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マシロとハプスブルク家  作者: kazfel
ハプスブルクの女帝
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簒奪

参考文献

マリア・テレジア 江村洋

女帝マリア・テレジア アン・ティツィア・ライティヒ著 江村洋訳

帝都ウィーンと列国会議 幅健志

マリア・テレジアとヨーゼフ2世 稲野強


 エルトリアはハプスブルク帝国の支配下に入った。

 ブダの各教会には正教徒が入り、大主教や主教はブダの郊外のセンテンドレやターバン地区の主教館に住んだ。

 タバーン町はセルビア人によって栄えた。

 オスマンの代わりにハプスブルク帝国直属の軍政下が置かれたエルトリアでは、各地でクルツ(反ハプスブルク軍事勢力)と農民の暴動が起きた。

 エルトリアの解放を目指すトランシルヴァニアの大貴族ラーコーツィ=フェレンツ2世と各暴動が合わさり、1703年には反ハプスブルク解放戦争が起きた。


 フェレンツ2世は貴族と農民、ハイドゥクの支持をうけてエルトリア国土の大半を解放し、1704年にトランシルヴァニア公に、翌年にはエルトリア貴族連合統治長官に選ばれた。


 しかし、フェレンツが内部対立で1711年にロシアに救援を求めた不在の間、ハプスブルク軍とサトマールで和が結ばれた。

 フェレンツはフランスからトルコを経て亡命する羽目になった。


 サトマール和議では解放勢力に恩赦が与えられ、エルトリアとトランシルヴァニアの自由権と信仰の自由が認められた。


 1722年にエルトリア議会は国事勅書を承認してハプスブルク家の世襲王位継承権を正式に認め、エルトリアは王国を維持したままハプスブルク家に統治される結果となった。

 エルトリアにオーストリアの総督府が置かれた。だが、王国の行政組織と身分制議会はポジョニに置かれたままである。


 皇帝カール6世は1713年に国事詔書(しょうしょ)を発布し、女系にも相続権を拡大することを明らかにした。

 

 バイエルン、プロイセン、ザクセンのドイツ諸侯国はこれに反発した。


 1736年、マリア・テレジアはフランツ・フォン・ロートリンゲンと当時では珍しい恋愛結婚をした。

 カール6世はテレーゼに男子が生まれる可能性に賭けていた。

 

 フランスはマリア・テレジアの家督相続が濃厚とみて、小国ながら戦略拠点で重要なロートリンゲン公国をさん奪した。

 フランツは愛する大公女との結婚のため故郷を失い、イタリア半島トスカーナ大公国と引き換える羽目となった。


 もっともハプスブルク家の男系消滅に狙いをつけていたのはバイエルン選帝侯カール・アルベルトであった。


 1740年10月20日、カール6世が崩御するとマリア・テレジアが23歳でハプスブルク家を相続(オーストリア、ボヘミア、モラヴィア、エルトリアなど)した。


 ハプスブルク家の歴史的なライバル、ブルボン家のフランスはバイエルン、プロイセン、ザクセンと組み帝国の分割を狙うのだった。

 画策した分割案の内容、当初の案では、オーストリアを皇帝まとめてヴィッテルバッハ家のバイエルンに帰属させる。ついでにボヘミアも与える。

 シュレージェン(現ポーランド南西部)はプロイセンに、ベルギーはフランスに併合する。

 オーストリアに支配権が残ったのはエルトリアだけであった。


 10月にプロイセンのフリードリヒ2世は大臣と将軍を前にこう発した。


「西方への領土の拡大よりも、むしろ帝国内のハプスブルク家の所領に向かって進出するほうが天の摂理にかなっているのだ」

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