夫婦戦争
8畳のリビングに一組の夫婦が向かい合って座っている。
ひりつた空気が横たわっている。
そう、これは真剣勝負だ。不用意な言葉は致命的な隙に繋がる。
故に動けない。にらみ合ったまま視線がバチバチと交差した。
「カタログスペックを比べれば、明確だ」
先に切り出したのは、夫の方だ。懐からA4のプリントを取り出す。
見事な出来だ。
妻は思わず感嘆のため息をついた。
車に興味がない自分でもわかる。
これは力作だ。スポーツカー、普通自動車、軽自動車の主要なカタログスペックの対比がこれでもかと分かりやすく図解されている。
盆暗な癖にやるじゃないか。
思わず称賛しかける妻がいる。休日にジャージでソファーで惰眠をむさぼる姿が擬態に思えるほどの美事さだ。いや、今の姿が擬態か。
ざっと資料に目を通す。
車の指標を操作性、購入価格、快適性、故障頻度、最高速度の5つの点でまとまられている。
「購入価格、快適性」以外はスポーツカーが圧倒である。
備考欄にはいかに操作性に優れているか箇条書きに8項目も書かれている。一見するとこれが本命に見えるがこれは罠である。
騙されてはいけない。夫の本命は普通自動車。
しかもご丁寧に中古車を買うことで価格が抑えられるとある。
更に備考欄の記載はさらっと「軽自動車には及ばないが価格も手ごろ。操作性も快適性も軽自動車に勝る」とある。
恐らく、普段使いに適さない故に私が納得しないであろうスポーツカーをあえて強く押す。そして、妥協したという形で普通自動車に落ち着くのが夫の狙いだ。
だが、甘い。妻は夫を警戒させないように「へぇー凄いね!」とつぶやいて見せる。
単純な夫は顔を綻ばせる。もう一度言う。単純な夫だ。
「で、軽ワゴン車は?」
私はさりげなさを装って告げる。夫の笑顔が固まった。
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今回は有利に進められそうだな。
渾身の資料を見て妻の笑顔が一瞬固まったのが分かった。外面の良い妻は滅多に笑顔を崩さない。
けど夫にはわかる。予想外の出来事に出会うと笑顔のまま耳がピクリと動くのだ。
しかし、ここで隙を見せてはいけない。
慎重に言葉を重ねようと口を開いた瞬間、妻は柔らかい笑顔で私に告げる。
「で、軽ワゴン車は?」
これだ、これだよ。妻が侮れないところである。
あざとい、と夫は言う。なんだ、惚気か。友人は言う。夫は知っている。無邪気を装って妻は確実に急所を突いてくる。
今も、「あれれ、忘れちゃったのかなぁ?」みたいな顔をしているが100%確信犯だ。
そんなところも可愛い。可愛いけど今じゃない。反論しなければならない。さり気無く、あくまでさり気無くだ。
「ああ、そうだったね。けど、軽ワゴン車も軽自動車だったから変わんないんじゃないかな?」
「そうね。けど、軽ワゴン車だったら普通自動車より広々として快適なんじゃないかしら」
「うーん。ワゴン車の分だけ値段が高くなるよ」
「そっかぁ、、、。そこは中古車を買うなりで何とかならないかしら?」
妻は確信している。
夫が購入を想定している普通車より、軽ワゴン車の方が割安であることを。更に言い訳を潰すために中古車の話を持ち出してきたのだ。
夫は嘆息する。
ここからの逆転は難しい。妻は車に詳しくないが、夫が買おうとしている普通車が割高であることに気が付いているのだろう。
「ほらさ。将来、子供ができて家族旅行とか行くじゃん。万が一、急な山道とか馬力があった車の方が安心なんじゃないかな?」
だから、夫のこの言葉は半ばただの悪足搔きだ。年に何度も行くほど旅行好きの家庭ではないのだから。
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「えっ?」
妻は思わず素の反応を返してしまいそうになる。
妻は自分のこと可愛げのない女だと思う。
美人だけど、論理的思考型の人間で格好良い車に「きゃー、凄い」とはしゃぐ気になれない。
普段使いするなら、燃費が大事。
けど、夫の発言は「旅行に行くなら、慣れない道は危険だから自分が運転する」という前提で話している。妻が免許を持っているにも関わらず、だ。
嬉しい。馬鹿みたいと思うけど、素直に嬉しい。
ここで顔に出すような可愛げは妻にはない。けど、何とか妥協したくなる自分を妻は自覚する。
こういうところ、私はチョロいのかな。とか妻は思う。
「じゃあさ、旅行の時はレンタカーを借りる形にしない?」
お財布は大事。
けど、こういう心意気を汲んであげるのも良い妻というものではないだろうか?
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「えっ?」
夫には思ってもなかった提案だ。
今回の交渉、自分の完敗だと思っていたのに、、、。
妻は「しょうがないなぁ」って顔をしている。妥協してくれたのだ。
なんだかんだ妻は甘いところがある。そう思う夫はすでに尻に敷かれているのだろうか?
「うん。じゃあ、軽ワゴン車で良いのを探してみるよ」
夫は言う。車に疎い妻は細かい車種までは言及してこないはずだ。
予算内で買えそうな車を頭で思い浮かべる。その中で飛び切り恰好良いのを選んでやろう。と思う。
「じゃあ、これで交渉成立だね」
「ええ、それでお願いね」
契約成立の証は二人で握手を。
愛すべき夫の。愛すべき妻の。無骨な指と細長い指が絡まって、まるで指切りをしているように固く結ばれた。