第85話 語り継がれる歴史
涙が止まらないままのみんなと、急いでピアノや指揮台を片付ける。時間が押しているから、もう終わった舞台の上に立ち続けることなどできなかった。
上手側の出入口から外に出る。明るい外の光に、思わず目を細めた。
今日もそこには、いくつもの楽器と共に器楽部が待機していた。ずらりと並ぶ、部員たち。
その横を、水色のパーカーを着た合唱部員が歩いていく。軽くつまづいた花菜さんを、愛と千尋が支える。花束を抱いて静かに泣く絵里さんの肩に、同じように震わせた陽和が手を添える。片手を固く握りしめながら、琴音が里奈の背中をさする。
その7人の後ろ姿を見ながら、俺は歩く。
共学化で男子生徒がやって来るから、一度だけでも混声合唱がしたい――そんなみんなの思いのために俺は呼ばれ、ここまで一緒に歩んできた。
そのみんなを――前を行く7人を満足させられるだけのことを、俺はすることができただろうか。
……できていてほしいな。たとえ仮であっても、この合唱部の初めての男子部員として。
「輝――!」
急に名前を呼ばれて、俺はびくりとした。
声のした方を見ると、並んでいる器楽部員の中に明の姿があった。
明は少しだけ手を挙げ、ぐっとうなづいた。
遅れて俺もうなづき返し、それからみんなの背中を追った。
・・・・・・
体育館から出て校舎へ向かう途中、他の来校者に交じって立っているひと組の男女がいた。誰も目にとめない、普通のふたり。
最後尾を歩いていた俺は、みんながこちらを見ていないのを確かめて、立ち止まった。
父さん、母さん――
父さんは、やさしく微笑んでくれた。
そして母さんは……
俺をその目でとらえて面白そうな笑みを一杯に浮かべ、人指し指を立てて左右に振った。
「まあまあかな」、か。
いつにもなく面白そうに笑っているから、まあ落第ではないだろう。あの歌声が、あんたの息子の「これまでのすべて」。今までの経験の、集大成だったんだよ。
俺は歩み寄ってこない父さんと母さんに小さく手を振ってから、遠ざかっていくみんなの背中を追いかけた。
みんなが噂する「伝説の先輩」は、誰にも気付かれないでもう帰るつもりなんだろう。用は済んだと言わんばかりに。
合唱部のために、来てくれた……か。
ありがとう。
・・・・・・
白いドアを開けて、部屋に戻った。
ここに置いてある電子ピアノも、もう弾くことはない。もうこの後に練習はない。本番は、さっきもう終わってしまった。
だんだん落ち着いてきたみんなは、めいめい涙を拭いている。拭きながらまた泣くから、いつまで経っても拭き終わらない。
「みんな急いで。机と椅子出して」
陽和が気丈に、涙をこらえつつそう言う。みんなそれに従って、机と椅子を並べ始めた。
どうして机と椅子を――? と、聞く間もなく。
――コン、コン、コン
ドアがノックされた。
誰だ? もう本番は終わった、ここに来る人はいないはずだ。
みんなが机と椅子を並べる中でひとり突っ立っていた俺は、手が空いていたからドアを開けに行った。
開いた先にいたのは――様々な年齢の大人たち。20代くらいの人もいれば、50代かと思える人もいる。みんな女性だ。
「あ」
「おっ」
「え?」
その全員が俺の顔を見て、それから一斉に声をあげた。
「本物の男の子だ――!」
・・・・・・
出された机のひとつに、お菓子がどっさりと広げられていく。差し入れだそうだ。
ステージ発表を聴きに来ていた卒業生たちは、全てを聴き届けてからこの部屋にどっと押しかけてきた。毎年こうして来るのだそうだ。
そして当然――
「ねえ君何年生? 何年生?」
「1年生に決まっているでしょ、共学今年からなんだから」
「やだ思ったよりかわいい」
――俺は包囲された。
「すごかったよ独唱。テノールだね? いやーいいもの聴けたなー」
「歴史的瞬間ですね、うちが男声独唱だなんて」
俺の周りで、俺がなにか言う間も与えず高速のおしゃべりが続く。ああ、人数が多い。
……これだけの人たちが、ここの元部員か。
こんなに嬉しそうに俺を囲んでいるけれど、俺は……いや、この合唱部は、もう。
もう、今年限りだなんて――言えない。
「しかもその子、律っちゃんの子なんだよ」
――!?
誰だ、いま――
「え――あの海野律さんですか?」
誰かが、そう尋ねた。
「そうそう。ね、律っちゃん」
……。
「律っちゃん? おーい、律っちゃーん!」
いや、母さんは……
「あの、母さんはさっき帰りましたよ」
「え、嘘! いつの間に――」
そう言ったその人には――見覚えがある。いま母さんと同じ合唱団に所属していて、パートは確か、アルト。時々家に来て話し込んでいく。母さんと同世代くらいの人だ。
「隣に座ってたはずなのに……逃げたな、律っちゃんめ」
逃げたのか。母さん。
そう思うとなんかちょっと、締まらないな。
「えー、律さん来てたんですか?」
「会いたかったです、『伝説の先輩』」
いや、みんながそう言うから逃げ――
「みんながそう言うから逃げるんだよ。律っちゃんはただの変わり者だよ?」
……俺よりも、母さんのこと知ってそうだ。
「そーれーでーもー。ひと目でいいから見たかったですよ。律さんの姿」
「まあまあ、いいじゃない。代わりに立派な男子部員が見られたんだから」
「そうねえ。これからは混声合唱になるのね」
「まず今年はひとり。来年は何人来てくれるんでしょうね」
みんな勝手にはしゃぐ。「これから」の話をして。
知らないんだ、やっぱり。この合唱部に「これから」がないことを。
ここで黙っていれば、この空気を暗転させることはない。
だけどここで黙っていれば、この人たちは来年になってから、合唱部が消え去っていたことに気付くことになる。
「ううん、来年はないよ」
――!
「澄香高校合唱部――誠澄高校合唱部は、今年で廃部だもの」
・・・・・・
その言葉に、みな静まり返った。まるで時間が止まったかのように。
そして――
「あー……」
誰かが声を出して、それから。
「だよねえ。年々人数減ってたし」
「むしろよく持ちましたね、今年まで」
「10人切ってもまだ続けてて、ね」
卒業生たちは口々にそう言った。
「こんな状態で――みんな、よく頑張ったね。大変だったでしょ」
誰かがそう言ってくれて、少し目頭にこみ上げたものをぐっとこらえる。
「でも――」
別の人がそう言って、俺の顔を見た。
「ちょっとかわいそうですね。せっかく入部したのに、今年だけしか歌えないなんて」
入部……は、してない。
そういう手続きは何もしていない。俺は今のところ、ただの――
「あ、その子たぶん正式な部員じゃないよ。4月にはいなかったもの」
――!
・・・・・・
「私は4月に見に来てたから。その時に『男子は入らなかった』って聞いたもの」
4月――確かにまだ俺はいなかった。
その時にこの合唱部を見に来て、現状を知ったのか。
時々家に来て、母さんとおしゃべりに興じる人。学校にも来ていたんだ。
「私あの時調子に乗って、律っちゃんと過ごした時のことぺらぺら喋っちゃって。全国大会でみんなで歌った話も、律っちゃんが部活来なさすぎてげんこつ落とした話も」
後半の話は俺も知らないが、色々話していったようだ。
「その時に口をすべらせたのよ、確か律っちゃんの『息子さん』が今年入学したんじゃないかな、って」
……なるほど。
あり得ない話じゃあない。俺はこの人が何度も家に来ているところを見てる。よく母さんと話し込んでいたから――俺のことを知っていても不思議はない。
「まずい、って思ったのは部員さんにその子のことを熱心に聞かれた時。そりゃあそうだよねえ、律っちゃん『伝説の先輩』なんて言われてるんだから。その息子さんがここに入学したなんて、今の子たちには学校の歴史が動くくらいの衝撃だろうし」
みんな勝手に衝撃を受けて。本物の俺はこんなにも、大したことのないただの生徒だというのに。
「あんなに熱心に聞いてくるのに黙り込むのもかわいそうだと思って、もう聞かれたことは全部答えちゃった。律っちゃんの子なら――まあ何とかするだろうと思って」
熱心に聞いたっていう部員は、陽和だろうな。初めに熱烈な勧誘をしたのは陽和だった。
卒業生から聞かされた「伝説の先輩」と同じ名字の生徒が同じクラスで、すぐそばにいる同じクラス委員の男子だった――びっくりしただろう。
そう思うと、不思議な縁があったのかもしれない。そんなにも必死だった陽和のすぐそばに、初めから「本人」がいたんだから。
「せめて名前だけは忘れたふりしてぼかしておこうと思ったんだけど、その子も必死みたいだったから。教えちゃった」
そうして陽和の中で俺と「伝説の先輩」が結びついて、あの時の勧誘に繋がっていった……そういう流れだったんだ。
「ねえ、きみ――」
別の人に声をかけられて、そちらを向く。
「お名前は――?」
その声を聞いて、卒業生みんなが俺に注目した。
「海野輝、です」
名前を聞いた人は、やさしく微笑んだ。
「ありがとう、輝くん。私たちの合唱部と、私たちの後輩たちを支えてくれて」
「あ、いえ――」
急にそう言われて、思わず戸惑ってしまった。
「それにしても――」
また、母さんの知り合いの人が感慨深げに言う。
「あれも、これで見納めね」
その人が見る先にあるのは――99年前に購入されて以来ずっと合唱部と共にあったという、古めかしいメトロノーム。
「ああ……あれは何も変わらないままね」
「とっくの昔に動かなくなってたのに。この合唱部のシンボルみたいになって」
「懐かしいな。あれ、私もこの手に持ったんだ」
「今年で99年って言ってましたね。ちょっと惜しかった」
「実質100年よ、100年。それくらい誤差だから」
そして――
「あのメトロノーム――もう、廃棄になるのかな」
その言葉に、俺は歯を噛みしめながら視線をそらした。
今まで思ってはいたけれど、言葉に出されると重みが違う。「廃棄」という言葉の、その無情さ。
「仕方ないでしょう。所有者であるこの合唱部がなくなるんだから。誰か個人の所有にするわけにもいかないし。99年の間にここで過ごした人たちの中の、誰のものにするかなんて決められないでしょ」
「合唱部がなくなるとなると、私たちがこうして集まる場所もなくなるんですね。まあ、卒業してからもこうして集まっているのが異例なんでしょうけど」
集まる場所もなくなる――
やはり、違う。言葉に出されると、その重みが遥かに増す。
俺は何も言わなかった。
だから、言ったのは別の部員だった。
「違います――!」
・・・・・・
「まだ、廃部は決まってません」
よく通る高い声でそう言ったのは、里奈だった。
卒業生たちの視線が、里奈に集まる。それでも里奈は……まだ泣き腫らした顔がそのままだったが、まっすぐに立って顔を上げていた。
「輝さんが、廃部を回避できるように手を打ってます。まだその結果が出てません」
「里奈、あれは――」
その「廃部を回避できるように打った手」は……昨日の校内発表、あの時の独唱には正直自信が持てないでいる。そもそも、完璧に歌ったとしてもそれを聞いて「よし、合唱部に入ろう」と思う人がいなければそれでおしまいだ。
しかし里奈は、目をぎゅっと閉じてぶんぶんと首を振った。残った涙が少し、左右に散った。
「輝さんはそのために独唱をやったんです。あの歌声を聴いて、ひとりでも入ってくたら2月のコンクールに出られます。そうすれば、そうすれはその後も――」
言葉が続かなくなった里奈の声は、部屋の空気に吸いこまれていった。
そして――
「なーんだ」
誰かが言った。
「大丈夫そうじゃん」
「あれそういう目的だったんですね」
「あれはいいものだ」
「じゃあ私、来年も来よう」
途端にそう言い始める卒業生たち。来年も来ようって、その時まだ合唱部があるなんて保証はないのに。
「あの――」
俺が締まらない声で呼びかけると、視線はこちらへ集中した。
「自分でやっておいて何ですけど……正直自信はないです。あれで本当に――」
「大丈夫だよ。律っちゃんすごく嬉しそうに笑ってたし」
そう言ったのは、時々家に来るその人。
「あの笑顔は、まず確実に最高評価かな。律っちゃんの最高評価は、なかなか出ないよ」
最高評価? いや、母さんは――
「母さんはさっき、こう、『まあまあかな』って」
俺はさっき母さんがしていたように、人指し指を立てて左右に振ってみせた。
「ああ――」
そうだ、少なくとも最高評価ではなかった。
「――それは照れ隠し。律っちゃんいつもそうだから」
照れ隠し、って――?
「私は隣に座って見てたから。がっつり顔も見てやった。律っちゃん、私に見られてるのも知らずにいい顔してたよ。輝くんしか見てなかった」
母さん……
「大丈夫。自覚はないんだろうけど、輝くんも律っちゃんと同じだよ。……ん? いや、違う――雰囲気が違うなあ。輝くんは輝くんで、律っちゃん並みの別のものを持ってる」
そんなもの、あるかな。ここしばらく、俺は過大評価ばかり受けている気がする。
「それに、律っちゃんじゃなくても分かる。ここにいるのは全員、元合唱部員なんだからね。あの歌は――今日のかおる祭の舞台は、合唱部にとってひとつの語り継がれる歴史になる」
語り継がれる歴史……
この人は、それを語り継ぐこの合唱部がこの先も残る前提で話をしている。
「たぶん、分かってないね。……そういうところは律っちゃんと同じ、か。たぶん輝くんも、輝くんのやり方で歴史を作っていくんだね」
……そんな大層なことが、俺に?
「まあ、結果が出たら教えてちょうだい。律っちゃんに言っておいてくれれば、こっちの合唱団の練習の時に聞き出すから」
そう言ってその人は、にこりと笑った。
・・・・・・
「それじゃあ、さようなら。来年もよろしくー」
「これからも部活、楽しんでね」
「お菓子食べてねー。あ、賞味期限ちゃんと見といてね」
卒業生たちはそう言いながら、ぞろぞろと部屋を出て行った。
来年もこうして、ぞろぞろとここへ入ってくるつもりで。




