第7話 桜井陽和
今後の連絡ため俺と陽和はその場で連絡先を交換しようとしたが、だいぶ暗くて難儀した。
「輝、もう少し照らして」
「無理、これで限界」
「これで? 電球ってここまで暗い?」
「小さいから、これ。あと電池替えてない……あ、電球触らないで――」
「熱っ!」
「――熱いから」
「先に言ってよー!」
ふたりで額を寄せ合いながらする、とりとめのない会話が楽しい。桜井……陽和と話すのって、こんな感じなんだ。
連絡先を交換するだけで、これだけ時間をかけたのは初めてだった。
・・・・・・
それからしばらく、ふたりで並んで座っていた。
電池がもう少ないのか、光が弱い。すぐそばの陽和の顔は見えなくて、制服の肩と首筋だけがぼんやり見えている。
「陽和……そろそろ帰ろう」
それを聞いた陽和の表情は分からない。
「――もう涙も乾いたでしょ」
それを待っていたんだ。
「……うん」
陽和はそう答えたが、立ち上がらなかった。
「……ねえ、輝?」
小さな声で陽和に呼ばれた。
「校門、もう閉まってるよね。下校時刻もとっくに過ぎてるし」
そうだ。校門はもう閉まってる。でも、この学校の出口はそこだけじゃない。
「大丈夫、母さんの情報通りならこの奥に脱出口がある」
そう聞いたことがあるんだ。
「脱出口ってなに?」
陽和は楽しそうな声で笑いながら、肘で俺をこづいた。
・・・・・・
ふたりで立ち上がって、陽和がつまづかないよう足元に光を寄せて、ゆっくり歩んでいく。真っ暗な森、黒一色に見える木々――さすがに俺も怖くなってきたが、陽和がぴったりそばについて来て、だいぶ怖さは和らいだ。
「ねえ輝、その『脱出口』って何なの? この森の外って、全部柵で囲まれてるでしょ」
そう、陽和の言う通りだ。けど――
「そうだけど、歴史の長い学校だからさ。柵の作られた年代が場所によって違ってる。年代の違う柵どうしの境い目に、1ヶ所だけ抜けられる所があるらしいんだ」
これを母さんに聞かされたのは俺が小学生の頃だった。その時は冒険譚みたいでかっこいいと思っていたが……今考えると、あれは失言だったんだろう。母さんは学生時代の自分のことを「いたいけな女子高生」だったと言ってたから。
「すごい……冒険みたい!」
陽和もそう言う。でも「いたいけな女子高生」がこんな所で冒険なんかして柵の抜け穴を見つけたりするかな、普通。
それは置いておくとしても……少し、不安な点がある。
「でも、ちょっと――」
「なに? あっ――」
陽和と足並みがずれて、ちょっとぶつかった。
感じたこそばゆさを押し殺しながら、続ける。
「えっと――俺さ、入学してからこの1ヵ月で森は一回りしたんだけど、それらしい隙間とか、外に向かう道とかは見つからなかったんだよね」
「え……」
陽和がぐっと身体を寄せてきた。
「たぶん今の生徒は誰も通ってないんだ。母さん『伝説の先輩』とか言われてるけど、この話は伝わってないんだね」
そう言うと、急に陽和が立ち止まった。置いていきかけた俺は慌てて止まって、陽和のそばに戻った。
陽和は急に、足元を照らす小さな明かりのそばにしゃがみ込んだ。
俺もその隣にしゃがんで、ほのかに照らされた陽和の顔を見る。
「その出口、ほんとに見つかる? もう塞がれてたりしたら、私たち閉じ込められちゃうよ」
俺を少し見上げながら言う陽和の表情は、はっきり見えない。
「大丈夫。当時も母さんと数人の友達しか知らないルートだったらしい。通ったら踏み跡を消していたとか言ってた。たぶん誰も気づけないから、対策もされてないと思う。見つけさえすれば、出られる」
「でも、『誰も気づけない』って……輝も気づけないんじゃ」
陽和の声がだんだん小さくなる。
「ううん、俺は大まかな場所を把握してるから。学校の南西角より少しだけ手前、って聞いてる。3本並んだ細い木の先――とも言ってたけど、これはあてにならないな。20年以上前の話だ。まあ、同じ木が3本並んでたら疑ってみよう」
自信満々に言ってみせても、陽和は立ち上がらなかった。
・・・・・・
陽和はちょこんとしゃがんだまま明かりを見つめていたが、しばらくして、なんだか優しげな声で語りかけてきた。
「輝って、さ。合唱をやるかどうかは関係なくて、どんな道を選んでもすごい冒険ができると思うよ」
それは違う、俺はただの後追いで――
「このルートは母さんから教わっただけだから、俺の――」
「そうじゃなくて!」
俺の言葉を、陽和が強い口調で遮った。
「そうじゃなくて――あの律さんだって、こんな真っ暗な森で明かりひとつだけ持って出口を探す、なんて冒険できたのかな」
……たぶん、できるよ。
「あくまで、今ここを歩いてるのは輝だよ。私を連れて」
……でも俺は、母さんみたいにはなれない。あくまで俺は2代目――だから呼び名が「伝説の息子」になる。
そんな俺の心は知らずに、陽和は続ける。
「私、輝がいなかったら今頃独りきりだったよ。あのまま教室で泣いて、そのままひとりで帰るだけだった。なのにそこに輝が来たから――私はここまで引っ張って来られて、ふたりで話をして、それから冒険までしてる」
…………母さんだって、現役時代にはそれくらいしただろう。
「今伝説を作っていくのは、律さんじゃなくて輝――少なくとも、私にとっては。いま私はたぶん、一生思い出に残る伝説を見せられてる」
………………。
「輝は、輝だよ。『伝説の息子』なんかじゃなくて。少なくとも私には、『2人目』とか『2代目』とかには見えないよ」
そして陽和はためらうように言葉を切ってから――
「私は――好き、かな。輝みたいなひと」
そう、言った。
陽和はすっと立ち上がった。
小さい明かりが照らす中、見上げる俺と、見下ろす陽和――
「さ、行こう。輝」
「……うん」
いま目の前にいる陽和が、俺にそういう事を言ってくれるなんて――数日前には思いもしなかった。
・・・・・・
それから――
出口の捜索は難航した。
そもそも、こんな真っ暗闇では自分がどの辺りにいるのかも分からない。校舎も校庭も照明が消えていて、目印がなかった。
俺はふと思いついて、明かりを消した。陽和が左腕にぴたりとくっついて、くすぐったかったが――
分かった。
――1ヶ所、校外の道路の光がうっすら見える所がある。
明かりをつけ、互いの顔を照らしてうなづき合うと、そこへ向かって木立ちの中へ入っていった。
道なんてないように見えるが、絶妙に抜けられる隙間がある。進むにつれて、外の光がだんだん近くなる。
そして――
――出た。
目の前にそびえる鉄柵。そしてそこは、ちょうど違う柵どうしの境い目。
ああ、確かにそうだ。この境い目は、身体ひとつ分空いている。外に抜けられる。
陽和とそこをすり抜けると、外には出られた。
外には出られた。
・・・・・・
嘘だろ……
柵を抜ければ出られるとばかり思っていた。
そこは外の道路まで、高低差があった。
足がかりはない。飛び降りるしかない。いちおう飛び降りられそうな高さではあるが――
これは聞いた覚えがなかった。いや、たぶん母さんは言ってたんだろうけど、俺が忘れてしまっていたんだ。
隣を見ると、陽和が固まっている。この高さ、怖いか。
でもここを降りなければ「脱出」は成功しない。可哀そうだけど、飛んでもらうしかない。
「先に行く」
そう言うと、陽和にがしっと肩をつかまれた。
「やだ……置いてかないで」
小さい声でそう言う。
「大丈夫、絶対置いてかない」
そう言って、俺は陽和の両肩にぽんと手を置いた。
「母さんが高校時代に降りれたんだ、陽和だっていける。俺が先に降りて待つから、そっちのタイミングで降りてきて」
陽和の肩を放して、明かりを手渡す。俺が持って飛び降りたら陽和の明かりがない。
身ひとつで飛ぼう。背負っている鞄はここに降ろす。
そして飛び降り地点にまっすぐ向いて――
両足で軽く跳んで――……
……ショック、はほとんどなかった。
見た目ほど高くなかった。さすが、母さんだ。ちゃんと通れるルートだった。
上に置いたままの鞄を引きずり降ろして、地面に置く。
「陽和、そっちも鞄ちょうだい」
まだ固まっていた陽和に声をかけると、ゆっくり鞄を降ろして上から渡してくれた。
地面には置けない、陽和が降りてくるまで手に持っておこう。
「陽和、大丈夫行けるよ」
そう呼びかけたが、陽和は小さな明かりを握りしめたまま動かない。
この高さ、下からだと絶妙に登れない……陽和の所へは戻れない。
俺は手に持っていた陽和の鞄を自分で背負った。
「陽和、ほら――」
そう言って両手を広げる。安心して、こっちへ――
陽和はそれを見て、すこしためらってから――飛んだ。
持っていた明かりが、空中に小さな軌跡を描いて、こっちへ――
とん、と俺の前に着地した陽和は、少しバランスを崩して1歩前によろけて、止まった。
ように見えたが、またぎこちなくふらついて、もう2歩前によろけて……
……そのまま、広げた俺の腕の中に収まった。
・・・・・・
陽和はすぐには離れなかった。
どうすればいいか迷って、俺は広げていた腕を少し閉じた。
ほんのりと暖かさを感じ、陽和が長く吐いた息が胸にかかった。
しばらくしてから、俺たちはどちらともなくするりと離れた。
懐中電灯を受け取ってから、背負っていた鞄を陽和に返して、自分の鞄を拾った。
校外の道路は、明るかった。
その明るさを見つめている陽和に、声をかける。
「陽和……これからよろしく」
陽和は、しばらくぼんやりしていた。
それから一度目をつぶって、両手で顔をぱちんとたたいて、そして笑顔を見せた。
「うん、輝、よろしくね!」
そう言って、これまでにないくらい気持ちよさそうに伸びをした。
そうか――陽和の「伸び」は気持ちで出るんだ。
「よーし、帰ろ。遅くなっちゃう」
陽和は俺の前に立って、すたすたと歩きだした。