第5話 笑顔の糸切れて
翌朝――
席に着くとほぼ同時、桜井がぴょんぴょん跳ねるようにこちらに向かってきた。俺の机に両手をついてにっこり笑って――
「海野くん、合唱部やらなーい?」
「ああ、やるよ」
俺は即答を返した。
「もう、さすがに私でも即答は傷ついちゃう――」
……そこまで言って、桜井の動きが止まった。
「――え?」
「そっちの事情は、だいたい把握した。俺は合唱部に協力する」
決定事項を、淡々と伝えていく。
「ただし、合唱部に籍は置かない。助っ人みたいな扱いで、出るのはかおる祭だけ。……こちらも事情はあるし、そちらの事情的にも、これで十分だろ?」
桜井は固まったまましばらく空中を見ていたが、ようやく元に戻って俺の顔を見た。
「うん、そ、それで大丈夫。えーと……ありがと、海野くん!」
最後は可愛さ全開でそう言って、それからすぐに立ち去って行った。席に戻らず教室の外へ行ってしまったが――どこへ行くのだろう。
桜井は可愛さこそ全開だったが、立ち去る時にいつもの伸びをしなかった。いつも見ていて少し和まされていたから、今それがなかったのに気づいた。
・・・・・・
昼休み――桜井が俺の所に来ないので、こちらから出向いた。
合唱部への協力を承諾したはいいが、これからどうすればいいのか教えてもらってない。できれば今日中に楽譜を受け取っておきたいが、どこで練習しているのかも分からない。
「おーい、桜井」
「…………?」
そばに寄って来た俺に、桜井は気付いていなかった。
「……あ、海野くん。どしたの?」
桜井はそう言ってにっこり笑ったが、振り返った瞬間はなんだか怖い顔をしていたように見えた。
あれだけ俺の合唱部参加をねだっていたのだから、もっと嬉しそうにしてくれてもいいだろうに――
――何かあったな、まずい事。
聞いた方がいいか――?
いや――桜井とは別に友達ってわけじゃない。ただほんの数日、まとわりつかれただけの関係だ。詮索するのはやめておこう。
とりあえず、必要な事だけ聞いておく。
「合唱部のこと――もうかおる祭まで余裕がないから、早めに練習に取り掛かりたい。できるだけ早く楽譜が欲しいんだけど……今日は部活ある?」
「うんうん、あるよ。用意しておくから、持ちに来て!」
そうは言ったが、桜井は肝心の持ちに行く場所を言ってない。
「……どこで活動してるの? 合唱部」
そう言われてから桜井はハッとして、こつんと自分の頭を叩いた。
「ごめん、忘れてた。えっと、『多目的室401』ってとこ」
……なんだか変な感じの桜井だったが、ひとまず聞きたい事は聞けた。
「分かった。今日は楽譜をもらいに行って、すぐ帰るよ。準備を整えて次の練習日から参加したい。いい?」
「いいよー。あんまり急がなくていいからね」
そう言って人懐こそうな笑顔を見せる桜井だったが、「次の練習日」についてはスルーした。まあ、それは今日合唱部に行ってから聞けばいいか。
それから俺は、久々に静かな昼休みを過ごした。隣の「自由席」――本来は明の席――は空席のままだった。
・・・・・・
放課後――
俺が頬杖をついてぼんやり座っている間に、生徒の過半数はいなくなっていた。
ここから立ち上がって歩き出したら、もう一度合唱の道を歩み出すことになる……期限付き、とはいえ。
そう思うと、意外に腰が重かった。
・・・・・・
……でも、あんまりゆっくりしてる時間はないぞ。
一刻も早く楽譜をもらって作業を始めないと――もし次の練習が明日なら、準備が間に合わなくなる。
俺は思い切って立ち上がり、鞄を背負って早足で教室を出た。
それは、やや無造作な「歩み出し」だった。
・・・・・・
合唱部の練習場所は「多目的室」だそうだ。
そういう部屋は学校としてはやや珍しいだろう。うちの学校が、力を入れて作ったものだ。
誠澄高校は男女共学化に合わせ、校舎の新築と改修工事を行っている。
元々あった南北2つの校舎のうち、古い南校舎が廃止され代わりの新校舎が作られた。新校舎は男子生徒の入学に合わせて完成しており、俺のクラスもそこにある。トイレが男女別である他に、従来の校舎にはない充実した設備が設けられている。
教室の他にあるのは完全男女別の更衣室、そして特に用途が定められていない「多目的室」。教室と廊下を挟んだ反対側にいくつもある。
多目的室は小さいものだと机を囲んで5人くらい、大きいものだと20人くらいが入れる。貸し切りで利用するには申請が必要だが、空室なら勝手に使ってもいい。室内でおしゃべりしていてもいいし、友達同士で勉強会なんかをやってもいい。よほどまずい内容でない限り、どう使ってもいい場所だ。
今のところは新校舎にしかない設備だが、女子校時代から建っている北校舎も少しずつ改修工事をしていて、いずれは新校舎と同じようになるらしい。
それで、合唱部の練習場所はその「多目的室401」とのことだが……
歌の練習に使えるのなら、ただの多目的室ではないだろう。すぐ外で授業をしている中、ピアノなんかを弾いても大丈夫な防音室のはずだ。
「401」……4階の端か。
西階段を上がって、4階へ。廊下へ顔を出すと、「401」と書かれた部屋はすぐ先の突き当りにあった。
廊下の真正面に鎮座する濃い灰色のドア、幅数センチの縦長の窓。ガラスは濃い色をしていて中が見えない。
両開きのそのドアには、普通のドアノブではなく斜めに下がった大きなレバーが付いている。防音の部屋――中学で使っていた練習室と同じだ。
ドアの前に立ち、その大きなレバーを握る。少し手が止まったが、今更引き返すことはできない――
力を込めて、少し抵抗のあるレバーを上げる。
――ガシャッ
その音と手ごたえを感じながら、重いドアを身体ごと押す。中学でずっとやってきた動作――自然にやってしまった。
「――無理強いさせたのに変わりはないでしょ!」
――!?
「だから、何度も言ってるけど! 無理強いさせに行ったのはあんたでしょう!」
中は――怒鳴り合いの最中だった。
このドアは防音仕様だ、人間の怒鳴り声程度は防いでしまう。これが外に聞こえていたら、俺はドアを開けなかったんだけど。
中途半端にドアを開けたまま、どうしていいか分からない俺。見れば室内も、何人かの女子生徒が立ち尽くしている。
「私は無理なんて言ってない! あくまで海野くんの自由意思を――」
「は? 今さら『自由意思』? こんな時期になって誘いに行っておいて? そもそも海野さんは『いやだ』って言ってたんでしょう!」
……やばいこれ俺の話だ。
他人事なら逃げちゃってもいいけど、どうしよう……?
怒鳴り合っているのは桜井と竹内の二人だ。『自由意思』がどうとか言ったが……確か昨日、竹内がそんな話をしてたな。
考えてみればあの話は竹内の独断っぽかった。桜井は今日その事を知って――
――ドン!
桜井が拳で机を叩いて、一同がびくりとする。
「私の気持ちも知らないで、よくも!」
「あんたは海野さんの気持ちを知ってて無視してたでしょ! 可愛い子ぶってればその気持ちを曲げられるとでも思ってた?」
「――っ!」
桜井の拳が震えている。歯を噛みしめた獰猛なその表情は、初めて見た。
――でも今がチャンスだ。双方の言葉が途切れている。
「あー、あの!」
全員の視線が、俺に突き刺さった。
「海野……だけど。楽譜もらいに来たんだけど……」
刺さりっぱなしの視線のせいで言葉が続かない。桜井が来てくれるかなと思ったが、拳を振り下ろしたまま動かない。
「……」
沈黙と視線に耐えかねて、ここは引き下がろうかなと思った時――
とこ、とこ……
竹内が黙ったまま歩いてきた。
とりあえず、後ろ手でドアを閉める。
「こっちです」
竹内さん、敬語になってます……
とりあえず竹内のところに行くと、そこには楽譜やら何やらが入ったカゴがあった。
竹内はその中にあるクリアファイルから、5線譜が印刷された紙を一枚ずつ取り出していく。
――やっぱり数が多いか。
楽譜が全て揃うのにはしばらくかかった。
「――これで全部です。練習は毎日、今日からでも参加できます。土日は今のところ休みですが、本番が近くなったら練習が入ると思います」
すんごくよそよそしい態度……だけど知りたかった練習日の説明はしてくれた。
「分かった。今日は準備ができてないから、練習には出ない。明日から参加するよ」
「分かりました」
俺は渡された楽譜を手に持って、そそくさと出口に向かった。
「それじゃ、また明日……」
ドアを開けて振り返ったが、口にした言葉は尻すぼみに声が小さくなった。
俺は重く閉まりづらいドアをぐっと引き、閉まってすぐにレバーを下げた。
大丈夫だろうか……
・・・・・・
さて、と……
想定外の事態はあったが、とにかくやるべき事をやってしまおう。
家でやろうかと思ったが、学校の方が緊張感があって集中できそうだ。帰らずここでやっていくか。
教室に戻ってみると、もう誰もいなかった。
教卓にはセロハンテープが置いてある。あれが使えるな。
よっし……
枚数の多い楽譜を自分の机に置き、鞄を降ろしてセロハンテープを取って来る。
渡された楽譜は5曲分――
まず1曲目。各ページを真ん中で二つに折っていく。何度か表・裏と折り返したら、親指と人差し指の爪で折り目を強く挟み、そのまま折り目をなぞって圧迫し強化する。
次に、楽譜の1枚目と2枚目をぴったりくっつけて、セロハンテープで貼りつける。双方の紙が重なると後で折りにくい、離れていてもよくない。一気に貼ると失敗する。まず上下両端から5センチちょっとの長さで貼って、徐々に真ん中へ。
折り目の上下端は裂けてきやすいからテープを余らせ、裏側へ折り返して補強する。この時ついでに、最初に折っておいたページ中央の折り目にも同じ補強を施す。
きれいに貼ったら折り目をつける。最初の作業と同じだがテープがあるからちょっと折りにくい。何回か折ったら爪を使って折り目を強化、さらに逆側に折ってもう一度。これで適当な回数折り返せば……よし、できた。
こうやってきれいに繋げてぴしっと折っておくと、練習の時本当に使いやすい。6年間楽譜を使って考えた、一番いいと思う作り方だ。
まずはこの手順で各ページを貼って折って、使えるようにする。
こうして折って貼って、それぞれの楽譜を最初から最後までくっつけたら、ひとまずセロハンテープの出番は終わりだ。
それから小節番号を記入しにかかる――つまり楽譜の縦線ごとに「1」「2」「3」と固有の番号を振る作業だ。適当に書いていて間違えると練習中に話がかみ合わなくなったりするから、集中して作業する。
もちろん、ただ数字だけを書くのではない。リピート――戻る――の記号があったら、どの小節まで戻るか確認してその番号を書いておく。1番カッコと2番カッコがあったら、2番を歌った時に2番カッコまで飛ぶわけだから、飛ぶ先の小節番号も付記しておく。また強弱の記号――「フォルテ」「ピアノ」「クレッシェンド」「デクレッシェンド」等――も確認し、特記すべき内容があれば書いておく。
5曲全て、漏れがないように。
それが済んだら、最初のページの右上に「海」と書いてくるっと丸で囲む。
……別に「海野輝」と名前を書けばいい話だが、中学の頃からこだわって書いている。
ちなみに、これに気付いてくれた人はいなかった。
――さて、普通ならこれで終わりなんだけど……これからが本当に大変な作業になる。
俺は楽譜が読めないから……
・・・・・・
部活が終わったのか何人かの生徒が教室に戻ってきて、おしゃべりを始めた。
これから集中力の要る作業になる。どこかに移動しよう。
教室を出て廊下を歩いていくと、小さい多目的室のひとつが空いていたので、そこに入った。
さて、今からやるのは、音符に音階を付記する作業だ。
つまりドの音なら「ド」、レの音なら「レ」と……5線譜の線を指で数えて、音階を調べて音符の下に書いていく。
6年間合唱をやったが、俺は未だに楽譜が読めない。だからこうしないと何もできない。
だけど役に立つ作業でもある。音符をひとつずつ確認するから、小さな記号も見落とさない。「シャープ(♯)」「フラット(♭)」「ナチュラル(♮)」……これらは見落とすと大変なものなのに見づらい。
それから、点。音符の横に点が付くと、その音の長さは1.5倍になる。見づらいだけでなく何拍伸ばすのか分からなくなるので、「1.5」とか「0.75」とか拍数を書いておく。
その他、注意が必要と思われる所はその事を書いておく。
この作業が長く時間をとる。明日までに間に合うか――
――渡された5曲のうち、2曲は無伴奏の複雑な合唱曲だ。おそらくコンクールで歌った曲をそのまま持ってきたんだろう。当然、女声合唱になっている。
これは主旋律が各パートを何度も移動したり、もうどれが主旋律か分からなかったりする。主旋律だけ歌う予定の俺にはできない歌だ。この2曲は歌わず、その間舞台からハケていることになるだろう。
よし、この2曲は除外。残りは3曲だ。
頑張って書くか。
・・・・・・
『6時50分になりました。まもなく下校時刻です。校内に残っている生徒は、速やかに下校してください』
……!
いかん、もう時間か――
残りは帰ってからだ。少し遅くまでかかっても構わない、今日中に終えたい。
机の上に広げていた楽譜をかき集め、鞄を――
――あ、鞄がない。
移動するとき教室に置いてきたんだ。すぐ取りに戻ろう。
すたすたと教室へ向かい歩いていくと――その教室の少し手前で、異変に気付いた。
誰かの声――これ、泣いているのか……
静かに教室のドアに歩み寄って中をのぞくと……椅子に座って、両手で頭を抱えてうつむいている女子生徒がいる。
あの辺は、確か桜井の席だ。
……そして今日は、合唱部で割と大変な怒鳴り合いがあったんだった。
どうしよう……踏み込む勇気は全くないが、俺の鞄はその教室の中だ。
――仕方ない。
俺は一旦後ろに下がって距離をとり、ずかずかと足音を立てながら教室へ向かいなおした。
何も聞こえていないふうをよそおって、ガラッとドアを開ける。
びくっと飛び上がるように身体を起こし、こちらを向いたその女子生徒は――
――やはり、桜井だった。
「あれ……?」
声が枯れている。
「……まだ、帰ってなかったの?」
そう言って桜井は笑顔を見せようとしたが、その顔でぽろぽろと涙をこぼした。
とりあえず、放置はできない。
歩み寄りながら、何と言えばいいか急いで考える。
「えーっと、その……」
……気の利いたことは、言えそうになかった。
「楽譜、作ってたから……」
……これしか言えなかった。
「……?」
ちょっと分からなさそうな桜井のそばまで行って、もう書けていた楽譜を見せる。
「ほら、これ……俺、楽譜読めないんだよね。情けないけど――素人と変わらないんだ」
「…………何時間かかるの? これ」
測ったことがない。
「えーと……慣れれば速くなるよ」
ひとまずそう言っておいた。
俺は一旦自分の席に向かい、置きっぱなしだった鞄を背負って、また桜井の所へ戻った。
「行こう、桜井」
気の利いたことは言えないが……多少は格好をつけられる方法を思いついた。ちょっとやってみることにする。
「ごめん……先に帰ってて」
桜井はそう言うが、もう下校時間だ。それに――
「――まだ帰らないよ」
そうだ、まだ帰らない。
「それより校舎閉まるから、早く――」
桜井を急かして、ふたりで教室を出た。
ふたり並んで廊下を歩いたが、俺はやっぱり何も言えない……こういう時、明みたいなやつならうまい事言えるんだろうな。
桜井も何も言わなかったから、つらい沈黙が続いた。
そして校舎を出て、外へ――
桜井が校門へ向かおうとしたので、俺との距離が開いた。
「そっちじゃないよ」
そう言われた桜井は、泣き腫らした目でこちらを見て、ちょっと首を傾げた。
「こっち――来て」
手招きすると、桜井はとことことそばに来た。
「行くよ、足元気を付けて」
そう言って向かうのは、学校外周の森。だいぶうす暗い。
泣き顔を見ずにふたりで過ごすには、ちょうどいい。