第8話 気持ちは前へ……
終わんなかったな……
昨日は夜まで、陽和と森の中で過ごした。
それで時間が足らなくなり、夜中までかけても楽譜に音階を書く作業が終わらなかった。
寝不足で練習には出られない。中学の時、夜更かしして練習中に立ったまま居眠りし怒られた事が時々あった。高校生にもなって、寝不足なんかで合唱部に迷惑をかけるわけにはいかない。
なのでとりあえず夜は寝て、翌朝の始業前と昼休みにできるだけ書くことにした。
それで今、俺は朝の教室内で5線譜の線を1本ずつ数えている。
・・・・・・
「おはよう、輝。何してんの?」
明の声だ。
明の登校時間――今何時くらいだろう。
「おい……お前これ全部書いたのか?」
明が何か言っている。
「なに?」
「その目の前の楽譜だよ。それ、お前全部一人で書いた?」
「いや、まだ半分ちょっと」
だいぶ残ってる。まずい。
「そういう事じゃなくて……」
「……輝、その嘘はよくないぜ、さすがに。俺たちこれでも友達だろ?」
えーっと、これは「シ」のフラットだから、表記は「シ↓」だな。
「嘘言ってない。時間足らなくて」
「そっちじゃない。輝、お前音楽経験あったのかよ」
「ああ」
これは何拍伸ばすんだ? この2つの音符が繋がってるから――
「……聞いてないぞ、俺」
「言ってなかった」
あ、これは「ミ」。一番下の線だからすぐ分かる。
「……それ、何時間かかるんだよ」
この質問、昨日も聞いた。
「慣れると早くなる」
――それ以上、明は声をかけてこなかった。
・・・・・・
「輝、おはよー!」
明るい声が聞こえて顔を上げると、いつの間にか陽和が目の前に立っていた。
「おはよう、陽和」
少し手を止めて、陽和の人懐っこい笑顔を見上げる。
「まだ終わってない? 練習はしばらく輝に合わせるから、今日全部書かなくてもいいんだよ?」
だめだ。そういう風に言われると、なおさら手が止まってしまう。
「陽和、俺そうやって甘やかされるとダメになるから、ちょっと厳しめでお願い」
陽和はそれを聞いて、にっと笑った。
「へえ、甘やかされたって思ったんだ、私に」
そういう意味深な発言はやめてくれ。気になるから。
「じゃ、いっそ思いっきり甘やかそうかなー。骨抜きにしてやるー!」
おい、人前で骨抜きにとか言うな。せめて誰もいないところで言って。
そして陽和は、ふっと優しい笑みを浮かべ、言った。
「でも――ほんとに無理しないでね。ちょっと力入りすぎだよ」
それから俺の肩をぽんと叩いて、陽和は自分の席へ戻っていった。
肩に触れた手の感触――
俺は時計を見て、楽譜を見て、また時計を見て――
……これで終わりにするか。
ペンを置いて楽譜をしまった。
・・・・・・
昼休み――
「おーい、輝」
明が横から呼んできた。
「なに?」
「あのさ、聞きたい事いっぱいあるんだけど――」
うーん、ちょっとだけなら。
「昨日、桜井と何があった?」
夜まで森で二人きりで過ごしました――
なんて言えるか。何というか、妙に妖しい感じに聞こえてしまう。
「……秘密」
「そうか、何かあったか」
……そういう解釈法もあるのか。
明は俺に向き合って座りなおした。
「で、今朝の楽譜を見るに、合唱部に入るわけか。理由はまあ置いておくとして……いけそうか?」
明は察しがいいから話しやすい。
「いける。大丈夫」
「根拠は?」
「やる気」
答えはシンプルだ。
「ほう。技量は関係ないのか」
「うん」
その辺りの事については、持論がある。
「技量は後からついてくる、その気があれば。ちゃんと練習に取り組むからね。逆にそうでない人は、ただラクに声を出すだけの迷惑な奴。難しいことをやりたがらないから。今回俺にはその気があるし、多少の技量もあるから、いける」
「特に問題はない、と?」
……いや、ないわけじゃないな。
「音程とリズムは大丈夫、すぐ身体に叩き込める。ただ……」
「ただ?」
「歌詞がちょっと不安かな。初めから心配はしてたけど、やっぱり覚える量が多い。1番と2番の歌詞が混乱しないか……なにせ同じメロディーに違う歌詞、だからね」
思ったより混乱しそうな歌がある。本番までに自信をつけられるか、不安だ。
人間は自信がないと勝手に声が小さくなる。たぶんそういう習性なんだろう。それに抗う練習はしてきたが、不安は拭えない。
「なんだ、心配なさそうだな」
「今の話聞いてた?」
こいつはさっきまで何を聞いてたんだ。
「聞いてた。だから心配ないんだ」
聞いてたなら、心配になるだろう。
「その程度、お前なら大丈夫。そういう奴だから」
明は机に肘をついた。
「遺伝、なのかな。お前のその生き方――お前もたぶん、この学校に伝説を残すぞ。母親と同じように。……ああ分かってる、輝が母親がどうとか伝説の息子だとか言われるのが嫌い――」
「いや、そうじゃない」
俺は明の言葉を遮った。
明は少し驚いたように俺の顔を見る。
「それは遺伝なんかしない。俺は母さんとは違う。海野輝っていう、別人だよ。2代目とか、息子とかじゃない。俺はあくまでやることをやるだけ。それを周りがどう思うかは知らないけど、それは海野輝がやった事、だよ」
「……輝、お前本当に、昨日何があった?」
明が、少し眉を寄せてそう言った。
「――色々」
俺はそう答えるに留めた。
「……ふーん」
話を終えた明は、なぜだか機嫌がよさそうに見えた。
・・・・・・
放課後――
陽和がすたすたと歩いてきた。とても楽しげに。
「輝、行ける?」
俺は教科書とノートをざっと鞄に滑り込ませ、ファスナーを閉じる。
「ああ、行けるよ」
俺はそう答えて……それからふたりで、一緒に教室を出ていった。
合唱部では練習前、まず体操を行う。そのため体操服に着替えてから練習に出ることになる。
陽和と一旦別れて更衣室に入った。
鞄から出した、だいぶ着慣れてきた誠澄高校の体操服――こいつを着て歌うのは今日が初めてになる。
まだそれほど暑くない季節――上にジャージを着て、ファスナーに手をかける。
グッとファスナーを上げる動作が、中学の頃と重なる。部活前、この動きがなぜだか力をみなぎらせてくれていた。
誠澄高校のジャージも――同じ力をくれた気がした。
ちょっとだけ感慨にひたったせいか、更衣室を出た時にはもう陽和が外で待っていた。
「ごめん、お待たせ」
そう言った俺を見て、なぜか陽和は嬉しそうな顔をする。
陽和が見た俺の表情は、どんなだっただろう。
階段を昇り、練習室「多目的室401」へ。さあ――
・・・・・・
――防音構造の灰色のドア、その先へ。
陽和が前に立ってレバーを上げ、ドアを開いた。
「失礼します!」
その挨拶はたぶん、ここでの作法だろう。
陽和の後について、閉まろうとするドアを手で押さえて――
「失礼します」
おそらくここでは初めてであろう、男声の挨拶が室内に響いた。
・・・・・・
室内は、もう机と椅子がほとんど片づけられていた。
視線がこちらに集まる――いるのは6人、もう俺たち以外は全員来ていた。
「ほら、手を動かして。紹介は後でするから」
陽和がよく響く声でそう呼びかけると、みな片付けの作業に戻っていく。そうだ、陽和は部長なんだ。
突っ立っているのは変かなと思い、片付けを手伝おうかと歩み出すと――
「輝は邪魔だからその辺に立ってて!」
陽和がまぶしい笑顔で、そう言い放った。
「ぐっ……」
俺はそう言うしかなかったが……
「ふふっ」
そう声を漏らした者がいた。
それは昨日、陽和と大喧嘩したはずの竹内だった。
ふたりの間で、何かしらのやりとりがあったのだろうか。俺の知らない時に。
何があったのか聞いてみようかと思ったが、俺も今朝、明に似たような質問をされて塩対応をしていたのを思い出し、聞かないことにした。
聞かなくてもいい。互いにいい話ができたのは確かなんだ。陽和の言葉に、竹内が笑ったんだから。
・・・・・・
片付けは速やかに進み、部屋の一隅に置かれていたピアノのカバーが取られると、急に練習室らしい雰囲気が漂い始めた。
それから、一番小柄な――おそらく中学生らしい――部員が、小さな箱を持ってきた。中から取り出したのは古めかしいメトロノーム。
メトロノーム――曲の速さを音で知らせてくれる機械だが、あんなに古いのを使うのか? ああいう機械式のメトロノームは俺も触ったことがない。
その部員は、部屋の正面に置かれた机の真ん中に、大事そうにそれを乗せた。
それから――あれ?
別の部員がピンク色の電子メトロノームを出してきて、そのままピアノの上に置いた。
あるじゃないか、新しいやつ。
現代風の新しいものと、いつ頃のものか分からない古めかしいもの――ふたつのメトロノームが置かれているのを、気にする者はいない。
あの古い方、どういう意味を持っているのだろう。
・・・・・・
準備が整ったらしく、陽和が部員たちを呼び集めた。
横に並んだ6人の合唱部員の前に、俺は陽和と共に立つ。
陽和はよく響く声で、みんなに言った。
「今日からかおる祭まで、助っ人として参加してくれることになった海野輝くんです。みんなもう知ってると思うけど――この人が、本人です!」
みんなもう知ってるのか……
どうしてみんな俺の知らないところで話を広げるんだ。
陽和にちょんと腕を小突かれた。
ああ、俺も何か言わないと――
「えーと……海野輝です。よろしくお願いします」
他に何か言わないのかよ――と、自分でも思った。たぶんみんなそう思っただろう。
それでも、合唱部のみんなは声をそろえて挨拶を返してくれた。
「よろしくお願いします!」
その5人の声が、次なる大波乱の幕を開けることになった。