第72話 マイ・リトルハニーズ
「……」
「……」
沈黙。
外で愛の説明を受けてから入ってきた千尋は、椅子に座って俺と向き合って、そのまま互いに黙り込んだ。
何か言ってこの沈黙を破りたいが、何を言えばいいか分からない。いつもあまり言葉を発しない千尋はやっぱり今日も何も言わない。そしてその顔……推し量れない無表情。
そんな千尋につられ俺まで黙ってしまっていたが……
「輝さん――」
「はい」
不意に言葉を発した千尋と、思わず敬語で答えた俺。
「――どうして、愛が先なんですか」
「はい?」
そして思わず聞き返す俺。
「輝さんが独唱で歌っていた時、私はずっと舞台袖から輝さんを見ていました。愛は泣いていました。他の2人はその愛をなだめていました」
……?
「覚えてないんですね」
なんだ? 何の話?
「私は言いました、遊園地に行ったあの日。楽器館でパイプオルガンの演奏を見て、かおる祭で独唱で歌う自分とイメージを重ねて恐れていた輝さんに。独唱の時は私たちが舞台袖でずっと見ているから、独りで演奏するあの人とは違うと。ずっと、見ていますと」
……まずい、覚えてない。
確かにあの日、楽器館でパイプオルガンの演奏は聴いていたけれど。
「ですが今日、少なくとも上手で輝さんを見ていたのは私ひとりだけでした。あんなにみんなを背負って歌っていたのに、あんなに強い光に照らされて立っていたのに――愛が自分のために泣いていたから」
この話……いま外にいる愛が聞いているはずだけど、いいのか?
そんな俺の心配をよそに、千尋は表情を変えないまま言葉を続けていく。
「私たちは先生方と輝さんを含めて10人のはずでした。でも輝さんの独唱の時は、少なくとも上手の3人は抜け落ちていました。私たちのために歌う輝さんを放り出して、情けないミスをして泣いている愛を気にかけていました。そんなものより、もっと気にかけなければならない人がいたのに」
もしかして、分かっていて言っているのか。
千尋は……千尋はいま、怒っているのだろうか。
「私は輝さんが独りにならないように、ずっと見ていました」
独りにならないように――
ああ……そうだった。
あの時、左右の舞台袖にはみんながいた。
俺は……ただ歌うだけで、そんな事は考えていなかった。
千尋はあの時、ひとりで俺を気にかけていた。俺はそんな人がいることを、考えていなかった。
あるいはあの時、千尋は本当の意味で独りきりになっていた……
「愛はいつも目立ちますからね」
小さな声でそう言ってから、千尋は俺の目を見る。
「いつもならいいですけど、今日だけは……輝さん、どうして、愛が先なんですか」
その言葉を最後に、部屋は静まり返った。
答えようにも、情けない言葉しか浮かばない。
「ごめん」「気が付かなかった」「忘れてしまっていた」――そんな事を言っても、何にも……
「私は――」
再び千尋が、沈黙を破る。
「いつも、愛とセットのようなものです。でも今日は――輝さんと、セットになったつもりでいました。歌う輝さんと、それを見る私と。愛のことは、見ていませんでした」
これは、俺に聞かせているつもりなのだろうか。
それとも――ドアの向こうで様子をうかがっているはずの、愛に聞かせているつもりなのだろうか。
「輝さん。独唱、よかったです。惚れそうなくらい……いえ、惚れてしまいました」
千尋は俺の目を見つめて言う。
「私は、愛のことを大切に思っています。ですが今日みたいに、輝さんのこともとても大切に思っています。ですから――」
いつも表情の読めない千尋の眼に、かすかに光が見えた――気がした。
「輝さんも私のことを、同じくらい大切にしてください。愛と同じくらい、私のことも見てください」
それから、千尋はわずかに口をとがらせる。
「今日の事は、マイナス1点です。後できちんと取り返してください」
「うん」
マイナス1点で済ませてくれるあたり、千尋はやさしいのだろう。
それとも――思っていたより甘い性格なのだろうか。
「それでは――」
千尋は俺に発言の機会をほとんど与えないまま、話を終わらせて席を立った。
ためらいがちに開かれたドアから、するりと出て行く。
「ごめんね、千尋……」
閉まっていくドアの隙間から、そう聞こえた。
・・・・・・
しばらくの間、ドアの向こうから声は聞こえてこなかった。
俺もあえて、声をかけることはしなかった。
残った相手は、あと1人。合唱部の最年少、小さくてたくさんおしゃべりをして、きらきらした笑顔をみせてくれるその部員。
『輝さん、好きです――!』
『――さよなら!』
激しい勢いの告白と、同時の「さよなら」。
きらきらした笑顔を向けてくれて、たくさんおしゃべりをしてくれた理由は……
『成長遅いですからね。体も、こころも』
『本人はその感覚が「好き」だって分かってなかっただけで』
『単純に好きだったからですよ』
絶対にダメと分かっていながらの、「さよなら」付きの「好きです――!」。
初めて恋に気付いた、まだ幼いだろうそのこころ。
今から、どうやってそれに触れればいいか――
「おーい、里奈。おいでー」
愛が、彼女の名を呼んだ。
・・・・・・
「嫌です!」
ドアが開いて真っ先に飛び込んできたのは、その言葉。
「いいから、里奈。絶対、悪いことになんてならないから」
「嫌です、入りません!」
里奈は小さな身体で精一杯踏みとどまったが、愛が強く背中を押したのか、よろけてついに部屋に入ってしまった。
「よし――」
「愛さん!」
振り向きながら大きな声で言う里奈。
そしてそれに負けないくらい大きな、愛の声。
「――輝さん!」
ばたん、とドアが閉められる。
「うまくやってくださいね、絶対に!」
・・・・・・
「愛さん、出してください! ここ……っ、開けてください!」
里奈は部屋を出ようと力いっぱいドアノブを引くが、反対側でそのドアノブを引いている愛がそれを許さない。小さな里奈の力は、それに抗いきれない。
俺はどちらに何と言うべきか分からず、椅子から少し腰を浮かしたまま何も言えないでいた。
やがて里奈は部屋を出るの諦めたか、すっとドアノブを放した。
そしてそれきり、ドアに向いて立ったまま動かない。
俺はひとまず、座ってもらおうと声をかけた。
「里奈――とりあえずその辺に座ってよ。どうせ今は出られない、立ってても疲れるだけだよ」
そう声をかけつつ、初めて里奈としっかり話した時のことを思い出す。あの時里奈は急に合唱部に加わった俺に強く反発して、出ていってしまった後だった。
そんな里奈に悔いなく合唱部に戻ってもらうため、ちょうど今日と同じようにふたりで小さな多目的室で話をしたんだった。
あの時も里奈は、椅子を勧めても座らなかった。俺のことが気に入らなくて、立ったまま無愛想な表情をしていた。
確かあの時は里奈を立たせたまま――そう、小柄な里奈を座らせると、大きな身長差のせいで高1の俺が中2の里奈を見下ろす形になるから、あえてそのままにしたんだった。
ずいぶん昔の事に思える。あの時は、まだ里奈と仲良くなかった。きらきらした笑顔も、まだ見たことがなかった。
今なら、もう見下ろしても平気だろう。ここまでのおよそ1ヶ月、ずっとそうしておしゃべりをしてきた。そうして互いに、心からの笑顔を見せていられたのだから。
「里奈。ほら、こっち来て」
里奈は向こうを向いたまま、黙って首を振った。
「ね……顔、みせてよ」
「……」
答えない。
向こうを向いて立ったまま、振り向いてもくれない。
……。
その背中を見ていて、急に、ぞっとさせられた。
今まで無制限に見ることができたあのきらきらした笑顔はもう、見られないかもしれないと気付いて。
そういえば里奈、夏になったら海水浴に行きたいなんて言ってたな。遊園地へ行ったあの日、遊覧船の上で。
それから遊園地のウォータースライダーを見て目を輝かせて――
『両方行きたいです』
『両方かあ』
そんなことを言って、ふたりで笑っていた。
里奈が本気でそう言っていたかは分からないし、俺もそんなに本気には思っていなかった。
でも――その夏が来る前に、こうして背中を向けられるだけの間柄になってしまった。
今まで当たり前のように接してきたけれど、里奈との楽しい関係は俺の中でいつのまにかとても大切なものになっていたらしい。今、こんな気持ちでいるのだから。
もし今ここで俺がうまくやることができたら――
また、里奈のきらきらした笑顔……見ることができるのだろうか。
・・・・・・
「輝さん――」
ようやく、里奈は向こうを向いたまま俺の名を呼んだ。
「――輝さんは私のこと、どう見てるんですか」
「それは、もちろん大切な……いや、大好きな――」
「だめです!」
大きな声で、俺の言葉を遮る里奈。
「愛さんから聞きました。『最大七股』って。二股でもいけないのに、七股なんて……輝さんがそんな人だなんて、知りませんでした」
まあ、そうだろうな……
「私はそんな人をす、好きになったんじゃないです。今はもう、そんなこと考えてません。考えられません」
そう……里奈の中では、そういうのは決して許せないんだろう。
今まではこんな俺の姿を知らなかったから、それで好意を抱いただけ。
「私の中の輝さんのイメージは、もう崩れました。だから、私はもういいです」
そう言って里奈は、一度も顔を見せないまま、ドアの向こうへ向けて言った。
「愛さん、開けてください」
……。
里奈は自分の手でドアノブを握る。
「愛さん」
里奈はその手にぐっと力を込めるが――ドアは開かない。
「愛さん!」
里奈が大きな声で呼んでも、それでもドアは開かない。
「愛さん――」
「愛――」
俺が口を開くと、里奈は反対に口をつぐんだ。
俺は自分の声が情けないくらい小さかったので、言い直す。
「愛、開けて。これでいいから……」
言葉は、部屋の空気に吸われるように小さくなって消えた。
「愛、開けて」
俺は重ねてそう言ったが――ドアは開かない。
なぜだ、琴音の時は開けただろう。その気がない相手をここに閉じ込めても意味はない。
さっき里奈が言った「イメージは、もう崩れました」って言葉、そっちにも聞こえたはずだ。
それなのに――ドアは開かない。
・・・・・・
「里奈、ごめん……」
「……」
そう言った俺の言葉に、答えはなかった。
構わずそのまま、続ける。
「初恋が、こんな相手になっちゃって」
里奈にとっては、苦々しい初恋になってしまっただろう。
「でも、これが俺の素なんだと思う。こんな事して、陽和が許してくれるかどうかも分からないのに。……もしかしたら、一生まともな彼女はできないかも」
「そうですね」
辛辣な即答が返ってくる。
「二股を許してくれる人だったら、付き合えるかもしれませんよ。輝さん、顔はいいですし」
……俺の顔?
「いや、お世辞はいいよ。鏡はいつも見てるけど、すぐ見る気なくす顔してるし」
「そうでしょうね」
もっと辛辣に上げて落とされた。
「輝さんは自分の顔、見てませんから」
「――?」
鏡ぐらい見てるって――
「輝さん、いつも部活の時の顔はいいんですよ。特に独唱の時の顔――今日もそうでした。横から見ていただけですけど、いい顔してました。だからみんな輝さんのこと気に入ったんじゃないですか」
……?
部活? 独唱?
「みんなのために頑張る時の輝さんの顔、他の誰よりもいいんです。それに、顔と同じくらい実力もありますし。……私と違って」
ああ……ほめてるのは顔じゃなくて歌への姿勢のほうか。
それと、実力は――それは単に経験年数が違うだけだ。
「訂正したい点はあるけど……とりあえずその『実力』なら、里奈だってすごいものだよ。自分では分からないんだろうけど」
「いえ、私は……まだ1年しかやっていませんし、いなくてもあんまり変わらないと思います」
そう、得てしてこういうのは自分では分からないもの。
「いないと困るよ。今日だってそうだった」
「輝さんこそ、お世辞はなくていいです――」
「今日は里奈がいなかった。声が、聞こえてなかった。それでだいぶ苦労したんだよ」
そう言うと、里奈はわずかに振り向いた。
少しだけ見える横顔に向かって、今日感じたその事実を伝える。
「いつも聞こえていた声――すごく力があってしっかり芯を持った声。間違いなく里奈の声だった。それが今日はなかったから、みんな崩れ気味だった。みんな里奈の声に支えられて歌っていたんだよ」
「それはないです。私はそんな声出してません。他の人の声です」
「6年合唱をやってる俺の言葉が信じれない?」
6年やったんだ、聴くほうも鍛えられている。
「今日は里奈のその声が欲しいって、ずっと思ってた。みんなも、たぶんそうだよ」
里奈はこちらを振り返って俺の顔を見た。
「……いい顔、するんですね。また」
「俺はそんな顔してないよ」
「いつも見ている私の言葉が信じれないですか?」
……そんないい顔をしてるんだろうか、俺が。
「はあ……」
里奈はため息をついて目を逸らした。
それから少し下を向いて、何か考えている。
意外なほどの長考が終わるまで、俺は黙って待っていた。
里奈の視線が、再びこちらを向く。
「そんな顔されると、決心が鈍ります。困りますよ」
長考の末の第一声はそれだった。
「輝さん、あの……」
そう言って里奈は、難しい顔をする。
「……立ってください」
「――? うん」
言われたとおりに立ち上がる。
里奈はうつむいて険しい顔をしながら歩み寄ってきた。
「……」
ためらうように、立ち止まる。
「……どうした?」
「すみません――」
――反応する時間は、なかった。
どん、と小さな身体で体当たりされ、後ろによろける。
里奈はがしっと背中をつかんで胸にぎゅっと顔を押し当て、逃げるように離れて、ととと、とドアへ向かった。
「誰にも言わないでください」
早口でそう言ってから、里奈はドアノブを回して引く。
ドアは里奈の手に従って、すっと開いた。
里奈の姿は、あっという間にドアの先へ消えた。