それを愛と呼ぶのには
――その後の話をするとなれば。
別段特に何があったわけでもない。
小さな村は別に竜人が死んだ事など知らないし、事件になりようがなかった。
たとえばお付きの者が宿で待機したまま、いつまで経ってもラグだけが帰ってこない、というのであれば事件になったかもしれない。
けれどもラグが死ぬまでの一連の流れはお付きの二名も目の当たりにする事となった。
確かに唆したのはヘルミーナではあるけれど、しかしラグは自ら命を絶ったのである。
ヘルミーナの住むちっぽけな小屋は、むせ返るような血の匂いが広がりはしたものの、村中にその匂いが広まるほどではない。
家の扉を全開に換気するなら近所に匂いが漂う可能性もあるけれど、ヘルミーナの家は村の中心部にあるわけでもなく、どちらかといえば外れの方だ。窓をちょっとだけ開けておけば、匂いはそのうち気にならなくなるだろう。
それに、両親を亡くしたヘルミーナだけれども。
村の人たちはたった一人になってしまったヘルミーナの事を気にかけて時々様子を見にきたりもするけれど、勝手に家の中に入ってくるだとかはしないので。
玄関開けたらその先の床が血まみれである、という事もすぐさま周囲に知られる事はない。
誰かが来ても家の中に招かなければ良いだけの話だ。
もし招く必要が出たとしても、それまでに綺麗に汚れを落としてしまえば――木造なので床に染みがとんでもないが、まぁそこそこ年数が経過したものだと言われてしまえば、はたまた別の色で塗り替えてしまえば、あからさまにおかしいだとか、そういう風に見られることもないだろう。
空を飛べない獣人であるならば、村を出て行った様子もないのに見えなくなった、となれば多少騒ぎになるかもしれないが、ラグは竜人だった。その気になればあっという間に空高く飛んで、そのまま遠いところまで飛んでいけるので。
彼の姿が見当たらないと言われても、飛んで外に行ったと言われてしまえば。
村人は誰もそれをおかしいとは思わない。
お付きの二人はその日、顔を青くさせたまま宿へと帰った。
ラグが死んだ、と言いふらすつもりはなかった。
殺されたなら、殺した相手に裁きを与えるべきはずではあるが、ラグはあくまでも運命のツガイの願いを叶えただけに過ぎない。その結果死に至っただけで。
その可能性も勿論あったのだから、危険を感じたならば断わる選択肢だって勿論あった。けれどそれでも実行したのはラグで。
そしてそのラグは、血の汚れを綺麗に拭きとられ、その後中身を取り出したヘルミーナの手によってすぐに腐らないように処置をされ、傷口を丁寧に縫われ、両親が使っていた書斎にその身を置く事となった。
お付きの二人を気にする様子もなく作業しようとしていたヘルミーナは、しかしいつまでたっても立ち去る様子のない二人を、見ているなら手伝って、と声をかけて手伝わせたのである。中身を取り出すにしても、そうしたらまた汚れてしまうし、だがしかしこの場所で血抜き以外の作業をするには適さない。
一人でラグを運ぶのは大変なので、見てるなら手伝えとヘルミーナはとんでもない事を告げたのであった。
仮にもし、この一件が広まったとして。
そうなればこの時点でお付き二名も共犯である。
いやまぁ、二人は大っぴらに言いふらすつもりはなかったが。というか、言えるはずもなかった。
国に帰ったらラグの家族に報告しないといけなくはなるだろうけれど、それだってありのままを説明するには憚られた。
ただ、死んでしまったけれどラグのその表情はとても安らかで、幸せそうに見えなくもないので。
愛に殉じた、という報告がギリギリで真実からも事実からも遠くはないのではないか……と思い始めている。死体を外にわかりやすく遺棄しないだろうとも思うので、ラグは遠いところでツガイと仲良くやっている、という言葉でどうにかならないかなとも思い始めていた。
ラグが死んだ、と言ったとしても、恐らく彼の家族がヘルミーナをどうこうしようとは思わない、とは思う。
ただ、ヘルミーナにとって余計な事を言って余計な事に巻き込むようであれば、何をしでかすかわからないな……とお付きの二人は思ってしまったので。
結局は口を閉ざすしかなかったのだ。
二人は獣人の中でも血の気が多いほうではないが、それでも決して弱くはない。
だが、それでもヘルミーナには得体の知れない恐ろしさがあった。
少なくともラグが生きていた時と比べると、今のヘルミーナのラグだったものに向ける感情はあまりにも違いすぎる。
理解が及ばない存在。
即ち、未知。
人であれ獣人であれ、わけのわからないものに恐怖を覚えるのは仕方のない事だった。
中途半端に逃げ帰る真似もできまいと、二人は結局最後までヘルミーナの手伝いをして。
そうして、村を出る事に決めた。
二人がいなくなったなら。
もう誰の目も気にしなくていいとばかりにヘルミーナがラグの死体を始末する可能性はあったけれども。
だからといって本当に彼が朽ちるまでずっとヘルミーナが彼を愛するかを確認するつもりまではない。
二人はあくまでもラグが暴走しないように諫めたりだとか、時として力尽くで止めなければいけなくなっただとかの、ラグに対する抑止――お目付け役で。
彼の死後もずぅっと見守る、というわけではなかった。
本当は、あまりヘルミーナとは関わりたくなかった。理解の及ばぬ得体の知れないものと何度も関わりたいと思うはずもない。
けれど何も言わずに出ていくのも、礼儀を欠く行為だと思ったので。
二人は最後の挨拶をするべくヘルミーナの家にやって来た。
床の掃除も手伝った事もあって、ヘルミーナの家の中はあの日と比べればまぁ多少は落ち着いているな……と思えるものだった。言ってしまえば明らかな事故現場みたいな感じではなくなっている。それだけでもマシだった。
床についた染みはうっすらと残っているが、それはたとえば大雨の日に家の中に戻ってきて、泥汚れが染みついて色が沈着してしまった、とか言われればまぁそこまでおかしいと思わないようなもので。
あの日何があったかを知らない者なら、何も気にならないのだろう。
もう血の汚れも匂いもないのに、二人はまるであの日のような錯覚があったけれど。ちらりと視線を移動させれば、そこの椅子にまだラグがいるのではないかと思えてしまう。
「それで、お帰りになられるとか」
「あ、あぁ」
ろくなお構いもできませんで、なんて言ってるヘルミーナだが、お構いされると逆に怖い気しかしないのでお構いなくとしか言えない。
家の裏手に大量発生したと言っていた青虫がうじゃうじゃと入った虫かごがテーブルの上に置かれていて、二人は露骨に目を逸らした。
ギリギリ脱出できない幅なのでテーブルの上に青虫ぽろぽろ、といった事にはなっていないが、虫かごの中をこれでもかとうねうねされているのを見るととてもぞわぞわする。
何も入っていないコップが二つこちらに置かれていたが、それについては一切触れなかった。
青虫汁とか言われたらとても困るので。
「そうですか。それでお二人は国に帰ったあと、どうなさるんです?」
にこにこと余所行きみたいな顔をしてヘルミーナが問う。
「ラグの家族に報告する必要はあるだろうけれど、ツガイと上手くやっている、とだけ報告しておく。それ以上は何も言う気がない」
「そうなんですか」
表情に一切の変化はなかった。
だがそれが逆に恐ろしい。
この女は笑いながら誰かを殺せるのだと知ってしまえば、恐怖しない方がどうかしている。
いや、もっと恐ろしいのは、殺した後、その相手を慈しんでいる事か。
あの日、ラグが死んで。
そこから多少の手伝いをする羽目になったが、あれから四日が経過している。
たった四日。されど四日。
その間、ヘルミーナはずぅっとラグの死体と共に生活をしているのだ。
頭がおかしいとしか思えない。
前世の記憶があるらしいヘルミーナ。
そのせいでツガイを憎んですらいたヘルミーナ。
ツガイが死んで、その後憎しみは消えたのだろうか。
それとも、獣人ではない彼女だけれど。
もしかして、ツガイが死んだ事で。
彼女は泣きわめく事もしなかったけれど、それでも運命のツガイが死んだ事で。
獣人たちとは異なる方向性で狂ってしまったのではないか。
ふと、そんな風に思ったのだ。
思った、というよりは、そうであって欲しいという願望に過ぎないが。
ツガイを感知できるのは、基本的に獣人たちだけでそれ以外の種族はツガイだと言われてもピンとこないというのは二人もよく知っている。だから、ヘルミーナがラグをツガイだと認定していたとは思えない。
ただ、彼女には前世の記憶があって。
その時のツガイがラグで。
そしてラグが彼女をツガイと認めたから。
「一つ聞かせてくれないか」
「どうぞ」
一秒たりとも躊躇わない即答だった。
こちらは声をかけるまで内心で結構葛藤したというのに。
「もし、ラグの魂が生まれ変わってまたアンタとツガイだとしたら。その時はどうするつもりなんだ?」
ラグがまた竜人として生まれてくるかはわからない。
今度は普通に人間かもしれないし、その逆にヘルミーナが獣人として生まれるかもしれない。
お互いにツガイと気付かない種族のまま、という可能性もある。
だが、また今回のように。
竜人と人間として出会ったのならば。
どうするのだろうか、と純粋に疑問を抱いた。
「どうもしませんけど。
彼は私の願いを叶えて心臓を抉り出した。私は彼を愛すると言った。それに関してはここで終わる話です。
もしまた来世というもので出会ったとして。お互いに記憶がなければその時次第でしょうし、もしどちらか、もしくはどちらにも記憶があるのであれば。
やっぱりそれもその時次第だと思うんですよね。
愛するとは言ったけど、生まれ変わっても、なんて言ってませんから。出会い方次第ではまた前みたいになるかもしれません」
大体前世の記憶なんてそうそう持って生まれてくるわけじゃないでしょう。
なんてしれっと言われてしまえば確かにとしか言えない。
お付きの二人だって、自分たちが生まれる前の、もう一つ前の人生を送っていた頃の自分の事など綺麗さっぱりわからないのだから。
ヘルミーナがまだ生きているうちにラグの魂が生まれ変わってまた自分の所にやってくる可能性はあるかもしれないが、ないかもしれない。
今回もう出会わなくても、また来世で出会う可能性はある。
とはいえ、そう何度も前世の記憶を持ったままの状態でいられるとは思わないので、来世の事は来世の自分に丸投げである。
なんだったら、この世界じゃない別の世界に生まれ変わる可能性だってあるのだから。
それ故にヘルミーナの態度はとてもさっぱりしたものだった。
既にラグは死んだので、今更グチグチと言う気はない。
ただ、こう思わなくもないのだ。
もし、出会うタイミングが違っていたら。
仮にもっと前からずっとラグの運命が自分だったとして。
例えば前前世の時もそうだったとして。
けれどその時は生まれる世界が違いすぎて出会えるはずもなかった。
前世は、出会ってすぐに連れ去るような事をしなければ。
ツラは良かったのだ。
だから、人の好さそうな顔をして、この村にはたまたま旅をしに来ました、みたいな感じで前世のヘルミーナに近づいていたならば。
そうやって、距離を少しずつ縮めていたなら、前世のヘルミーナは前前世の記憶も思い出さなかったどこにでもいそうな普通の村娘だ。
顔の良さにコロッとやられて、人当たりの良さにもコロッとやられていたならば。
そのまま口説かれでもしたら、素直にそれを信じて両親や友達に、私彼と結婚するわ、とか言ってた可能性は大いにあった。
そんな、ちょっとした親交を深める手間を省いた結果彼はツガイに目の前で死なれたのだ。
横着するとロクな事にならない。
前回の失敗があったとしてもだ。
今回の出会いだって、あとちょっと早くに彼がこの村に来ていたのなら。
ヘルミーナが前前世の記憶と前世の記憶を思い出す前に出会っていたなら。
獣人たちが無理にツガイを連れ去らないというようになった今なら、何も思い出していないヘルミーナに声をかけて、そうして言葉を交わしていけば。
前回の悲劇をもう一度繰り返す事もなく、今度こそは幸せになれたかもしれない。
外面を取り繕う程度の事はできるようになったみたいだし、間違いなくできていただろう。
その後でヘルミーナが前世の記憶を思い出していたとしても、あの時とは違うな? なんて思えば。
前世の記憶だけで竜人憎しで取り付く島もないなんて事にはならなかったはずだ。
ただ、既にヘルミーナが以前の事を思い出してしまったから。
そんな、ラグにとっての幸せな未来はなくなってしまっただけで。
そういう意味では身も蓋も無く言ってしまえば、彼はどこまでもタイミングだとかが悪かった。
あまりにもあっさりした態度のヘルミーナに、けれども二人はどこかホッとした。
出会い方次第だと言った。
前の事も今回の事も引きずってまたやらかすつもりがあるわけではないのだと。
それがわかっただけでもマシだった。
前回の分を今回で水に流した……のだろう。
そうであるならば、次こそは。
次こそは、ラグが幸せになれればいい、と思った。
いや、本音を言うなら、獣人ではなく人に生まれてツガイとは無縁の生活をした方がいいような気もしているのだが。まぁ未来の事どころか来世の事だ。先すぎてどうなるかなど、お付きの二人にもヘルミーナにもわかるはずがない。
書斎に置かれたラグは、はく製――とは明確に言えないが限りなくそれに近い物――としてそこに在る。
寝室ではないのだな、と豹の獣人が言えばヘルミーナはあっさりと、家の貴重品とか置いてるの、ここだからと返した。確かに本は読めない者には無用の長物だが必要としている者からすれば宝の山だ。
わざわざこんな辺鄙な村にやってきて本を盗もうと考える者はいないと思うが、それでも何らかの金になりそうな物を、と盗みに入る者がいないとも限らない。
その時に書斎に足を踏み入れて、誰かいると思いきやそれが人の置物であったなら。
しかもさらによく見たら、元がきちんと人であったものだ、とわかってしまったら。
人によっては盗みを続けるどころか悲鳴を上げて逃げ出すだろう。
そういう意味では、ラグはこの家では決してただの置物というわけでもないのだ。
扱いが案山子と一緒という言葉をお付き二名はそっと飲み込んだ。
「それじゃあ」
「あぁ、そうだな、短い間だったけど世話になった」
他に聞きたい事は特にない――というか、思いつこうとも思わなかった――のでそろそろ出発しようかと思って二人はそっと立ち上がった。
椅子が小さめなので普通に立つと結構な音を立てて後ろに転がるのだ。
それを知ったのが、ラグが死んだ日であるというのもなんとも言えないが。
「行くのね。気を付けて。
あ、そうだ」
思い出したような声を上げるヘルミーナに、一体なんだと二人は内心でギクッとした気持ちになった。
何かした覚えはない。ないのだけれど、そもそもヘルミーナは二人にとって得体の知れない生き物だ。人の形をしているけれど、中身が別と言われればきっと信じたに違いない。
「いえ、大したことではないのだけれど。
そうね、一つ、お節介かもしれない話をしておこうと思って」
「おいおい一体なんだってんだよ」
「ツガイに関して」
軽口で茶化そうと思ったものの、想像以上に真面目なトーンで言われた事で豹の獣人は凍り付いたように固まってしまった。
「貴方たちにとっては魂に刻まれただか結ばれただかで定められた絶対的な運命の相手。見つかれば、絶対にその相手と添い遂げようと思う存在。
お互いが獣人同士なら何も問題はないけれど、もし異種族であるのなら、特に人間であるならば気をつけなさい」
「気を付けるって……」
言われてもな……と困ったように眉を下げたのは熊の獣人だ。
「これは私の持論だけど。
人間ていうのは、獣人からすれば弱くて取るに足らない脆弱な種族よ。アナタたちが本気を出さなくてもちょっと力を入れて殴れば私は簡単に死ぬ」
あまりにもさらっと言われて、いや殴んないよ!? と二人は慌てて両手を横に振った。ないない、と言わんばかりに。
「私だけじゃない。それは他の人間もそう。
でもね。そんな簡単にすぐ死ぬような人間は、数が多い事だけが有利で。でも、数が多いだけなら、他の種族が人間の土地を支配しようと思えばやり方次第では簡単にできると思うじゃない?」
二人の慌てっぷりを見ながらも、ヘルミーナはそのまま話を続けた。
だって人間は弱いのだ。数が多いからそれを上手く使えばどうにかなるけど、それでもエルフが使う魔法で複数名は簡単に死ぬし、他の異種族が襲い掛かったって結果は然程変わらない。
外側の事に関して無関心であるエルフが侵攻してくる可能性は低いけれど、もしそうなったなら、エルフたちが軍として襲って来れば国の一つや二つ呆気なく滅びる。
「でも、人は根絶やしになっていない。今になってもね。
異種族が他の種族を排斥しようとして最初に狙うのは大抵人間だけど、今も人は世界のあちこちにいる。
……こういう言い方は貴方たちにとって不快かもしれないけれど。
化物はいつだって人間を格下であり餌のようなものと見て襲ってきた。でも、同時にそれらの化物を倒してきたのはその格下で餌だと思われてきた人間なのよ。
獣人は、体力面においては人から見て化物と呼べるかもしれないけれど。
獣人たちから見て人間は精神的な化物であると思っておいた方がいい」
静かな声だった。
夜の闇の中、寝物語をねだる子に物語を紡ぐ母のような声だった。
しかし言ってる内容はちっとも可愛らしいものではない。
特に貴方、とヘルミーナは熊の獣人を指した。
「貴方は獣人の国で自分の運命を見つけられなかった。つまりは、人間たちの国のどこかでバッタリ遭遇するかもしれない可能性を秘めている。
運命に出会って浮かれて、自分の人生の終焉を見誤らないようにね」
いっそ静謐と言っていい程の声と眼差しに――
「ヒュッ」
「ひぇっ」
豹の獣人は呼吸を失敗しそうになり、熊の獣人は情けないくらい可哀そうな悲鳴が上がった。
そうして二人は逃げるようにしてヘルミーナの家を後にしたのである。
ちなみにヘルミーナからすれば別にこの二人を恐怖に陥れてやろうなんて思ってはいない。割と親切心であった。その親切はこれっぽっちも伝わっていないが。
ともあれ、彼らは出て行った。
この家に残るのは、愛を求め魂を失った哀れな器と、空の器に愛情を注ぐ頭の逝かれた女だけ。
愛する二人が暮らしている、と言うのには、あまりにも――