第1話 ゴリラに恋をした少女
その日、少女は1匹のゴリラに恋をした――――
7月初旬のある日。太陽が眩しく照りつける夏の日。待ちに待った初デート日でもあった。
僕、東山トオルは、意を決して彼女をデートに誘った。
彼女の名前は、西野エリカ。同じ中学に通う幼馴染だ。
エリカは、綺麗な黒髪のロングの清楚な美少女だ。透き通るような白い肌。白い帽子と白いワンピースが良く似合う。
僕たちがやって来たのは、1駅離れた隣町の動物園だった。中学生のデートとしては、無難な場所だと思う。決めたのは僕だ。
「ふふふ。私、動物園に来たの初めてなの。だから、すごい楽しみ!」
エリカは、さわやかな笑顔を見せた。その笑顔で暑さなんて吹っ飛んでしまう。僕は、心の中でガッツポーズを決めた。(よっしゃ!)
ゲートをくぐると、最初に猿山が見える。ここには、ニホンザルが多数いた。
夏の暑さのせいか、猿たちは日陰に陣取ってあまり動かない。しかし……
「見て見て! トオル君! あの小さいお猿。赤ちゃんかな? 可愛い!」
エリカは、嬉しそうにはしゃいでいる。入口の猿山でこんなに喜んでもらえるとは思わなかった。今日は、最高のデートになりそうだ。
しかし、そう思えたのは、最初の30分だけだった……
ある動物がいる檻の前に来た時、エリカの動きが止まった。
ゴリラの檻の前だ。檻の中にいるのは、ニシローランドゴリラ。奇しくも、そのゴリラの名前も『エリカ』だった。メスのようだ。
黒くフサフサした毛皮。太くたくましい腕。檻の隅に、ニシローランドゴリラのエリカは座っている。ジーッと座ったまま動かない。虚ろな目をしていた。
それは、人間のエリカとゴリラのエリカが、初めて出会った瞬間だった。
人間のエリカの方は、言葉を失ってゴリラのエリカに目を奪われていた。彼女の様子に異変を感じた僕は、彼女に声をかける。
「エリカ? 大丈夫? どうかしたの?」
よく見るとエリカの体は震えていた。恐怖ではない。心が打ち震えているような。
「トオル君…… すごい…… 私、初めて見た…… 本物のゴリラ…… こんなに格好良いなんて……」
エリカは、声を震わせている。初めての生ゴリラにそんなに感動したのだろうか?
「こんなに、胸がドキドキするなんて…… 初めてなの…… こんな気持ち……」
それから、彼女はゴリラに魂を奪われてしまったかのように、1時間ほどボーッと立ち尽くしていた。
「ほ、他にも色々な動物がいるからさ。ほら? 行こう!」
仕方なく、僕はエリカの手を強引に引っ張ってゴリラの前から立ち去った。
それから、ライオンやキリンなど様々な動物を見たが。エリカは、どの動物にも興味を示さなかった。無反応で一言も喋らない。まるで、ゴリラの檻の前に魂を置いて来てしまったかのようだった。
デートが終わり。次の日から、エリカは学校に来なくなった――――
それから、1週間後。夏休みが始まる。僕は、エリカを呼び出して喫茶店にいた。
喫茶店の名前は『喫茶アフリカ』。カウンター席とボックス席が3つ程度の小さな店だ。
カウンターの奥には、寡黙なマスターがコーヒーを淹れている。店内は、コーヒーの香ばしい匂いに満ちていた。マスターは、ダンディな口ひげを生やしており、いかにもマスターといった風貌だ。
アフリカという店名だが、店の中は別にアフリカを感じない。少し薄暗い、落ち着いた雰囲気の店である。
一番奥のボックス席に、僕とエリカは向かい合って座っていた。
目の前にいるエリカは、かつてのエリカとはあまりにも変わり果ててしまった。
綺麗なロングの黒髪をバッサリと切って、下品なほど金髪に染めている。彼女いわく、その方がゴリラっぽいだからだそうだ。
服装は、黒いTシャツにボロボロにジーパン。売れないロックミュージシャンみたいだ。
「よおッ! トオル! 久しぶりだなあッ! 元気してっか?」
喋り方まで変わった。かつての清楚なエリカの面影はどこにも無い。
「ああ…… 元気だよ。エリカも元気そうだね……」
僕は、苦笑いで返事をする。
マスターが無言で注文を取りに来た。
「俺は、コーヒーブラックと…… あとリブロースステーキひとつ!」
「僕は、アイスコーヒーとナポリタンで」
ここのナポリタンは絶品だ。毎日食べても飽きないくらい美味しい。注文を受けたマスターは無言で去って行く。
「おいおい、トオル―! お前も肉を喰えよ! 肉をよう! ゴリラみてーになれねえぞ?」
エリカは、僕の注文に不服のようだ。うん。別に、ゴリラみたいになりたいとは思っていない。それに、本物のゴリラも肉食ではない。
しばらくして、料理が運ばれてくる。
熱々のステーキを前にして、エリカはゴソゴソと何かを取り出した。
「へへへ! 肉には、やっぱりコレだろ? コレをかけねーとな!」
取り出したのは、プロテインの袋だ。粉末状の白いプロテインが入っている。彼女は、それをステーキの上に振りかけていく。せっかくのステーキが、白い粉まみれになった。
「お前もかけるか? トオル」
「いや、けっこう。僕は遠慮しておくよ」
エリカがプロテインを勧めてくるが、僕は首を横に振って断った。
「やっぱり、肉とプロテイン! ゴリラみたいになるには、こうやって食べなきゃな!」
エリカは、プロテインまみれのステーキにガツガツと喰らいついた。かなり下品な食べ方だ。
あの日、目の前の彼女は、1匹のゴリラに恋をした――――
そして、自らもゴリラになろうとして変わってしまった――――
でも、僕は何も変わっていない――――
今でも、ずっと彼女ことが好きだった――――