ウィーン包囲
参考文献
図説ハンガリーの歴史 南塚信吾
図説ウィーンの歴史 増谷英樹
図説ハプスブルク帝国 加藤雅彦
1683年7月13日。オスマントルコ帝国軍は20万を超える大軍でウィーンを包囲した。
神聖ローマ帝国皇帝レオポルド1世は7月7日にリュディガー・フォン・シュターレンベルクに守備を任せ、15000の兵を残してウィーンを脱出した。
皇帝はパッサウに逃れ、ウィーン防衛と援軍を諸侯に求めた。
砲撃は日を追うほど増して市民の食糧は底をついた。
帝都ウィーンのは分厚いえんてい型の壁に囲まれた要塞都市で攻城戦が長期化した。
オスマン軍はトンネルを掘り進めたが、ウィーン城壁内部に立てこもる市民たちが早朝に音を察知した。
籠城兵によってトンネルは爆破され、オスマン軍は内部から爆薬を仕掛ける作戦は失敗に終わった。
それでも3日ほどで食糧と弾薬も尽きる状況で膠着状態が続いた。
9月12日にポーランド・オーストリア・ドイツ諸侯のキリスト教連合軍がウィーン郊外にたどり着いた。
7万の連合軍はポーランド王ソビエスキーの指揮とロートリンゲン公カール軍は、ウィーン北の森、カーレンベルク丘を駆け下りた。
偵察によって知り得たカラ・ムスタファ本営を3000騎の重騎兵隊が強襲した。
1時間ほどオスマン軍陣地が寸断され、オスマン軍は陣営の一部を放棄して退却した。
カラ・ムスタファはベオグラードに逃れ、メフメト4世の名で12月25日に処刑された。