これからは一緒に
竜人の手は、普段は人の手とそこまで変わらない。
けれども、外敵と戦うような事があっただとか、そういった危険な状況下におかれた場合、爪を急速に伸ばす事が可能であった。危険がなくなれば爪の長さを戻す事も容易だ。
猫の爪のように出し入れする、というわけではないが、自らの意思で武器として扱う事ができる。
そして、竜人の爪というのは鋭く、硬い岩なども簡単に切り裂く事ができた。
そういう意味では、あえて武装する必要がない。
ラグはその爪を伸ばし、自らの胸に突き立てた。
ぶつ、と肉を貫通する感触。じわりと滲むように、それから少し遅れて溢れるように出てくる赤。
お付きの二人は止めようと思ったものの、その場の光景から目が離せずに動けなかった。今、邪魔をしたら。
たとえラグの命を助けるためといえども、それを止めてしまったら。
ラグの覚悟も、ヘルミーナの願いも、どちらも阻止する形となってしまう。
ヘルミーナは別にそれでも構わないのかもしれない。
けれどもラグは。
ラグウォールは。
きっと、そんな事をすれば運命である最愛の存在から二度と愛を与えらえれる事はない、と二人を憎むだろう。怒りを買ってその場で二人を殺そうとするかもしれない。
止めるべきだ。
頭ではわかっていても、しかしラグの迫力に気圧されて二人は動けなかった。
声すら、掠れて上手く出せなかった。
そうこうしている間にも、ラグの爪は彼の胸に容赦なく食い込んでいく。広がる血の匂いに、獣人二人は思わず顔をそむけた。二人とも鼻が良いほうなので、そんな事をしても何の気休めにもならないのだが、それでも。
ラグから目を離すのは、彼の覚悟を見ていられない、と侮辱するに近いのではないか、とも思ったのだけれど。
それでも、視界に入れたままではそのうち咄嗟に止めようとしてしまうかもしれないから。
だからこそ、二人は固く目を瞑り歯を食いしばった。
そうしないと、やめろと叫びそうになるから。止めようとしてしまうから。
お付き二人の心情を、ラグはうっすらとではあったが把握していた。邪魔をしないという選択肢を選んでくれたのは良かった。そうじゃなかったら、邪魔者を排除しようとして加減もなくぶっ飛ばしてしまうだろうから。
普段はある程度抑えているけれど、それでも咄嗟の時の竜人の力は他の獣人たちと比べて桁違いだ。
それもあって、下手に止めようなんてされたら折角こうして付き合ってくれた二人を殺してしまうかもしれない、となるのは避けたかった。
ツガイに死なれた自分に、露骨な同情をしないで付き合ってくれた二人。
同じくツガイを失った者、未だ運命を見つけていない者。そんな違いはあれど、この二人は気付けばラグにとっても友人と呼べる存在になっていたのだ。
かつて、運命と出会う以前まではずっと孤独であったラグだが、この二人のおかげでその孤独も薄まった。なのに、それをこちらの感情の制御が上手くいかないだとかの理由で害する事はしたくなかった。
それに、確かに心臓を抉り出せば普通は死ぬ。
人間だろうとそれ以外の異種族だろうと、獣人だってほとんどは死ぬ。
けれど。
ラグにはまだ勝算があった。
勝ち負け、というにはどうかと思うがヘルミーナは心臓を抉り出せば愛してくれると言った。
かつての贖罪だと思えば、そしてそれを贖えば。
今度こそ、運命と添い遂げる事ができる。
竜人は他の種族と比べて圧倒的に頑丈で、それ故に心臓を抉り出したところで即死はしない。まぁとても痛いのは確かなのだけれど。
指がぬるりとした感触に塗れる。本来そんな場所に入れるべきものではないが故に、あまりの痛さに叫びたくなるし指だって今すぐにでも引っこ抜いて傷を塞いでしまいたい。
けれどもそれではダメなのだ。
心臓を抉り出した後、すぐに戻せば。
限りなく死にかけるだろうけれど、助かる可能性は他の種族と比べて圧倒的にあるのだ。
だからこそ、やり遂げてみせようとラグウォールは決意していた。
そうすれば。
そうしたら。
今度こそ。
ラグウォールの目に映るのは絶望ではなく希望であった。
溢れる血の匂い、ぞわりと死神に背中を撫でられているかのような死の気配。一歩間違えば確実に死ぬのだけれど、それでも確かにそこに希望はあったのだ。
血管が千切れる音が聞こえた気がした。
痛みで正直周囲の音もよくわからなくなってくる。自分は今、果たしてきちんと痛みを堪えているだろうか?
痛さでみっともなく叫んだりしていないだろうか?
死にそうなくらいに痛いのだけれど。
それでも。
最愛でもある運命の前で、無様を晒したくはないなぁ、とラグウォールは場違いにも思っていたのである。
時間にして永遠にも思えるような苦痛であったが、しかし実際そこまでの時間は経っていないだろう。ぐずぐずになった肉から引きずり出された心臓は、それでもまだ動いていた。
ぼやける視界の中でヘルミーナを見れば、彼女はうっすらと笑っていた。穏やかに、柔らかく。
あぁ、これでやっと報われる……
そう、確かに思ったのだ。
痛みで気絶寸前だったけれど、それでもヘルミーナの笑顔を見て何もかもが吹っ飛びそうになった。
だから、気付けなかった。
椅子に座っていたものの、バランスを保てなくなって崩れそうになったラグをヘルミーナが立ち上がり、すっと支える。
初めて向こうから触れてくれた……!
ラグがツガイに触れたのは、前のヘルミーナの時に彼女を見つけてつい連れ去ってしまった時以来だ。
その後は自分が近づこうとしても手当たり次第に近くの物を投げて近寄らせてはくれなかったし、目の前で彼女を助けられずに死なれた時は、結局埋葬は自分でできなかった。他の者が行ったのだ。
そうでもしなければ、ラグはきっと前のヘルミーナのバラバラになった死体を集めて、それを自分の部屋に留めておいたかもしれない。それがいずれ腐ろうとも。
そして此度の出会いでも、マトモな接触はなかったといっていい。出会い頭にカゴを顔面に叩きつけられたけれど、それを接触と呼ぶのはあまりにも惨めだったのでカウントには含めない。
だからこそ。
それもあってようやくラグは報われるのだと信じたのである。
実際触れたヘルミーナの手はか細くも温かかった。
流石にそろそろこのままでは問題があるな、と思ってどうにか心臓を戻そうとしようとして。
もう片方のヘルミーナの手がラグの心臓を持つ手に触れた。
そうしてするりと心臓に触れて、そこでついラグは彼女に心臓を譲るかのようにしてしまったのだ。
彼女なら、悪いようにはしないのではないか? そう思って。
だがそれは結局のところ幻想だった。
にこやかな笑みを浮かべたまま、ラグの心臓を手にしたヘルミーナは――
ぐぢゃっ。
無慈悲にもその心臓を握りつぶしたのである。
同時に飛び散る血液が、ヘルミーナの頭、顔、肩と広範囲にかけて汚していく。
心臓を取り出しても少しの間生きていられる竜人ではあったけれど。
流石に戻そうとした心臓が潰されてしまっては生き続けられるはずもない。
何が起きたのかわからないまま、ラグの身体はゆっくりと力を失い床に倒れ落ちた。
自分の心臓が握り潰されたとわからないまま、ラグの表情はどこか安らかに微笑むようであったけれど。
彼の命はここで終わりを迎えたのである。
「お前……なんで」
見ないようにしていたが、それでも音は聞こえていた。
だからこそ、お付きの二人はどさ、とラグが倒れた音を耳にして思わずそちらを見てしまった。ヘルミーナの片手が真っ赤に染まり、それだけでは飽き足らず他の部分も真っ赤で。
何が起きたか直接見ていなくても、何があったかを悟るには充分だった。
「えぇ、えぇ、約束通り貴方の事を愛しましょう。ふふふ」
汚れていない方の手で、床に倒れたラグの頭を撫でるヘルミーナのその声は、どこまでも優しかった。よくできました、と子を褒める母のようですらあった。
「愛って……なぁ、おい、でも」
目の前で起きた事に豹の獣人は理解がまだ追い付いていないようでもあった。
けれどもヘルミーナは気にするでもなく、部屋の中が汚れてしまったわね、なんて呟いて。
離れた場所に置いてあった真っ白な布で自分の手についた汚れと、それからラグに飛び散った血を拭っていく。
その手つきはお付きの二人が思っていた以上に優しいものだった。
だからこそ、余計に二人は理解が追い付かなかった。
本当に愛するつもりがあったなら、心臓を抉り出せなど言うはずがないという気持ち。
嘘であったなら、心臓を抉り出した後ヘルミーナがこんな……慈愛に満ちた顔をしているのはおかしい。
騙されるなんて馬鹿な人……と蔑むように吐き捨てれば二人だって理解できた。
だが、死んでしまったラグを見るその表情や血を拭うその動作には、死んでせいせいした、というようなものは見受けられない。
眠ってしまった恋人を仕方のない人ねぇ、とでも言わんばかりに見守っている風ですらある。
愛するなんて嘘、と言われた方がまだマシだった。
だって、そんな事を言う前のヘルミーナの態度は一貫してラグの事など好いているといったようには到底思えなかったし。
倒れたままのラグをヘルミーナは抱え上げようとしたけれど、しかしラグの身体はヘルミーナよりも大きい。死んでしまって多少出血して中身が減ったといっても、微々たるものだ。
ヘルミーナの細腕で持ち上げようとするのは無謀に等しい。
「まずは血抜きしないと駄目かしら」
何てことのないような呟きに、豹の獣人は熊の獣人を見た。彼も全く同じタイミングで豹の獣人を見たので、事前に打ち合わせたかのようにお互いが顔を見合わせる事となる。
「ま……ってくれ、死んだんだぞ? ツガイが。なぁ、なんでそんな」
豹の獣人が理解の及ばないものを見たような顔をする。
「えぇ、死にましたね。それで?」
「それで!?」
ヘルミーナとしては何当たり前の事言ってるんだろう、という気持ちだ。
こちらの世界でも人殺しは犯罪になるけれど、しかしヘルミーナは直接手を下したわけではない。死ぬような指示を出したのは確かだが、絶対に逆らえない状況で彼に命じたわけでもない。彼には断る権利があった。
ラグが死んだのは、自らの選択によるものである。
心臓を握り潰してトドメを刺したのはヘルミーナではあるけれど、そもそも心臓を取り出した時点で助かる可能性などほとんどなかった。
竜人が頑丈だからとて、血管から引きちぎった臓器をそのまま中に入れて何事もなく動くはずもない。
驚異的な再生力があったとして、戻したら血管がある程度くっつくとかでも抉り出す前の状態と比べればかなり衰弱していただろう。
一月。
彼と話をした時間。
ヘルミーナは自分の事を多くは語らなかったけれど、竜人に関してはあれこれと質問をしていたのだ。
ヘルミーナの質問にラグはよく答えた。
彼にこれっぽっちも興味なんて持っていないのに、それでもラグはその事実に気付く事もなくむしろ自分に興味を示してくれたのだと思い込んで、本当にあれこれ竜人に関する知識を与えてくれたのだ。
直接的に殺すには、ヘルミーナには色々と足りない。
竜人の命を屠る事ができる力も武器も、彼女は持ち合わせていなかった。
けれど、その力を持つ者ならばいた。
ラグ本人に死ぬよう差し向ければいい、という考えに至ったのは、そういう意味では当然の流れだったのかもしれない。
生きている時の竜人は頑丈でちょっとやそっとじゃ傷つかないけれど、死んでからなら話は別だ。
普段は身を守るために強化されているらしき皮膚も、簡単にナイフで切る事ができた。
新たに付けられた傷から、赤が流れ出る。
本当だったら、お風呂場とかでやるべきだったかなとヘルミーナは思ったのだけれど、しかし既に心臓を握り潰した時に飛び散った血ですっかり汚れている。今更他の場所に運ぶにしても、そもそも彼の身体はヘルミーナには大きすぎて運ぶだけでも一苦労だ。
だったらもう、ここで済ませるしかなかった。
お付きの二名は、ただただ呆然とその光景を見ていた。
やめろ、とは言わなかった。
生きている時なら止めたかもしれない。けれどもう死んでいる。止めたところでラグが蘇る事はない。
もしかしたら、もう少し先の未来で彼が新たに生まれ変わる事はあるかもしれないけれど、しかし今の時点でそういった事があるはずもない。
慣れた様子でヘルミーナはてきぱきとラグの身体から血を抜いて、そうして汚れた部分を再び綺麗な布で拭っていく。
「……どうする、つもりなんだ」
「どうって? あぁ、防腐処置をして、傷口を綺麗に縫い合わせて、お部屋に飾りますけれど。
これからは、ずっと一緒に」
ふふ、と笑うヘルミーナに、豹獣人の尻尾がびびびと震えた。
だって本当に幸せそうに笑うのだ。ツガイが死んだのに。死なせたのに。
死んだという事実に目を向けなければ、二人だってヘルミーナがラグを愛しているという言葉を素直に信じただろう。けれども、死んでいるのだ。獣人たちからするとツガイの死は悲しむべきものだ。決して喜ぶべきものではない。
悲しみ、慟哭し、果ては発狂し、時として全ての感情を葬り去って無気力にもなるくらいの事なのだ。ツガイの死というものは。
だがヘルミーナは真逆であった。
愛する人と結ばれたのだ、と言われたら誰しもが信じるだろうくらいに蕩けた笑みを浮かべている。
ツガイは死んで、これからの人生で何かを共にする事などないのに。
子どもだって、出来る事もない。
二人に未来はもうないというのに。
どうしてそんな風に幸せそうに笑っているのか、二人にはこれっぽっちも理解できなかったのだ。
あぁ、理解されてないなとヘルミーナはそんな二人を見てあっさりと察した。
けれども別に理解してほしいわけでもない。
ただ、お互いの幸せを考えた結果、恐らくはこれがベストだったに過ぎない。
ラグはかつて折角出会えた運命のツガイから拒絶されている。それ故に、今度こそは愛がほしかった。
ヘルミーナは逆に、こいつと添い遂げるつもりは一切なかった。
受け入れるつもりなど最初からなかったのだ。
けれども、竜人は長い寿命でもってヘルミーナの限られた人生に緩やかにであっても関わろうとしただろう。
一月、話をした時点で脈などありはしないと諦めてくれれば、もしくは最初の時点である程度の期間を定めておいてくれれば。
ヘルミーナだって期間が決まっているならそれに付き合って穏便に終わらせる事も考えた。
だがそうではない。二人の仲は少しずつでも進展しているとラグには思えたのだろう。であれば、ここで諦めるはずもない。
ヘルミーナは何度も望みはないと伝えたのに。
生きているこいつに付きまとわれるのはごめんだった。
黙ってさえいれば顔は良いけれど、それだけで全てを許せるはずもない。
今度の人生もとうに家族は死んで天涯孤独の身の上であろうとも、だからといって彼を家族として迎え入れるつもりなどありはしなかったのだ。
だが彼を殺すにしても方法には限りがあって、取るべき手段も限られている。
どんな手段でも用いる事ができるくらいに自由度が高ければ良かったが、ヘルミーナの力はあまりにもか弱い。
だからこそ、愛を餌にしたのだ。
断ればそこでおしまい。
二度と顔を見せるなと追い払う事ができる。
受け入れて死んでくれるのであれば。
まぁ、その入れ物くらいは当面の間愛でる事を約束してもいい。
そんな、考えであった。
そう、だってツラは良いのだ。
そして以前の出来事のせいで、こいつの人間性……竜人性? ともあれ中身をヘルミーナが好きになる事はない。どころか、関われば関わるだけ嫌いであるという実感が増すばかりだっただろう。
確かに、今回のラグはそれなりに歩み寄りを見せてはいた。
そうしないといけなかったから。そういう風に種族的な法が出来上がってしまったから。
法など知らぬ、と傍若無人に振舞う蛮族であるならいざ知らず、竜人は気高い種族であるとも言われている。であれば、そういった異種族に対しての寛容性を見せなければならなかった。
だが、恐らく中身は前の時とそれほど変わっていなかった、とヘルミーナは思う。それはこの一月の間に交わした言葉の中の、ふとした部分であったり、恐らく本人は何も気にしていない無意識のものであったりだとか。
強者であるが故の傲慢さ、と言ってもいいが、それだけでは片付けられない、異種族であるが故の分かり合えない部分というものが時折透けて見えた。
ヘルミーナの心がラグに好意を抱いていたならば、そういった差異があろうとも、歩み寄ってそんな部分も乗り越えていったかもしれない。
けれども、そういったものはなかった。
好きでもない相手と延々関わって、どうでもいい相手のために時間を消費して、更には譲歩までしなければならない……と考えると、それだけでとんでもないストレスだった。
けれど、その口さえ開かなければ。
生命活動を一切しないのであれば。
そういった芸術品としてならば、愛でられると思ったのだ。
本当は、血まみれのままでも良いと思っている。
けれど、流石にそれは衛生面だとかで問題があるかと思ったために綺麗に拭きとったに過ぎない。
丁寧にそこらについた赤い血を拭い去って、最後にヘルミーナはそっとラグの頬に手を添えた。
「朽ち果てるまで、ずぅっと一緒にいましょうね」
それは、蜂蜜のような甘やかな、けれども同時にとてもどろりとした声だった。




