第4話 伝説の先輩
竹内は俺の言葉を承諾した。
俺は部活へ向かう竹内を見送った後、学校を出て、バスに乗って家に帰った。
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帰ってみると、家には父さんも母さんもいなかった。
教師である父さんはいつも帰りが遅い。母さんは――今日は地元の合唱団の練習か。
兄弟はいない。しばらく一人きりだ。
2階の自室に入りふすまを閉める。
俺の部屋は和室だが壁際に机を置いてあり、床に板を敷いてゴザで覆って、その上にキャスター付きの椅子を置いている。
妙ちきりんな室内だが、畳が好きなのと、椅子に座ってネットが見たいという希望を言ったらこんな配置になった。よく椅子が板の上からガタンと落ちるが、下の畳が大丈夫かどうかは知らない。
その椅子に座って机に肘をつき、どうしたものかと考える。
合唱は別に嫌いじゃない。実際、合唱をやめた今だって、ネットで合唱をやっている動画を見に行って聞き入ったり、ああだこうだとダメ出しをしたりして楽しんでいる。
そう、嫌いじゃあないんだ――
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合唱部は「文化部の運動部」だと言われたことがある。
その通りだ。練習は毎日……とまではいないが、継続的にやり続けなければ、歌唱力は筋力と同じように落ちていく。
いつだったか自己都合で1ヵ月ほど休んだことがあったが、復帰した時は「無理せずゆっくり戻していこう」と言われ、しばらくの間リハビリを受ける患者のような扱いを受けた。
歌というのは運動に近い。
ただ口を開けて「あー」と言っていればいいわけじゃない。合唱を披露するのは基本的に音楽ホールだが、その舞台に立つと正面には奥まで客席がずらりと並んで見える。その最後列まで届く声を出さなければならない。
腹式呼吸、声の響かせ方、飛ばし方――腹部から下を重石のように固めて土台とし、その上に胸、肩、首、そして頭を静かに乗せる。どんなに強く歌う場面でも、ここに力が入ってはいけない。
この時、頭のてっぺんから足の先まで、どこにも無駄なところはない。
歌を歌うということは、自分を楽器として使うことだと思う。過激に言えば、人は歌っている時は人間じゃなく、1個の楽器扱いになる。
どんな楽器でも、およそ「楽器」というものに、演奏に必要ないものがくっついているものだろうか。
合唱をやる者は、楽譜や指揮者に要求される音を出すために、「頭のてっぺんから足の先まで」全てを使って、演奏をする。
その中で、最もきつかったのは「呼吸」だった。
歌う時には、初めの呼吸の際に、次のブレスまでに必要な空気の量を考えて一気に吸う。そのためにはまず、前の空気を吐き切っておかないと深く吸い込めない。ブレスをしたら次のブレスまで乱れることなく息を使い、全て吐いてからその反動を使いつつ次のブレスを行う。
これは僅かなバランスの狂いによって乱れ、不用意に呼吸しただけでブレスは不完全になり、歌がおかしくなる。
最大まで息を吸ってから限界まで吐くのを毎日1時間か2時間、細いロープを渡るような精度でやればどうなるか……
俺は練習中、酸欠を起こした。
1度や2度ではない。1ヵ月連続でだ。
俺は一時期、歌の練習を始める際、発声練習が終わる頃から不調を起こし、練習終了後に少しずつ回復するという妙な体調不良に悩まされた。
練習の間はずっと視界が暗く、頭がクラクラして、若干の吐き気もあった。
原因を色々考えて、「酸欠」と分かった時は衝撃を受けた。
呼吸の管理に集中しすぎたために、歌うこと以外の呼吸をほとんど止めていたのだ。
歌の途中では、息が苦しくても身体に空気が残っていればそのまま次のブレスまで歌っていた。歌を止められて指導を受ける時は、体勢が崩れるのを嫌って、無意識に息を止め歌う体勢を保持したまま立っていた。
もちろんブレス以外の呼吸がゼロ、というわけではなかったが――あの頃は、無意識のうちに自分で呼吸を止めて酸欠になっていた。
それが分かってから「歌に影響を出さずにブレス以外の呼吸も行う」「歌わない時はためらわず息を吸う」という練習を繰り返し、やがて練習中の体調不良は治っていった。
……文化部といったって、こんな事が起こるのが合唱部だ。ブレスの件は俺がまずかっただけかもしれないが、それでも起こったのは事実だ。
こんなものをやったら、当然ヘトヘトになる。練習後は頭が回らなくなるので考えがまとまらず、家に帰ったらまず眠って休んでいた。
俺は中学まで、これだけきつい思いをしてきた。だから――
――だから、俺は「合唱が好き」なんだ。
嫌いだったら、自分で息を止めて酸欠になるまで歌ったりはしない。手を抜こうと思えば簡単に抜けるんだから。
俺にとって問題なのは、そこじゃない。
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俺にとって問題なのは、合唱のせいで自由な時間がとれないことだ。
俺の場合、合唱の練習は平日5日間。本番直前は土日もやった。夏休みのような長期休暇には合宿があるし、通常の練習日も普通にあった。授業がないから練習時間は午後の時間ずっとだった。午前の練習があまりないのは、「起きてから4時間は声が出ない」という人体の特性のためだ。
これは合唱をやる分には充実していてよかったが、自由な時間はあまりなかった。
大してどこにも行けやしないし、放課後に友達と街中をぶらつくなんてありえなかった。たまに何かの都合で部活を欠席して帰ると、街中には制服姿の学生があふれていて、何か別世界を見ているような気がしていた。
文化祭だって何もできない。ステージ発表があるのだから、合唱部は当然そちらに出る。つまり本番直前――練習に最も熱が入る場面だ。準備期間中は練習に明け暮れクラスには顔も出さず、当日は全校生徒がステージ発表を楽しむ中、誰もいない校舎内で本番直前の最後の練習に時間を捧げていた。
文化祭で他の生徒たちが何をしていたのかは、ほぼ知らない。
それでも、合唱をやめるつもりはなかった――もし、他の学校に入っていたなら。今まで6年間、そういう環境で飽きもせずでやって来たんだから。
ただ……俺は今、誠澄高校の生徒なんだ。
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理想の学び舎と名高い誠澄高校に入ってから、俺は今まで垣間見るだけだった普通の学生生活を経験してみたいと思った。他はともかく、この学校なら、満足にそれができると思った。だからあえて部活動には入らなかった。
何かに打ち込むのもいい、それも学生生活だと思う。
だけどそうじゃなくて……
学校帰りにちょっと街中をぶらついて、本でも買って帰って、その本を読むもよし、ネットをするもよし、ゲームでもやるのもいい――そういう事を、やってみたかった。
夏休みには思い切って、一人で遠くへ旅行してみようかなんて思っている。さて飛行機にするか、それとも船便にするか、なんて。
「理想の学び舎」で送る理想的で魅力的な学生生活……そのためには――
――合唱部は、続けられない。
よく考え、よく悩んだ末の結論だった。
合唱は、やめたらすぐに歌唱力が落ちていく。6年間の練習で得た宝石が、輝きを失ってただの石に戻っていく――
――それを承知の上で。
そして決断したからには、曲げない。だから俺は合唱部には入れない。
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背もたれに背中を預けると、椅子が下がって板の上からガタンと落ちた。
下の畳を心配しつつ、元に戻す。
思えばもう、舞台に立つことはないわけだ。これまで、歌うこと以外で一度も立ったことはなかったのだし。
合唱を始めた理由は、母さんの姿を追いたかったから。でも始めてみると、とにかくめんどくさくて……あの頃はたぶん、団内で一番の問題児だっただろう。
初めて立った舞台はとにかく怖かった。ただでさえ緊張しているところに強い照明を浴びせられ、それでいつも通り歌えだなんて無理だった。
中学で部長に指名された時は嘘だろうと思った。リーダーなんて柄じゃなかった。
他にできそうな人がいない――そう言われては断れなかった。うまくやれたとは思っていないが、一応やれるだけのことはやったつもりだ。
最後に出た舞台は中3の文化祭――
――我ながら思う、あの問題児がよくそこに立っていたものだと。
その頃の俺にとっての舞台は、練習に練習を重ねていった末に、年に数回だけ立てる晴れ姿を見せられる場所だった。
贅沢な6年間を過ごしたものだ。
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話に聞いた限りなら、今の合唱部には俺が手助けできる部分が多くあると思う。
人数の不足は補える。すでに6年の経験がある身だ、頑張れば二人分くらいにはなれる。練習期間は1ヵ月しかないが、これも頑張れば間に合わせられる。まかり間違っても、迷惑をかけるような事にだけはなるまい。
混声合唱は――ちょっと無理だろう。時期的にかおる祭用の曲はもう選んであるはずで、女子しかいないのだから当然女声合唱のものだ。
やるとしたら、主旋律の1オクターブ下――例えば『ド』の音なら、そこからシ・ラ・ソ・ファ・ミ・レと下がってその下の『ド』――を歌うのがいいだろう。これで男声の声自体は入るから、混声合唱の雰囲気はちゃんと出る。
問題は曲の数と長さ。特にJ-POPの曲があるならまず間違いなく歌詞に2番があるはず。音程とリズムは覚えられても、1番と2番の歌詞が頭の中でごちゃ混ぜになりはしないか――
「……」
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……考えている。
考えている、練習している自分を。
そしてその先――
――ステージに立っている自分を。
ステージが見えている。メンバー全員で横に並び、熱い照明に照らされている。
その列の中に立って、客席を見ている自分の視界が見えている……
――あれだけ悩んで、きっぱり決断したのに。
俺は頭にぐっと手をつき、目を閉じて下を向いた。
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夕方になって、母さんが合唱団の練習から帰ってきた。
ゆるくウェーブをかけ少しブラウンに染めた髪、下がり気味の目尻……ゆるい雰囲気を漂わせる40代。これがみんなが言う「伝説の先輩」――海野律だ。
父さんからは帰宅が遅れると連絡があった。先に夕飯食べててくれ、とのことだったので、そのまま母さんと二人で夕食をとった。
夕飯の最中、母さんは自分の合唱団が3か所から演奏の依頼が来て忙しいだの、あっちこっちの組織やら何やらから協力金を出しまくられて、使っているはずの団費が逆に増えていくだの話していた。今度の全国大会ではいいホテルを取って、積み上がった団費を何とか減らすのだそうだ。
こんな世界もあるんだ。たぶんコンクール会場への電車賃で精一杯な、うちの学校の合唱部員は想像もできないだろう。
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夕飯を終えて、部屋へ戻ろうとした時――
「輝――」
母さんに呼び止められた。
「なに?」
答えた俺の顔を、母さんは少し眉を寄せて見てくる。
「何か、考えてるね」
……。
「別に……」
俺はそう言ったが、母さんは続けた。
「私にはどうでもいいことだけど――」
……どうでもいいのか、あんたの息子のこと。
「――迷ってるなら、やれば?」
……!?
「何悩んでるか知らないけど、ご飯まずそうに食べてたからね」
……ごめんなさい。
「あのね、輝。『迷う』っていうのは――それはもう『答えが出ている』ってことだよ」
……?
母さんは片手を腰に当て、続けた。
「やりたくない事なら迷わない。答えは『やらない』以外にないから――」
……。
「――そしてやりたくてもできない事は、迷うこと自体できない。迷うための選択肢が、最初からないから」
……まるで子供に知恵を授けるように。
「迷うっていうのは、やろうと思えばできるってこと。『やりたい』と思ってるから、『やる』と『やらない』の二つの選択肢ができて、そこで迷う。でも――」
……。
「――さっき言ったように、『やりたくない事』なら迷わないはず」
…………。
「なら、『やらない』という選択肢は消える。残るのはひとつ――」
………………。
「――『やる』」
・・・・・・
母さんは、急に声色を和らげた。
「まあ私には関係ないし、いいんだけどね。でも、年長者の言うことは聞いといた方がいいよー、経験が違うから……あと、部屋戻ったらすぐ弁当箱持ってきなさい。明日の弁当なくなるよ」
「……うん」
……いかん、弁当箱まだ鞄の中だ。
部屋に戻って、やっぱり鞄に入ったままだった弁当箱を取り出しかけて、ふと思った。
「伝説の先輩」……ね。
母さんの学生時代のエピソードの中には、悩める後輩を救った話もいくつか、校内で語り継がれている。
・・・・・・
俺は弁当箱を持って行った後、部屋に戻って宿題をやって、動画サイトを夜中まで見て、それから寝た。