないな……其方の被害は?」


「……死んだのが2人、重症なのが5人、怪我はしてるが心配いらねえのが11人…まぁ、ハイドラを相手にしたのに2人しか死んでねえのが奇跡みたいなもんだ、俺たちは運がいいぜ…」


「…すまなかった。もっと早く来るべきだった、そうすれば犠牲を減らせたはず……」


「止せよ、言ったろ?俺たちは運が良かった。アンタが居なけりゃ俺たちどころかこの街が消えてたかもしんねぇ、それに比べりゃ……遥かにマシな結果さ…」


「……」


「そんな顔するな、いい女なのに台無しだぜ?アンタのこと別に詳しく聞く気はねえ。それでこの話は全て終わり、どうだ?」


ハワードがイーファに手を差し出す。


「……後を頼む」


「任せとけ……そう言う役目はこちとら慣れっこよ」


笑顔はない。ただ、それでも2人は互いの手を握り、イーファは教会へ、ハワードは損壊した南門へと歩き出した。



「隊長…ハイドラの事なんて報告するんです?増援の騎士団の連中がもう来てますよ…?」


「そうだなぁ…」


ハワードは南門に集まっている鎧を纏った集団と家に帰る住民達に紛れて見えなくなったイーファの背中を眼だけ動かし交互に見て、無精髭を撫でる。


「こういう時は()()()()()()()()()って言っときゃいいんだよ!」


部下の背を叩いてハワードは快活に笑ってみせた。



・「無冠の勇士」

災厄期に於いて故郷を魔獣に滅ぼされた民間人を中心に結成された義勇兵団の通称。特定の指導者を持たずに各地の商人や都市から支援を受けながら前線を受け持つ騎士団の後方業務などを代替し、一部は率先して前線で活動した。


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