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婚約「解消」を突きつけられまして

 豪奢に飾り立てられた大広間で、高らかに大臣の声が響き渡る。それはこの国、レーヴ王国第3王子とその婚約者の間に結ばれた婚約を、解消するという内容のものだった。ヒソヒソと静かな声が支配する会場の中で、ぽっかり空いた中心に佇むのは3人の男女。彼らは2対1となるような姿勢で、会場中の視線を集めていた。

 3人の中の唯一の男、ルヴァン・ヴィゼット第3王子は、丁寧な装丁の施された1枚の紙を、向かい合って立っている少女に突き付ける。水色の長い髪を三つ編みに結いた少女は、震える体を叱咤しながらも茫然とその紙を眺めていた。


 彼らの婚約が結ばれたのは、ちょうど10年前。当時5歳だった第3王子、ルヴァンが父に連れられてとある舞台を観た時のことだった。主役を務めた舞台女優に、幼いながらもルヴァンは心を奪われてしまったのだ。しかし終了後の挨拶に出て来た彼女の薬指には銀のリングが輝き、興奮冷めやらぬまま無知に問い掛けた彼に残酷な事実が突きつけられる。そう、女優は既に結婚していたのだ。最速で恋に落ち最速で失恋した王子様は、そのショックが余程堪えたようで、その日以降部屋に篭るようになってしまった。それを憐れんだ父、国王によって、国中に指令が出される。かの舞台女優と同じ水色の髪と蜂蜜色の瞳を持った美しい女性を探せ、との内容で。そして唯一条件に当てはまったのが、現在婚約解消を言い渡されているナタリー・ドミニク子爵令嬢であった。本来なら子爵令嬢が殿下の婚約者になることはないが、ルヴァンがその容姿を写し取った画を見て元気になったことにより、特別に彼女が婚約者として召し上げられることになったのだ。

 かの舞台女優にそっくりな美しい相貌。

 しかし、彼女が持っていたのはこれだけだった。

 何をやらせても平凡を超えることはなく、社交界に出れば声は震え、気の利いたこと1つ言えたことはない。ドレスはいつもルヴァンに贈られているだけあって上質で美しいものだが、それに"着られている"という言葉がぴったりと当てはまる様子だった。古臭い髪型、古臭いメイク。王城から装飾担当のメイドを派遣した方が良いのではないかと揶揄される程には、身につけているものと本人の資質が全く以て釣り合っていなかったのだ。

 いつしか彼女は顔だけの婚約者と噂され、婚約破棄を求める声すら上がり始めた。ナタリーはルヴァンを支えるのに相応しくない、不必要だと。貴族令嬢としては致命的な"婚約破棄"をしても構わない存在だと、世論は告げたのだ。

 更にその状況を後押しするように、ルヴァンの側にある女性の姿が見られるようになった。名をレージュ・コトン。今この会場でルヴァンの隣に佇む、レージュ・コトン伯爵令嬢である。

 ブロンドの髪にチョコレート色の瞳を持った彼女は、いつの間にかルヴァンとの仲を深めていた。隣を歩む様子はまるで恋人のようで、仲睦まじく微笑ましい。レージュは社交界の華と呼ばれるほどに美しく華やかな人物で、話し上手の褒め上手として人気を博していた。くるくると変わる表情も、楽しげに軽やかに踊るステップも、他者を惹きつけてやまない。ルヴァンと話す姿は絵画になると周囲を惚れ惚れさせ、同時にナタリーの不甲斐なさを露呈させたのだった。

 だからこそ、ナタリーの代わりにレージュを、という声が上がったのも無理はなかったのだろう。

 今この瞬間も、レージュはルヴァンに腕を絡め、勝ち誇ったようにナタリーを眺めている。

「ナタリー様、貴方には失望しました。幼い頃から教育を受けて来ても、それらを公の場で活かせないなんて。不甲斐ない貴方に代わり、私がルヴァン様と婚約致します。ねぇ、ルヴァン様…」

 レージュのうっとりとした声が、会場にこんこんと響く。ナタリーは顔を伏せ、大臣の朗々とした語りの終了を待っていた。宣言が終わり、ナタリーは少しだけ顔を上げる。レースの手袋に包まれた手で婚約解消の書類を受け取り、そこへのサインを求められた。会場の端で待機していた執事がペンを手渡してくる。

「承知致しました」

 ナタリーは何一つ恨み言を言わず、撤回を求める声も上げず、ただ差し出された婚約解消の書類にサインした。一度もルヴァンと目を合わせないまま。


 やっぱり、合わない、か───。


「これにて、ルヴァン・ヴィゼット殿下とナタリー・ドミニク子爵令嬢の婚約は、白紙とする」

 高らかな宣言の終了と共に、ゆったりとした音楽が流れ始める。この場は終わりだ。ナタリーはくるりと踵を返して、いつもの定位置に戻るように急ぎ足でその場から離れた。風にふわりと揺れる2つの三つ編みは、誰の視線にも捉えられることのないまま。



 婚約解消を叩きつけられた令嬢に、嘲笑の目が向けられる。花を摘むと称して会場を後にしたナタリーの元へ、にやにやと下卑た顔を浮かべた女達がゆっくりと近寄って来る。その顔ぶれは、いつもレージュと親しくしていた者達だ。怯えた顔をするナタリーを捕食者のように囲い込むと、どこかの伯爵令嬢が高笑いをしながらナタリーの髪を掴む。祝いの場だろうが私的な場だろうが常に変わらず2つの三つ編みに結われた長い髪を、顔の横で千切れそうな程強引に引っ張り上げる。頭皮が引っ張られて、ぶちぶちと音を立てた。

「むさ苦しい髪型。そんな古臭い格好してるから殿下に振られるのよ」

 ナタリーに向けて髪を投げつけると、きゃはは、と甲高い声で嘲り笑った。ナタリーの長い髪を結いていたリボンは解かれ、無造作に腰へと落ちる。

「…」

 震えていたナタリーの顔に、一瞬だけ影が差した。

「声も出ないの?」

「無様ね。殿下の婚約者じゃない貴女なんて無価値だものね」

 姦しく笑い声を上げながら去って行く令嬢達。ナタリーはすっと表情を消して踵を返すと、無造作に落ちた髪を肩越しに払った。結び直すこともせず会場に戻り、自身の父親の元へと向かう。ドミニク子爵は娘の髪が半分解けているのを見て、ぎょっと目を見開いた。

「…どうした」

「私を垢抜けさせたいと申し出るお優しい方々に」

 ナタリーは髪を直す動作すらせず、父に向けてにこりと笑って見せた。その笑みはいつもと同じ地味で素朴な顔なのに、何処か妖しい魅力を感じさせる美しさを内包している。

 それは、いつものナタリーではあり得ないこと。

 その表情の変わりようだけで、父は娘の心情を察した。頭痛を抑えるように眉間を指で押さえた末、呻くように最優先事項について問い掛ける。

「その姿で、()は役に立っているのか」

「もう既にやる気はごっそり持っていかれましたわ。私の応答で察しはついていらっしゃると思いますけれど」

 ナタリーの言葉に、これは頭痛案件だと頭を抱えることしか出来ない。先程婚約破棄を命じられた時にはまだ存在した体の震えはなく、すらすらと遠回しの嫌味を応酬してくる。それは普段のナタリーではあり得ないことだ。壁の華でありながら相槌すらまともに打てない、"偶然にしか愛されなかった子爵令嬢"に、そんな芸当は出来る筈がないのだから。

 変わっていく。

 解けていく。

 ナタリー・ドミニクの本性が、露わになっていく。

 ドミニク子爵はチラリと視界の端で自身の息子でありナタリーの弟であるイーユを見つけると、はぁ、と深い溜息を吐いた。それをきっかけにすぐに姿勢を整えると、ナタリーと視線を合わせることはせず囁く。その隣でナタリーは、いつも丸めていた背中をピンと伸ばして美しく立っていた。

「私はイーユと共に下がる。好きに暴れて良い」

「まぁ。イーユだって私の勇姿が見たいかもしれませんわよ」

「やめてやれ、彼奴は前回のアレがトラウマとなってるんだ」

「あら、仕方のない子」

 "前回の惨事"を知っている者同士でしか伝わらない会話を交わしながら、親子はこれからについて考える。ドミニク子爵は娘の堪忍袋の緒が切れる前にさっさと退散したいところだ、と残りの挨拶回りの計算をしていたが、その思考はすぐ近くのテーブルで上がった大きな笑い声に止められてしまった。

 笑い声の主は、先程ルヴァンの新たなる婚約者となる、と言い渡して来たレージュの父親、ダン・コトン伯爵だ。上機嫌で赤い果実酒入りのグラスを回している。

「しっかし殿下も馬鹿だよなぁ!見た目だけで婚約者を選ぶからこうなるんだ。さっさと破棄でも何でもしておけばここまで醜聞にはならなかっただろうに。おつむの出来が悪いオウジサマは、この私が躾け直してやらなければな!はっはっは!!」

 喧しく、騒がしく笑うコトン伯爵。内容を反芻する必要もなく、ドミニク子爵はまずいと顔面を蒼白に変えた。

「お父様」

 その声は、背筋が凍りそうなほどに冷たい。悟ったドミニク子爵が息を吐くが、ナタリーは気にした様子もなく言葉を続けた。腹の底からゾッとするような、地を這う冷たい声で。

「イーユに更なるトラウマを植え付けたくなければ、今すぐ連れてこの場を離れてくださいませ」

 真っ直ぐにコトン伯爵を見つめる蜂蜜色の瞳。甘ったるい比喩がそのまま当てはまる色とは裏腹に、その瞳は鋭く眇められている。唇は麗しく弧を描いているが、それは見た目だけだと知っていた。ドミニク子爵は残りの挨拶回りをする余裕もないと悟り、再度息を吐いてから娘へと告げた。

「お前が動くと言うなら止めん。…骨まで残すなよ」

 父の激励を受けて、ナタリーは一瞬だけ視線を向けて微笑む。並の男なら落ちるであろう大層美しい笑みは、ナタリーという存在とかけ離れたものだった筈だ。けれどナタリーはそれを使いこなしている。誰よりも視線の集め方と容姿の使い方を熟知している。何が相手の琴線に触れるのか、何が人を惹きつけるのか。全てを理解した上で、彼女はずっと壁の華であり続けたのだ。その理由も、それらを全て取っ払う唯一の理由も知っている父は、はしたないと言われるギリギリまで速度を上げて、自身の息子の元へと寄る。気付いたイーユが目をぱちぱちぱちと3回瞬かせたところで、ドミニク子爵は囁くような低い声で声を掛けた。

「イーユ、今すぐここを出るぞ」

「どうしたの?」

「ナタリーがキレた」

「ひっ…」

 イーユが持っていたグラスを傾けさせ、その勢いのままテーブルへと落とす。幸いグラスは割れなかったが中身は大きく傾いて、真っ白なテーブルクロスにシミを作る寸前だった。青い顔とガチガチと鳴る歯は注意すら超えて「具合が悪いのか」と声を掛けてしまう程に悲惨である。ドミニク子爵は、イーユの怯えように憐れみしか浮かばない。仕方がないのだ。ナタリーの本性を知る者にとって、ナタリーの怒りを示す報告は恐怖でしかない。けれどそんなものを知らない周りの者は、あれがキレたから何なのだと嘲笑っている。

「イーユ、あんなのが怖いのか?」

「どこであろうと弟は姉に勝てないものなんだな。あれでも」

 嘲笑の言葉に、イーユはぶるぶると震え続ける。普段大きく感情を表さない顔面から色が抜け落ちて、蒼白のままに呟いた。

「…らは…」

「あ?」

「お前らは姉さんの怖さを知らないから言えるんだ!馬鹿じゃないのか!?今度は誰だ!何故姉さんの前で殿下の悪口なんて言える!?知らないのか!?あの魔王を呼び起こすことの恐怖が!!前回のあの後で、家で鉢合わせる度に怯えた俺の気持ちを考えてくれ!自室以外ではあのままなんだぞ!?呼び出されて、あの人のテリトリーに入った瞬間の俺の絶望を…っどうしてくれる…っ!」

 目を血走らせながら捲し立てるイーユに、周囲は困惑の表情を浮かべる。イーユが感情を剥き出しにするのも珍しいが、何より魔王だの絶望だの大袈裟な比喩に、普段のナタリーしか知らない者は結び付けることが出来なかった。

「今すぐ出よう、父さん!俺はもうあんな姿を見たくない!」

「あぁ、そのつもりだ。どうせ挨拶も有耶無耶になるさ」

 ドミニク子爵はイーユを連れて挨拶もなしにすぐにその場を離れた。王への挨拶もなしに会場を出るなど貴族の義務の放棄に等しいが、誰もそのことを指摘する暇などなかった。ぽかんとその背を見送る反対側で、パァンと小気味良い音が響き渡る。驚いて振り向けば、その中心には噂をすれば、ナタリー・ドミニク子爵令嬢がいた。

 ダン・コトン伯爵当主の頬を張ったと見られる、ナタリー・ドミニク子爵令嬢がいた。

「…え?」

 騒めきと動揺が場を支配する。けれどナタリーはそんなものに一瞥もくれなかった。誰かの後ろに隠れて注目されるのを恐れる女の姿はどこにもない。注目されることに慣れきった、堂々たる態度だった。


「その下賤な口を閉じなさい、愚図」


 明朗な声が蔑みの音を持って響き渡る。たっぷりと沈黙が場を支配した後、どよめきと共に動揺が広がって行く。彼らの視線は示し合わせる必要もなく1点に集まっていた。コトン伯爵を平手打ちし、傲慢不遜な態度で命令を下した1人の少女だ。緩やかにウェーブを描く髪を半分だけ無造作に下ろし、もう片方はきっちりと結いたあべこべな少女。いつもきっちりと丁寧に編み込まれた2つの長い三つ編みを、これまたきっちりと体の前に下ろして身なりを整えていた彼女は何処にもいない。いつだって、時代遅れで古くさいと言われるような髪型をして、いつも代わり映えのしない最低限のメイクだけが彼女を彩っていた。ドレスだけは婚約者である殿下から贈られていたため最高級品だったが、それ以外と釣り合わずいつも浮いていた。今日だって王太子殿下の瞳の色に合わせて作られた美しいストロベリー色のドレスは、野暮ったい髪型や顔に全く似合っていない。正にドレスに着られていると揶揄され、けれどそんな軽口すら躱せない、凡庸よりも劣った哀れな令嬢。いつだってそれがナタリー・ドミニクの評価だった。どの社交界に出ても壁の華で、まともな応対すら出来なくて、か弱く震える哀れな子羊。王子が一目惚れした女優に似ているから、たったそれだけの理由で婚約者の地位を得た分不相応な女。そう呼ばれ続けた彼女は、いつだって曖昧に笑うだけで何も言い返せなかった。

 言い返せなかった、筈なのだ。

 目の前で堂々と自身より位の高い家の当主を平手打ちした少女は、本来そんなことなど出来ない筈なのに。

 騒めきが支配する中で、視線を集めていることなど気にした様子もなく、ナタリーは己に課していた鎖を剥ぎ取る。しゅるり、とドレスと同じストロベリー色のサテンのリボンが、水色の髪から解けた。

「なっ、何、をっ」

「聞こえなかったの?」

 身長はコトン伯爵より低いのに、こちらが小動物になったかのような威圧感を感じる。腹を空かせた獅子に睨まれた仔うさぎのように、小さく震えることしか許されていないような気がしてくる。哀れ、その視線に射抜かれたコトン伯爵は酒の回った顔を青く染めて、怒りか恐怖か分からない感情に震えていた。

「その薄汚い口を閉じなさい屑。お前がしていいのはそれだけよ」

 人並みにすら振る舞えなかった筈なのに、舞台上の女優のように堂々と、屹然と佇んでいる。今この瞬間この場は全て、彼女のものになっている。彼女のために用意された、ただの舞台でしかないのだ。

「な………っなぁ…………!?」

 ワナワナと指先を震わせて憤慨に顔を染めるが、何故かその体は動かない。平手打ちの衝撃に酔いは醒めた筈なのに、本能が拒否しているかのように体が動かない。弱い者から喰われるこの世界では、本能から強いと認めた者に逆らうことは出来ないのだ。

「お父様!」

 じりじりとナタリーの睨め付けが迫って来る中で、空気の読めない悲鳴がこだました。その主は察しの通り、コトン伯爵の1人娘であるレージュ・コトン。緩く巻かれたブロンドの髪が、桃色のドレスの上で跳ねた。

「酷いわ!婚約破棄されたからって逆恨み!?わたくしのお父様に何てことするの!?」

 懸命に父親を支え、大きなチョコレート色の瞳を潤ませる。その容姿は愛らしく可憐で保護欲を掻き立てるものだったが、目の前にいるナタリーに通じる筈がなかった。

「逆恨み?」

「えぇ、そうよ!貴方、わたくしがルヴァン様と結ばれたのが気に食わないから、わたくしに嫌がらせをしているんでしょう!婚約者としての責務も果たさなかったくせに、今更駄々を捏ねるなんて幼稚な人!」

 レージュは小柄な体を震わせながらも、健気にナタリーを糾弾した。王位継承候補者の婚約者でありながら、社交界では殿下を支えるどころかお荷物となっていたナタリー。その姿をよく知る者達が、小娘1人に呆気に取られていた空気にハッと気が付き、そうだそうだと同意し始めた。騒ぎ始めるホール内に形成逆転を見たコトン伯爵も、皆と共にナタリーを糾弾し始める。

「いつも殿下に頼ってばかり!」

「言葉も上手く話せないの?」

「化粧も髪結いもいっつも古くさくて見窄らしい」

「殿下の隣に相応しくない」

「役立たず」

「どちらが屑よ」

 いつも以上の罵詈雑言。耳にするのも不愉快な言葉の羅列が、ナタリー個人に突き刺さる。こういった場面で庇ったり、場を収めたりする筈の家族もここにはいない。権力は先程婚約解消という形でナタリーから離れてしまった。だからこそナタリーを追い詰める為の言葉は激しさを増し、止まることを知らない。ナタリーが途中で俯いたことにより、誹謗は苛烈を極める。きっと彼らの中で1人の令嬢の心の中なんて慮る必要はないのだろう。どんなに傷付けたって構わない。何故なら我々は正義の元に、悪の根源を断罪しているだけなのだから───。


「つまらないわ」


 一瞬でその場が凍る。顔を上げた彼女の表情は何と言ったか聞き返したくなるほどその言葉とチグハグで、輝かんばかりの麗しい笑顔を浮かべている。あまりにも魅力的な表情なのに、呟かれた声は酷く冷淡だった。

 声を上げていた者達がひゅっと息を呑む。

「ねぇ、貴方達の評価っていつも同じね。他にもっと面白い言葉選びは出来ないの?」

 "子爵家如きが王子の婚約者だなんて"という言葉は聞き飽きた。内気な様子を責め立てる心無い噂を何度も耳にした。社交の様子を嘲笑う中傷もいつだって付き纏っていた。だからこそナタリーはいつも首を傾げていた。どうして誰もそれ以上の情報を調べようとしないのだろうと、"ナタリーが何なのか"を知ろうとしないのかと、いつも不思議だった。

 ───少し調べれば、わかるのに。

「ねぇ、お前。そこの金髪の…確かレージュ・コトンとか言ったかしら」

 ナタリーは顎でレージュのことを指した。先程ホールの中心でナタリーに婚約破棄を言い渡したも同然の女のことを、知らないという風に口を聞く。

「なっ!?わ、わたくしのことを分かっていないの!?」

 これには流石のレージュも動揺し、周囲も唖然とする。婚約者であるルヴァンを奪ったも同然の女に、微塵の興味もないという態度。ナタリーは怪訝そうに首を傾げ、こともなげに言葉を続けた。

「視界に入った羽虫の名前を、わざわざ調べる暇人などいなくてよ」

 ごく自然でごく当たり前のこと。まるで人は呼吸するといった常識を説くかのように、さらりと悪気もなく告げられた。レージュはその言葉にポカンと口を開け、数秒遅れてから顔を真っ赤にした。

「は、羽虫、だなんて…っ!未来の殿下の妃に向かって失礼だとは思わないの!?」

「…? 思わないけど?」

 ナタリーは何を言っているのだコイツは、という心底不思議そうな瞳で返す。煽っても謗っても応えないナタリーに、レージュは苛立ちを露わにした。

「このっ…馬鹿にして…!」

「馬鹿になどしてないわ。それは自分よりも劣った者と見なして貶す行為でしょう?けれど、馬鹿を馬鹿と称したところで、ただの事実の羅列じゃない」

 すかさず返って来る人を食ったような回答に、レージュは目の前がチカチカする程の怒りを感じた。直前までナタリーが受けていた筈の謗りを全て自分に向けられたような、見下した相手から見下されたような、そんな気分だった。

「そんなことはどうでもいいの。お前、さっき婚約者としての責務を果たしていなかったと私に言ったわね」

「い、言ったわよ!それが何!?」

「婚約者の責務って何かしら。具体的に答えなさい」

「は?…そんなの、決まってるじゃない。婚約者を支え、助け、公の場では立て、共に愛を育むことよ」

「ふぅん。それが貴方の言う責務なのね」

「そうよ!それを貴方はして来なかった!貴方ってば何て酷い人なの!?」

「何を根拠にそう言ってるの?」

「何って、勿論、貴方の普段の態度よ!話もまともに出来ない、震えてばかり、社交も碌に出来ない、アンタの普段の態度を見てそう言ってるの!!」

 ぜぇはぁと息を切らしながら、ナタリーを指差して金切り声を上げるレージュ。捲し立てるように返された言葉に「またそれ?」と、ナタリーはうんざりした。

「本当馬鹿の一つ覚え。そんなことばかりしてるから、隣国の情報も入って来ないのね。呆れた。普通緘口令が敷いてあったとしても、人の口に戸は立てられないものなのだから入ってくるでしょうに」

 ナタリーは落胆の文字を隠そうともせず溜め息を吐く。

 その姿を見て震えたのは、遠巻きにホールの中心での出来事を眺めていたトウマ・エヴァシィ辺境伯令息である。彼は青褪めたまま、数年前に隣国で行われた王宮主催のパーティを思い出していた。


『レーヴ王国の第3王子って知ってるか!?』

『見た目で婚約者を選んだ馬鹿だろ!?流石あの国のおぼっちゃま、なーんも知らねぇ我儘王子!』


 あの時もルヴァン殿下を揶揄する言葉を遮るように、見事な平手打ちがクリーンヒットした。その時に彼らを打ったのはナタリーのように地味で物静かな少女ではなかったが、今のナタリーを見ているとその姿が自然と蘇ってくる。何故なら、件の令嬢も長い水色の髪に蜂蜜色の瞳を持った少女だったからだ。苛烈で口は悪く、空気を一変する力を持つ少女。名前は違うけれど、今のナタリーの容姿や口調と、嫌になる程類似している。そっくり、なんて言葉では当てはまらない程に、同じことが繰り返されている。

 だからトウマは、これから起こる惨劇とその結末を、他者より早く想像することが出来てしまった。

「アルソン」

 ナタリーは誰かの名を呼んだ。同年代の友を呼ぶかのような気安い口調で、同位の者でなければ許されない語気で、その名を口にする。

 この場でアルソンと名乗れる者はただ1人。

 レーヴ王国現国王、アルソン・ヴィゼットだけである。

 国王のことを呼び捨てる無礼さに、周囲が俄かに騒がしくなる。しかし決して呼び捨てにされた国王、アルソン・ヴィゼットは咎めない。それどころか沈痛な面持ちをして、何かに怯えるように縮こまるだけだった。

「この国、レーヴ王国は過去5年間の内に何度滅亡の危機に瀕した?何度お前達は殺されそうになった?言いなさい、桁くらい覚えてるでしょう」

 有無を言わせぬナタリーの口調に、アルソン国王は震えながら頷く。ナタリーの質問にもそうだが、貴族達はその答えに大きく動揺した。

「3桁は、軽い」

 王家を狙うなど、起こり得ぬことではあるが泰平の世には珍しい。その危機が臣下に知らされていなかったことも、彼らの動揺の原因となった。更に言えば王家の滅亡はこの国の滅亡を意味する。頭だけがすげ変わるなら滅亡と言うには少々大袈裟な気がするが、ナタリーが指していたのはそういった内容ではない。この国ごと無くなる、その可能性が何度あったかを問い掛けたのだ。

「その理由は」

 ナタリーの鋭い問いに、国王はガタガタと震える。言いたくないと駄々を捏ねるように首を振ったが、ナタリーの目は鋭くなるばかりだ。

「答えなさい、アルソン。お前は何度この国の民を危険に晒した?」

 ナタリーは小さく息を吐くと、動く度に揺れる長い水色の髪を片手で払う。優雅に振る舞う姿は正に、貴人が溜息を吐く程の美しさ。場違いにも関わらず、ほぅと息を吐いた者もいた。いつものナタリーであれば、そんな視線を向けることなんて絶対になかったのに。

「馬鹿げた施策に金を使い、その綻びの修繕を何度も間違え、あわや隣国に支配されるところだったこの国に、誰がした?誰の愚鈍さが、レーヴ王国を滅亡の危機に晒した。答えなさい、アルソン」

 ナタリーの語気が強くなる。動揺が会場中に広がるが、誰も声を上げられない。黙って中央で繰り広げられる国王と子爵令嬢のやり取りを見ている。答えねば終わらぬと悟ったアルソン国王は、震えながらゆっくりと口を開いた。

「我が、ヴィゼット王家。そしてこの私、アルソン・ヴィゼットのしでかした罪だ」

 アルソン国王は、悲痛な面持ちで首を垂れる。国で最も尊い位置に座する者が、恥も外聞もなく罪を認め謝罪する。そんなこと、普通はあってはならない。ましてや自身より地位の低い一介の小娘に言い負かされて、なんて、あってはならないのだ。

 けれど、誰も咎めない。誰も口を挟めない。国王が彼女を許すのならば、ここに彼女を咎められる者など誰1人としていないのだ。

 そして静まり返った会場で、アルソン国王だけがぽつぽつと言葉を紡ぐ。自身の粗雑な国の経営と甘い見通し、そしてそれらが招いた綻びの話だった。今まで平穏無事に、戦争や侵略と無縁に暮らしてきた貴族達の頭を煉瓦で殴るかのように、衝撃的な話が続く。

 レーヴ王国は数年前に、隣国によって侵略される筈だったのだ。

「けれど我が秘書が、隣国との調書をまとめ全てを防いでくれた」

 アルソン国王の言葉に、ナタリーが眉を顰めて頬をピクリと痙攣させる。

 レーヴ王国の国王秘書は、大層有名な人だ。書類に不備など見つかったことはなく、仕事も早く有能。けれど決して王城で姿を見掛けることはない、幻の存在とまで噂されている。名前はサインで確認したことのある者も多い為知れ渡っているが、それ以上の情報は誰も掴めなかった。

 そんな極秘情報の蓋が、今放たれようとしている。民衆の興味はそちらに向き、英雄を讃えるかのように視線が輝く。

「我らは彼の者に守られたのだ。地位も名誉も、安心すらも。彼の者の、名は──」

「黙りなさいアルソン」

 その中で、ドスの利いた低い声が話を遮った。

「お前に、それ以上口を開く資格を与えた覚えはなくてよ」

 まるで嫌な話を聞きたくないと遮るかのように、ナタリーは睨みで国王の口を閉ざす。そわそわとしていた民衆は明らかに落ち込み、けれどナタリーを伺うようにしている。いつも哀れに震えていた小羊に対し、近付く者全てを喰い殺す獰猛な狼でも見るかのように。

 けれどその中で1人だけ、唯一楽しそうにそれらを眺めていた者がいた。彼は心底楽しそうに笑いながらホール内へ足を踏み入れると、その姿に気付いた者達の視線を奪って前へ進み出る。たった今会場に足を踏み入れたらしい黒髪の青年は、翠色の瞳を好奇に瞬かせて相好を崩した。見目麗しいその姿に、女性だけでなく男性までもがハッと息を呑む。麗しの容姿に呆気に取られていたが、彼の正体に気付くとすぐに跪いて礼を執った。


「──ヤーファ・グラトーニ」


 アルソン国王の紡がれなかった言葉を汲み取るかのように、凛とした声がホールに響く。白の礼服に身を包んだ貴人が現れ、会場内でほとんどの者が息を呑んだ。彼は紛うことなき隣国の第一皇位継承者、イディア・プレジールであったために。

 ナタリーはチッ、と小さく舌打ちをする。

「そうではありませんか、ヴィゼット国王」

 優しく微笑みながら問い掛けられ、アルソン国王は顔面を蒼白にしながらこくこくと頷いた。その反応を見越していたのか、イディアはにこっと笑い掛けたところで顎に手を当て、芝居がかった動作で首を傾げた。

「おや、そういえばその名前は我がジョワ帝国の、かつての国母と全く同じ名前ですね」

 イディアは視線をつぅ…と滑らせて、何かを見つけるとそこに向けてにこりと笑みを浮かべた。視線の先にいた青年はビクリと肩を震わせ、カラカラに乾いた口を酸欠の魚のように開閉し続けている。

「そういえば数年前、我が国、この国からすれば隣国で()()()を平手打ちした令嬢も同じ名前を名乗っていましたね。ねぇ、エヴァシィ辺境伯とその息子ならご存知でしょう?」

 イディアの翠色の瞳が楽しげに揺れる。エヴァシィ辺境伯は逃げられないと察して、緊張に震える喉を無理やり動かした。

「えぇ、存じ上げております」

「では何故、隣国のかつての国母と同性同名の方が、こちらで秘書をやっているのだと思いますか?」

 イディアは甚振るように問い掛ける。一つの答えを出せて安心していたエヴァシィ辺境伯は、また沈痛な面持ちをして静かに口を開いた。

「浅慮な私には、分かりかねます」

「では貴方は?どうしてだと思いますか?」

 イディアは一番前で鑑賞している観客にも問い掛けた。言葉を交わすのも恐れ多いと怯える彼らと真っ直ぐ目を合わせ、意見を表明させる。わからないや偶然など、ありきたりな回答ばかりが耳に届く。

「ふぅむ、確かにこれではナタリーが退屈そうにする筈ですね。面白みのかけらもない。では質問を変えましょう」

 イディアはくるりとその場で回り、甘やかな顔を更に優しく蕩けさせ、観衆を見つめた。ほぅ、と息が漏れるのを眺めながら、新たな問いを投げ掛ける。

「では何故、我が弟は彼女に平手打ちされたのだと思いますか?」

 コトン伯爵が平手打ちされる現場を見た彼らは、咄嗟にそのことを思い出して話し合う。アルソン国王が追い詰められた現場も、似たような理由と考えて良いかもしれない。騒めきの中から出て来た答えは、彼女の逆鱗に触れたのだろうという推測だった。何が、までは分からないが。双方共に"レーヴ王国第3王子の悪口を言った"という共通点はあるけれど、それに怒る理由が見つからない。

「えぇ、えぇ、きっとそうでしょうね。彼女の平手はいつも痛烈で痛快で。かくいう私も食らったことがあるのですが、またそれが痛くて…」

 長々と話し出そうとしたイディアに、舌打ちの遮りが入る。苛立ちを隠そうともしない令嬢に気付いたイディアは、にこりと笑ってホールの中心へと躍り出た。ナタリーのすぐ近くで止まると、優雅に挨拶をして見せる。

「これは大変失礼致しました。ご機嫌よう、ヤーファ・グラトーニ様、いいえ、ナタリー・ドミニク様」

「この顔が機嫌良く見えるのなら、今すぐ医者に行った方が良いわよ、イディア。相変わらず芝居じみた挨拶ね」

「ふふっ、たまには良いだろう?」

 隣国の皇太子にも怯まず崩した口調のまま話し続けるナタリー。けれどそれ以上の衝撃が、観衆を襲った。ナタリーがこの国の国王秘書と同名で呼ばれたのだ。そして、ナタリーもそれを否定しなかった。暗に、同一人物だと告げたのだ。誰よりも優秀で誰よりもこの国の為に働く正体不明の秘書の正体が、白日の元に晒された。社交の仕事一つ出来ない役立たずだと揶揄された、子爵令嬢という正体が。貴族達が震え上がるが、イディアは楽しそうなままだ。

「しかし珍しいね、君が本性を晒すだなんて」

「鎖を解かれたんだもの。仕方ないでしょう」

 ナタリーは自身の長い髪を指先で回し、弄ぶ。その仕草に先程ナタリーの髪を乱暴に扱った令嬢達がヒッと声にならない悲鳴を上げた。イディアは楽しそうに視線を動かすと、演説をするかのように堂々と真ん中で悪戯っぽく笑った。それに嘆息したナタリーは、とりあえず聞きたいことを口にする。

「というか何しに来たの。アンタはここに顔出す必要なかったでしょ」

「いやいや、大事な()()()()の危機だと聞いたんだ。来るに決まってるだろう?」

 こともなげに呟かれた言葉に、その場にいた人物は全員耳を疑った。ナタリーとイディアの血縁関係を仄めかす発言。ナタリーが隣国の王家の血筋であるという意味。今日何度目になるか分からないざわめきの中で、ナタリーは余計なことを言いやがって、と言いたげに顔を歪める。

「懐かしいね、昔から君は手厳しくて。この国じゃ何をしようとも後ろ指さされて批判されるから鬱陶しいと僕の国に来ては、情勢を学んで自国の欠点を見つけ、改善のために奮闘していた」

「…」

 イディアは目を細めて、ナタリーについて述べていく。

「君はお祖父様から聞いていたんだろう?この国の脆く儚い馬鹿げた政策の数々を。それを心配した前国王が、自身の兄弟をこちらの国に送り込んだ。まるでスパイのようだけど、歴史的観点から顧みるに、ここと他国との貿易が崩れることは我がジョワ帝国にも悪影響を及ぼしそうだったからね」

「…えぇ、聞いていたわ。だから何?」

「君はこの国の愚かさを知っていた。そして我が国も。だからこそ先代国王は監視の意味も込めて、身分を伏せた王弟を送り込んだ。弱き立場を知るために、同じように危機を察知していた子爵からその身分を借りて。けれど、この国で弱き者がどう扱われているかを理解することは出来ても、子爵という立場では改善する力は得られなかった。得ようにも、改善する土台がなかったんだ。もうどうすることも出来ないと考えた現国王は、この国を傘下に置くことで国の均衡を守ろうとしたのだけれど、君はそれを選びたがらなかった。まぁ、そんなことをしたら戦争になるだろうしね。そんな時に舞い込んで来たのが第3王子の婚約者という立場だ。君が飛び付かないわけがない」

「何が言いたいの?」

 イディアはナタリーの問いを無視して、儚げに微笑んでみせる。その笑みには何処か迫力があり、ナタリーですら気圧されそうだった。

「けれどその選考基準がもう既に愚かだった。好きな人に似た容姿だからと選ばれるのは、僕だって嫌だけどね。許せなかった君は、利用しなければならないと分かっていながら初対面の彼を罵倒したんだってね」

「したわね。懐かしいわ」

 間髪を容れずに肯定が返って来て、イディアは苦笑する。その言葉の意味に気付いた貴族達がぎょっとするが、どちらも訂正は入れない。ナタリーとルヴァン第3王子の婚約という始まりの話は、いつだってサクッとその顛末を語られて終わるだけだ。その中で何が起きたのかを知る者などほとんどいない。

 ナタリーが国王とルヴァンを叱責した話など、当事者以外誰も知らないのだ。

「まぁつまり、第3王子は君の本性を最初から知っていたわけだ。それでも今まで婚約を解消しなかったのは、君自身の働きもあれば彼の意思でもあるんじゃないかな」

「…イディア、結論を先に言って。アンタのことだから大体察しが付くけど」

「忙しないね、プリンセス。彼の気持ちを理解しているか確認したかっただけだよ」

 イディアはそう言って微笑むと、ナタリーの目の前に跪いた。白雪のような細く美しい手を取ると、流れるような仕草でそのまま手の甲へ口付ける。見惚れていた女性達は美しい所作にため息を吐くと同時に、相手が自分でないことに悔しさを噛み締めた。

「まぁそれを前提に、僕は君に結婚を申し込みたい」

「お断りよ」

 ナタリーは掴まれていた手をぺちんと払う。その呆れ顔と返答に、プロポーズしたこと自体に驚いた民衆は皆、二度驚きを表した。

「まだ言ってるの、それ?」

「君ほど優秀で僕を支えてくれそうな人が見つからなくてね」

「私が後方支援に回ると思ってるなら、やっぱり医者に見せたほうが良いわよ」

「ふふっ、手厳しい」

 直前にプロポーズをし、それを断ったとは思えぬ和やかな雰囲気に、観衆は皆戸惑いを隠せない。誰も彼もがどよめいて、ヒソヒソと状況を整理している。


 そこにゆらりと現れる、一つの影。


「な、た、り、いぃ……っ」

 ストロベリーブロンドの髪がふわりと揺れる。ナタリーの背後に立った精悍な顔つきの少年は、真正面にいるイディアを恨みがましく睨み付けながら、先程口付けられた方のナタリーの手を掴んだ。涙目になりながら怒り顔を表しているのは、この国の第3王子でありつい先程時の人となった、ルヴァン・ヴィゼットである。

「何してるんだ!?彼女は俺の婚約者だぞ!?」

「元だろう?」

「元ね」

「そうだが!!そうなんだがな!?!?」

「じゃあ僕が彼女に結婚を申し込んでも君には何の関係もないじゃないか。君は婚約解消を申し出た側なんだろう?」

「違…っ俺じゃな………っ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()!!!」

 ルヴァンのその言葉に、周囲の貴族達は目をぱちくりと瞬く。イディアは「ほう」と目を丸く見開いて楽しそうに笑い、ナタリーは眉を諫めてルヴァンに呆れ顔を向けた。

「それならどうして婚約破棄の書類にサインしたんだい?」

「してない!婚約破棄じゃなくて婚約解消だ!しかも言い出したのは俺じゃない!ナタリーだ!!」

 ルヴァンがあっさりと明かした真実に、イディアもぱちくりと目を瞬く。ナタリーは最悪、とでも言いたげな顔で目を逸らしていた。

「国王づてで渡された俺の気持ちを考えろ!王命でサインしろなんて言われたら、食い下がることすら許されないんだぞ!?」

「なら先程の騒動中に声を上げれば良かったのでは?」

「出来るならそうしたかったよ!!」

「では何故?」

 イディアが問い掛けると、ルヴァンはうぐっと黙り込んだ。視線は泳ぎ、手はもぞもぞと忙しなく動いている。そのあからさまな動揺に、イディアは面白いものを見つけたかのように目を細めニヤリと笑った。

「あの時にナタリーと別れたくない、考え直してくれと叫べば、ナタリーもサインを躊躇ってくれたのでは?」

「そんなわけ…っそれこそナタリーに嫌われる!」

「何故?」

「だってあの時一言でも喋ったら………あっ」

 ルヴァンは口が滑ったと顔を青くして口を押さえるが、イディアはそれを見逃さない。

「喋ったら?」

「しゃ、喋った…ら…」

「どうなるのです?」

 イディアのじりじりとした詰め方に、逃げ場がないと悟ったルヴァンは勢い任せに叫んだ。

「喋ったら、ナタリーからご褒美がもらえない!!!!!」

 シン、と静まり返る会場。イディアはなるほど、といった様子でにこにこと場を静観している。

「ルヴァン様はナタリー様に言われて黙っていたのですね。言うことが聞けたらご褒美をあげると言われて、それに乗ったと」

「う、ぐ…そ、そうだ」

「そして実際に喋らなかった。喋ったら怒られるどころでは済まないこともわかっていたので黙っていた。お陰で婚約解消になりましたけど、それはご褒美に影響しないので?」

「え?」

 ルヴァンはイディアの言葉にハッと考え込んで、しばらくしてぷるぷると震え始めた。それを眺めていたナタリーは、嫌な予感から逃げるように距離を置こうとしたが、掴まれた手は未だ離れていない。するりと抜け出そうとした手は再度力を入れられた手によって叶わず、考えのまとまったらしいルヴァンの呼び声に止まらざるを得なかった。

「ナタリー!な、え、おまっ、え、やくっ、約束…っ!あの場で何も発言しなかったら久しぶりに2人でお茶してくれるって……え、あれ、婚約者じゃない女性と2人きりは、許されな……えっ、あれ、ナタリー、ナタリー!お前あれ全部わかっててやったな!?」

 ルヴァンが顔色を悪くしながら訴えると、ナタリーは「バレたか」と悪びれもせずに呟く。

 そう、この計画は全てナタリーの掌の上。レージュと揃ってナタリーに婚約破棄を言い渡すことも、実際ルヴァンとナタリーが婚約を解消することも、ナタリーの計画の内だった。イディアが来たことや、ナタリーが本性を表すことは予定外だったが、些末事である。計画への影響は特にない。ナタリーの目的は、これから達成されるのだから。

 ナタリーはイディアに向けていたような粗雑な態度を改め、髪を軽く指先で梳いて整えると、そのままルヴァンを見つめた。蜂蜜色の瞳が髪色と同じ美しい水色の睫毛に縁取られ、キラキラと瞬いている。その甘えるような視線の向け方と、艶やかさを纏った柔らかい笑み。まるで天女が降りて来たかのような美しさに、その場にいる者は全てを許してしまいそうな気分に襲われた。

「そうですよ。私はこれで貴方の婚約者を降ろされることになるので、きっと約束は果たせないだろうなぁと思っていました」

「詐欺じゃないか!!!」

「予想だけで捕まるのなら、この世はきっと犯罪者だらけですね」

「ぐぅっ…」

 口喧嘩では絶対に勝てない。素直なルヴァンは口を噤み、ナタリーをじっと見つめている。その美貌に弱い自負はあるが、誰よりも耐性があるのもルヴァンなのだ。親族であるイディアは除いて。

「実際そうなったわけだが、ナタリーはそれで良いのか」

「はい?」

「まぁそうか。そうだろうな。今回の件で国王秘書を務めていることが露見したわけだし、君がいなくなったら国の仕事は回らないからきっと今後も立場は保証される。それどころか格上げだろう。失ったのは俺の婚約者という立場、それだけだ」

 その価値は、多くの女性にとってはこの国で5本指に必ず入るほどに欲しいものである。権力だけでなく見目麗しい夫までついてくるのだから、足蹴にする理由がない。けれど目の前の、たった1人の女性だけは違う。権力は既に持っているし、この出来事で伴侶など選びたい放題になった。更に言えば、イディアが欲しがっているという件も露呈し、有能さは国外にも知れ渡ると考えて差し支えないだろう。いくらでも選択肢のある中で、小国の、しかも自分を無理やり婚約者にした男なんて選ぶ筈がない。

 けれど。

「君にはたくさんの選択肢がある。分かっている。けれど」

 だからと言って、長年恋い焦がれて来た好きな人を諦める理由にはならない。


「俺は君と共に歩みたい!」


 ルヴァンの声に、会場がシンと静まり返った。熱烈な愛の告白に、頬を染めた若者や眩しいものを見る様子の人々が、中心で繰り広げられるそれに視線を注いでいる。

「俺は本当に馬鹿なことをしたと分かっている。君のことを見もせず、知りもせず、愚かで幼稚な恋心を昇華させるために君の将来を奪ったんだ。けれどあの日、君に初めて怒られたあの時から、俺はずっと君のことが好きなんだ!」

「知ってるけど」

「わかってるよ!釣り合わないことくら…っえ?」

「知ってるわよ、お前が私のことを好きなことくらい」

「…っそ、れは分かってても言わないものじゃ…いや、まぁ、うん。そう、そうだろうな」

 婚約を結んだあの日、ルヴァンを叱責したあの日から、ルヴァンは変わった。我儘放題甘え放題だった己を見直し、4歳年上の婚約者に釣り合うようになるため、努力を重ねた。今や、第3王子という立場でありながら、次期国王に選ばれるのではと噂される程に。

「…はぁ」

 ナタリーは大きく息を吐いた。その肩が少しだけ震えていることに、イディアだけが気付いた。

「き、気を取り直して、えっと、」

「…今回の件はね、コトン伯爵を押し上げた黒幕(バカ)がいるのよ」

「え?あ、お、おぅ」

 急にナタリーが話し始めたため、ルヴァンは勢いを削がれてとりあえず相槌を打つ。ナタリーは深く息を吐いて、目的について話し出した。

「自分のところにちょうど良い年齢の娘がいないから、扱いやすい駒を利用して自分が利益を貪ろうっていう馬鹿がね。今回のは、その馬鹿を炙り出すための策。実際今、このパーティ中に憲兵が摘発してる筈で───」

「報告します!」

 騎士団副団長が慌ただしく入って来る。彼は敬礼をすると、有力貴族である公爵家の裏切りと犯罪の数々を訴える証拠を押収したと話し出した。その中には第3王子暗殺計画も含まれており、親類の処刑も免れられない状態となっている。家は当然取り潰し。同時に現れた騎士団が、騒めく貴族達の中から素早く当事者を確保して、騒ぎ立てる他の貴族達を宥める。

 ナタリーが婚約解消を求めたのは、これが理由だった。第3王子、つまりルヴァンの暗殺を考えた愚か者共を一掃するための茶番。知っていたのはナタリーと国王を含めたほんの一握りだけ。ナタリーの本性を知っていた者とほとんど同じ、ほんの一部だけだった。

 騒がしくなったパーティ会場は、彼らの協力者が他にもいないか事情聴取を始めるといって、強制終了になってしまった。新たな門出を祝う筈の卒業パーティは、いつの間にか歴史的大事件の一部となってしまったのだ。目をぱちくりと瞬かせて驚いているルヴァンは、貴族が次々と聴取に向かうのを呆然と眺めていた。そして貴族達の視線が自分達から外れたのを見計らって、ナタリーは小さく呟く。

「だから、良いわよ」

「え?」

「婚約解消を一方的に突きつけたのは悪かったわ。でも全部、これのため」

 ナタリーは、後はわかるわよね?と言いたげに片目を閉じてルヴァンに視線を流した。察したルヴァンはみるみるうちに顔を明るくして、ナタリーの前に跪いて指先にキスをした。慌ただしく走り回り叫び回る人々は、そんな2人に目もくれない。


「ナタリー・ドミニク様」


 ルヴァンの真剣な声が、ナタリーの名を呼ぶ。騒がしい会場内において、その声はナタリーの耳にはっきりと届いた。


「レーヴ王国第3王子、不肖ルヴァン・ヴィゼット。これからの生涯をかけて貴方を幸せにすると誓います。全てを最初からやり直す機会を、この私めに与えてくださいませんか」


 苺が熟したかのように赤い潤んだ瞳が、ナタリーを見つめる。一度手にしたら全てを投げ打ってしまいそうな甘い瞳。酸いも甘いも共に乗り越えたくなるような視線。そんな艶やかな双眸で、ナタリーを懇願する。

「愛している、ナタリー。私と、結婚してください」

「…まぁ、及第点ね」

 ナタリーはきゅっと、指先で掴まれている手を握り返した。それはこの国で伝わるプロポーズの返事。受諾を示す、肯定の返事であった。

 返された言葉と絡められた指に、ルヴァンはゆっくりと目を見開き、そして最高の笑顔を浮かべた。

「ありがとうナタリー!愛している!必ず好きにさせる!待っててくれ、俺は必ず君に見合う男になって、君をメロメロにさせてやる!」

「はいはい、頑張って」

 ナタリーは適当にあしらう。するとルヴァンは急に立ち上がり、「そうと決まれば婚約解消の解消に向かうぞ!」と叫んでナタリーの手を引っ張った。

「え、ちょっ、待ちなさい!」

「父上!俺はナタリーと結婚します!」

「わかった、わかったから止まりなさい!」

「…おやおや」

 ルヴァンに連れ去られていくナタリーを見ながら、未だ動かずにいた唯一の観客であるイディアがクスッと笑う。



「耳だけは、相変わらず素直だね」



 イディアの視線の先には、苺も真っ青な程に赤く染まったナタリーの耳が、本心を晒すように仄かな熱を灯していた。

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