第5話 夏の太陽
それから5日後――――
僕とエリカは、また喫茶アフリカにいた。
いつもの一番奥にあるボックス席に陣取って、向かい合って座る。
カウンターには寡黙なマスターがカップを拭いていて、店の中はコーヒーの香りと静かなジャズの音楽が漂っていた。
客は僕らだけだ。この喫茶店の経営は大丈夫なのだろうか。いらぬ心配をしてしまう。
「うぇぇー!」
目の前のエリカは、ブラックコーヒーに苦戦していた。素直にミルクと砂糖を入れればいいのに。彼女はブラックで飲むことに固執している。
「なあ? エリカ」
「ん? 何だ?」
僕は、さりげない様子でエリカに尋ねた。
「エリカはさ、何でゴリラみたいになりたい訳?」
さりげない雰囲気を装っているが、精一杯の勇気をふりしぼって聞いた。
この質問は、ずっと前から聞きたかったことだけど。なかなか聞く勇気が持てなかった。
「ゴリラみたいにじゃなくて。俺はゴリラそのものになりたいんだよ」
エリカは、そう言った後しばらく黙り込む。
聞き方が悪かったのだろうか。気まずい沈黙が訪れた。
しかし、エリカの方から沈黙を破るように口を開いた。
「あの日、トオル。お前に初めて動物園に連れて行ってもらった日だ。俺は本物のゴリラを初めて見た……」
いつになく真剣な表情のエリカ。僕は、黙って話に耳を傾ける。
「衝撃を受けたんだよ。何て言うかさー。本物のゴリラは自由だったんだ。俺もこんな風になりたいって、そう思ったんだよ」
動物園のゴリラが自由? 檻に閉じ込められているのに?
そう思ったが、口には出さなかった。それは本質的な問題であって、彼女がゴリラを見て感じたこととは別問題だ。
「俺は、小さい頃から親に行儀よくしろってしつけられてきた。ピアノやバレエなんか習わされてさ。必死で『いい子』を演じてきたんだ……」
確かに、以前の彼女は清楚なお嬢様という感じだった。
エリカは、ブラックコーヒーに口をつけると苦い顔をした。そして、話を続ける。
「でも、本物のゴリラを見て思ったんだ。俺も自由に生きていいんだって。好きなように生きていいんだって」
「そうか……」
知らなかった。彼女に今までそんな悩みがあったなんて。そこまで抑圧された感情があったなんて。
でも少し嬉しくもなった。
今の彼女の奇異な行動はともかく。僕が動物園に彼女を連れて行ったことが、彼女が変わるきっかけになったことが。
エリカは今、誰よりも自分らしく生きようとしているんだ。ならば、それを見守ってあげたい。
「なんか話してたら眠くなってきたぜ。ちょっと寝るわ」
エリカは、僕がいるにも関わらずテーブルに突っ伏して寝始めた。
「仕方ないな……」
起こす気にはならない。それより、今日はエリカの本音が聞けた気がして、その嬉しさの方が勝った。
僕は、アイスコーヒーをひと口飲んでぼんやりと外を眺める。
「僕だって、自由に生きれるならそうしたいよ……」
窓の外には、スーツを着たサラリーマンの姿がある。炎天下の中、汗を垂らして歩いている。
自由に生きたいと思っているのは、僕やエリカだけじゃない。誰だってそうだ。
学校に行って、会社に勤めて。誰もが決められたような人生を生きている。
もちろん、そういう生き方も立派だと思うけど。自分らしく自由に生きているかって言われれば、そうとは言い難い。
ある意味、エリカは幸せなのかもしれない。
ゴリラになりたいと言い出してから、学校にも行かないし、寝たい時に寝る。それは、どうかと心配にもなる時はあるが。
彼女は、自分の生き方を見つけたのだ。それが、たまたまゴリラだっただけで。
誰もが自分らしい生き方を見つけられる訳じゃない。僕だってまだ見つけられていない。
「うーん。むにゃむにゃ……」
エリカのしまりのない寝顔を眺める。少しだけ、彼女のことをうらやましいと感じた。
☆ ☆ ☆
次の日――――
「ほら! 急げ、トオル! ゴリラが待ってるぜ!」
エリカが僕を急かす。
夏休みも中盤、暑さの厳しい中。徒歩で隣町の動物園へと向かう。
「待てよ! エリカ。ゴリラは逃げたりしないからさ」
汗を流しながら、先を歩くエリカに声をかける。
「馬鹿野郎ッ! ゴリラに会える時間は有限なんだぞ! こうしてる間に、ゴリラに会える時間が一秒一秒過ぎていくんだよ! そんなことも分からないのかッ!?」
「この暑さでどうしてそんなに元気なんだ?」
ゴリラに会いに行く時のエリカは、本当に生き生きとしている。散歩する前の犬みたいだ。
「だいたい、そんなにゴリラと会う時間が大事なら、電車を使えば早く行けるのに……」
「馬鹿野郎ッ! トオル! 前も言ったろ。ゴリラは電車には乗らない!」
ぼやく僕を叱りつけるようにエリカは言った。
実際のゴリラは、電車に乗らないのではなく。乗り方を知らないだけだ。知ってたら、ゴリラだって電車に乗るだろうよ。
そう思いたくなるほどの真夏の日差しの中。黙ってエリカの背中を追いかける。
一秒一秒過ぎていくのは、ゴリラに会える時間だけじゃない。
こうして、エリカと過ごせる時間も一秒一秒過ぎていくのだ。
そう思うと、なぜか胸がキュッと締めつけられるような気がした。
「ほら! 早く来いよ! トオル!」
彼女の金髪ショートカットの髪が、真夏の日差しのように眩しかった。