【三〇】聞くに堪えないから一顧だにしない
夏休みのすこし前になると、どこからかシイナのよくない風聞を耳にするようになった。
父親がいない、とか私生児だ、とか母親が水商売だ、とか。
だったらなんだというたぐいのものばかりだが、中でもひどいのが、シイナの体質は親が性感染症になったからという根も葉もないものだった。
進学クラスにいるうちはそんなこともなかったが、普通科の教室を歩くとひどい野次をうけた。
「前は男だった」
「母親は病気」
「さわったらうつる」
こんな内容を下品な単語で色づけしたものだ。
これがサイコなら、低脳め、の一言で終わらせただろう。
だがカンヂだと冷静ではいられない。
「お前らはまちがってる。シイナの体質は病気によるものじゃない。いいかげんなことをいうな」
「カンヂ。いいよ。いわせとけば」
シイナのほうが止めにはいる始末。
まったく立場が逆転してる。
聞くにたえない言葉をはくやつらは、水泳部の練習中もあらわれた。
金網のむこうから嘲罵をあびせる、見さげ果てたやつらだった。
嫌気がさした水泳部員が何人も辞めるという事態にまで発展した。
辞めた中にはシイナと同じ水には浸かれないなどと、正気をうたがう発言をする者までいた。
それでも水泳部はシイナを辞めさせなかった。
ここで辞めさせたら言われない中傷に屈することになると。
口ぎたなくののしったうちの何人かが指導処分を受けたが、カンヂにはとうてい妥当とは思えなかった。
シイナはそれらの雑音をだまってこらえた。
相手すれば負けだ。
だからいつもどおりの生活をし、いつもどおり授業をうけた。
夏休みにはいり、さわぎがいったん静まって、ようやくカンヂもシイナもほっとできた。
夏休み期間、シイナは水泳部の活動に精をだし、カンヂは美術部の作品制作に没頭した。
カンヂはイサナと合作で、エッシャーの大作を模写することに決めた。
「よお」
シイナが美術室に顔を見せる。
ジャージにTシャツ。
ぬれた髪を後ろになでつけ、カルキのにおいをふりまいている。
「おう。先に食べてるぞ」
カンヂが箸を持ちあげて答えた。
「なんだよ俺くるまでまてよ。冷たいやつなー」
「お前がおそすぎるんだ。三十分まった。午後からまた製作に取りかかる。これ以上はまてない」
「それでもお前、待つのが人情だろうよ、俺だっておそくなりたくてなったんじゃねえや」
泳ぎこみがどうのこうのとこぼし、カンヂのわきに席を取ってカンヂのカバンから弁当箱を取りだす。
「本当にそれで足りるのか?」
「お前と一緒にすんなっつの、だから。女はそんなに食えねーの」
そのやりとりを見ていたイサナが、口の中に物を入れたまま言葉をはさむ。
「二人って本当に仲いいよねー、いつごろからつきあってるんだったっけー?」
「つきあってないですって」
「つきあってません」
「ええー、うっそだあー」
イサナがカラカラと笑う。
「まじっすよ。やめてくださいよこんなの、あるわけないじゃないですか。イサナ先輩ジョーダンきついす」
「こんなのとは、シイナお前、口がすぎるんじゃないか」
シイナの言いようにカンヂが全く心外だという顔でキンピラをゴリゴリかみつぶす。
「まったまたあー、そんなんでごまかされんよー?」
「やーまじっす。カンヂじゃ俺の相手にはなんないって」
「ええー? あらー。実吉くんお気の毒ー」
ケラケラと二人が笑う。
ここんとこ、イサナとシイナがずいぶん仲よろしい。
二人がしゃべりだすとカンヂは疎外感をおぼえた。
名づけようのない感情が、心にシミを広げる。
「イサナ先輩、あのでっかい紙、全部つかうんすか?」
カンヂにきけばいいものを、シイナはわざわざイサナにきく。
割りこみたい衝動にかられるがぐっとガマン。
これがシイナの心のケアになるかもしれない。
「そうなのー。いま実質美術部二人しかいないからー、なんとかみんなをビックリさせなきゃーって、ねー、カンヂ君」
「そんなん言って、またあのキモい絵とかっしょ? 水がずーっと流れたり落ちたり、階段ずーっとあがったりおりたり」
シイナが言ってるのはエッシャーでも“不可能な建物”と呼ばれる作品群だ。
目の錯覚を利用しただまし絵。
教科書でも見かける有名なやつ。
「そんなじゃないよー、あれはあれで好きだけどー、私たちがやるのはー、もっとすごいやつ。ねー、カンヂ君」
イサナがカンヂに笑いかける。
「ちぇー、なんだよ仲間はずれかよー」
「はいはいやかないやかない。遊びにきたらー、教えてあっげるよーん」
カンヂはシイナに教えたくなかった。
この仕事はイサナと自分だけのものにしておきたかった。
その日は簡単なレイアウトだけを決め、本格的な仕事は次の日にもちこしにした。
いつものとおり実吉家で食事し、カンヂはシイナを家まで送った
「お久しぶり。カンヂ君ね?」
マンションを出たところで呼びとめられる。
シイナの母親だった。




