第10話 厳しい先生
「いいよ。みんな、今日は解散!」
その高らかな声に、残っていた5人の部員たちは痛いほどに悲しい表情を見せる。
「先生」はみんなのその顔を見て、緊張感のない笑みを浮かべた。
「いいよまた1日くらいサボっても。それよりみんな、もうちょと自分を大切にして、ほら――」
そして視線を部屋の隅にあるピアノに向ける。
俺も含めて、全員がそちらを向いた――
が――
「片付け、早くしないと俺がやっちゃうよー!」
ダダダ、と足音が聞こえて振り向くと、「先生」は窓際に積み重ねられた机に向かいダッシュしていた。
この人、俺たちにわざと逆方向を見させてその隙に――!
窓際に駆け寄った「先生」は、ガタガタと手際悪く机を下ろし始めた。
「先生、だめです!」
「私がやります!」
「待ってください!」
不意打ちを食らった部員たちは、そう言いながら慌てて駆け寄っていく。
その様子を見た「先生」は、机を斜めに持ったまま、にやっと笑った。
「じゃあ、みんなに任せよう。で……」
「先生」は部員のひとりに机をはぎ取られながら、俺に視線を向ける。
「――そこの君」
――その顔には冴えた眼光、そして力を感じる笑み。
なんだこの人……さっきまでと別の人だ。
その人は俺から一瞬たりとも視線を外さず言う。
「君はサボれないね、残って練習。海野……輝くん、で合ってる?」
「はい」
残って練習――その表情からして、ひとりでやれというわけではなさそうだ。
「先生」は俺の前までふらりと歩み寄ってきた。
「俺は『部活動指導員』の岩村真也。ピアノ伴奏の担当だけど、一応歌の指導もできる。――ああ、教員じゃないから、ラフに接していいからね」
ああ……この人は指導員だったのか。
「部活動指導員」――それはこの学校で、部活動の指導のためだけに雇われる職員だ。
誠澄高校は生徒に自由な学校生活を歩ませる方針の学校だ。だから部活動への参加は任意だが、部活そのものは多く充実していて、「顧問」の教員が指導しきれない部活は「部活動指導員」を置いて必ず満足に活動できるようにしている。
もう廃部が避けられない合唱部にも、まだ指導員を残してくれていたんだ。
さっき言われたように指導員は教員ではないから、先生ではない。だけど生徒たちは、慣例的に「先生」と呼んでいる。
その岩村先生は振り返って、机と椅子を運んでいる部員たちに呼びかけた。
「ピアノは使うからこのままにしといて――」
よく響く声だ。この練習室の壁が、はっきりと反響を返している。
「後の片付けは輝くんとふたりで……なんとかする」
いや――しぼむように声が小さくなっていった。
大丈夫かな、片付け……
それにしても――なんだか変な人だ。
冴えなくて頼れなさそうだけど、どこか力を秘めていそうな一面が見えて……でもやっぱり適当そうで。
――ただ少なくとも今日この人は、凍り付いていた部員たちを溶かしてくれた。
「さあとっとと帰って! 今日は練習禁止。隠れて練習とかしないでよ!」
岩村先生は追い払うように部員たちを帰らせる。
陽和が不安そうにこちらを見ていた。
だからちょっとだけ笑顔を見せて、小さく手を振っておいた。
・・・・・・
みんなが出て行って、練習室には俺と岩村先生だけが残った。先生はちょっと斜めに立ったまま、何かの楽譜を冴えない顔で見ていた。
ドアのレバーが降ろされて、しばらくしてから――先生はようやく顔を上げた。
「よし。やろうか」
そう言ってピアノの向こう側へ立つ。
俺もピアノを前にして立ち、先生と向き合った。
先生はがらんとした練習室を見渡す。
「かえって都合がいいかもね、みんないなくて。主旋律だけの猛練習をするには」
確かにそうかもしれない。ひとりだけでの練習なら、みんなの足を引っ張ることはない。
そして、猛練習か――
先生はよく響く声で言う。
「かなり早く練習進めるから、そのつもりで。代わりに途中で休憩入れるから」
「はい」
そう答えた自分の言葉で、身体が一気に目を覚ます。しばらく歌っていなかったはずなのに、まるで昨日の続きのように――
「それじゃあ――」
そして練習は始まった。
・・・・・・
――練習開始から30分。
「はいOK! とりあえずよし!」
……とりあえず、か。これで。
岩村先生の練習は、息つく間もない速さだった。これまでの誰よりも――歌を止めて指導する時間が極端に短く、歌う回数が猛烈なほど多かった。
しかも評価が意外と厳しい。酷評はされなかったが、1度も「完璧!」とは言われなかった。
でもへこたれはしない。完璧だなんて言われたら、それ以上うまくなる余地をなくされる。
まだいける、もう一度――
「よーっし、休憩!」
先生の明るい声が、室内によく響いた。
――もう休憩? まだ30分しか経ってない。
しかし先生は、俺のその考えを見通したように言ってきた。
「だいぶ疲れたはずだよ、かなり歌わせたから。椅子出して休んで。あと水飲んできて」
なるほど……たぶん「休んでいい」のではなくて、「次の練習のために身体を休めろ」と言ってる。
要するにこの休憩も練習のうち、ということだ。
そういうやり方もある、か。それなら、その通りにやろう。
一旦部屋を出て、言われた通りに水道場へ向かった。
どんなに上手く歌っても、音を出し続けた喉の負担は、ごまかせない。
・・・・・・
練習室に戻ると、先生はもう椅子をふたつ出して片方に座っていた。手招きされて、もう片方に座る。
「だいぶ覚えるの早いね。いい経験を積んできたんだろう」
練習中は高評価しなかった先生が、今はそんな事を言う。
でも、これまで6年間を思うと――
「はい……よかったです、本当に」
それ以外の言葉はありえない。
「輝くんはさ、どうして合唱をやめたの? さっきの練習、だいぶ鬼気迫るものがあったよ」
そこまでではなかったと思いますけど……
俺は先生に、合唱をやめた理由を――自由な時間が欲しくて、悩んで迷った末にやめたということを、かいつまんで話した。
それを聞いた先生は――
「あははは」
――と、でかい声で笑った。
「おんなじだ、俺と」
「同じ?」
先生は背もたれに身体を預けた。
「俺は中高6年間合唱部やってさ、そりゃあよかったけれど――趣味が旅行だったから。大学は時間たくさんあるから、あっちこっち飛び回りたかったんだよね」
そう言ってさらに背もたれに寄りかかる。
「でも――」
――でも?
「入っちゃった。大学の合唱団」
そう言ってへらへらと笑う。
「そしたらその合唱団、全国大会金賞が当たり前のとんでもない所だったんだよ。しかも10年連続。知ったのは入団届け出してから。それでまあ練習は厳しかったし、本番で舞台に出る回数も多くて、時間なんて全然なかった」
……それならさっきの意外な厳しさもうなづける。この人、全国大会に行って金賞獲って来た人だったんだ。
「で、後は輝くんと一緒。めちゃくちゃ悩んで迷った末に、やめたんだ。それからは、やろうと思ってた旅行をやりまくったよ。学祭の日は京都行ってたな」
……学祭と京都旅行を比べて、京都が勝ったんだ。
先生はゆらりと、沈み込んでいた背もたれから身を起こした。
「そういう経験をやってみた俺が思うには――」
……急に声から適当さが消えた。
「やるのか、やらないのかはどうでもいい。何かに対して「イエス」か「ノー」かはそこまで重要じゃないと思うんだ。俺もたぶん、あのまま合唱団を続けていてもいい未来があったと思う」
合唱を続けていても……?
「重要なのは、よく考えて決めたことを貫き通すことじゃないかな、たぶん。一度決めたことを、決めたくせに貫かないんじゃ人生真っすぐに進まない。二兎を追うものは何とやら――いいものはひとつも手に入らない」
決めたことを貫く……
すると、合唱をやめると決めた俺がここにいるのは――
「――輝くんは、そこのところどうなの? やめると決めた合唱の道に、戻ってきちゃったけど。いいの?」
……。
「……分かりません」
そうだった。入学式の直前に、もうやらないと決めた。
でも今はそれを翻して、ここにいる……
「……」
「じゃ、もう来なくていいよ」




