ゆっくりと沈む
終電間近。
降りたった約束の駅に、人の影はまばらだった。
改札を出たカナは、きょろきょろと辺りを見回す。人通りが少ないからか、それとも彼が目立つからか。目的の人物は、すぐに見つかった。
「カナちゃん」
支柱に寄りかかるようにしていた若い男が、柔らかく微笑んで身体を起こす。
カナは右手に持っていたスマホを握りしめて、高鳴る鼓動を抑えた。
アイドルみたいに整った顔も、低くて穏やかなその声も、くしゃりと歪む可愛い笑顔も──つまりは彼の何もかもが大好きだった。
だから、今日こそ最後にしようと決意しても、一週間も経たないうちにまた連絡をとってしまう。
そうして、会ってしまえばそれまで。
大人としてどうなんだとか、こんな不毛な関係は終わらせるべきだとか、そんな悩みは綺麗さっぱり吹き飛んで、束の間の喜びに満たされる。そうしてバイバイをしたそばからまた終わりしなきゃと思う。
その、繰り返しだった。
「お仕事お疲れ様」
近づいてくるシュウヤに、カナも慌てて走り寄る。
「ごめんね、待ったよね」
「全然。カナちゃんこそお腹空いたでしょ。お店予約してあるから行こっか」
「え、予約してくれたの?」
「うん。カナちゃんの好きなイタリアンだよ」
さりげなく手を握られ、雑踏の中を歩き出す。
それだけのことに、カナの鼓動はまた心拍数を上げた。
シュウヤにとってはなんでもないことなのだろうけれど。
「あ、ありがとう。 お腹ぺこぺこだったからすごく嬉しい」
「うん。絶対気にいると思うよ」
にこにこと微笑まれて、カナも笑顔を返す。
「楽しみだな」
時刻は、午後十一時。
あと三時間は、シュウヤの時間はカナのものだった。
◇
契約彼氏。
テレビやネットでその存在は知っていたけれど、まさか自分がここまでのめり込むとは思っていなかった。と言うより、自分には全く縁のないものだと思っていた。
一回だけのつもりだったのに。
それが、どうしてこんなことになってしまったのか。
時は三ヶ月前──カナが恋人に浮気をされた夜に遡る。
あれはひどいものだった。
約束もなしに訪ねたのがいけなかったのかもしれない。
けれどその日は、連日の激務に心身ともに疲弊し、連絡をする気力もなかったのだ。
自宅アパートよりも彼のマンションの方が会社に近く、だから、少しだけ頼りたくて向かってしまった。
ちょうど彼が、別の女性と関係を持っている最中だなんて思いもしなかったから。
『斗真?』
インターホンを押しても返事がなくて、けれど中からは灯りがこぼれ、微かに人の声も聞こえていた。迷いながらも、せっかくここまで来たのだし、とカナはダメもとでドアノブに手をかけた。
開いた。
そこからが、地獄の始まりだった。
『カナ……!? なんで』
信頼していた恋人の裏切りに手足は震え、心臓は波打ち、いろんなことを叫んでしまった気がする。
相手の女性がカナの友人だったことも、絶望に輪をかけた。
カナは知りうる限りの言葉で二人を罵って、倍の量を罵り返され、ついに部屋を飛び出した。
惨めで苦しくて情けなくて、消えてしまいたかった。
『……っ……ふ』
誰か助けて。
嗚咽を堪えながら、カナはスマホをタップした。
母親はもう寝んでいるのか出てくれなくて、友人は誰を信用していいのかわからなかった。
街にはこんなに人があふれているのに、カナを知っている人は誰もいない。
『……うっ……』
波のように押し寄せた孤独が一気に胸を締め上げた。
それでも結局、カナは駅を目指して歩き出した。
どう足掻いても帰る場所なんて家しかないのだ。
誰もいない、ひっそりとした、あの──。
『お姉さん一人? どうして泣いてるの?』
突然、横から覗き込むように話しかけられる。
『……え?』
思わず歩みを止めたカナは、ぼやける視界に男の顔を捉えた。背は高く、髪の色がとても明るい。耳にはいくつものピアスがついていた。カナには一つも開いていない穴だ。
『危ないよ。ここ酔っ払い多いから』
『……もう帰るところだから大丈夫です。すみません』
何がすみませんなのか自分でもわからなかったけれど、反射的にカナはそう言って、頭を下げて通り過ぎようとした。しかし男もついてくる。
『帰るの? 悲しいことあったんでしょ? 俺でよかったら話聞くよ』
『結構です』
『あ、怪しいやつって思ってるでしょ?』
思わないわけがない。
カナは少し怖くなって、鞄を持つ手に力をこめた。
『ナンパとかじゃないから安心してよ。ビジネス? みたいなものだから』
『ビジネス……?』
益々怪しい。
眉を寄せたカナに、男は笑って自身のスマホと身分証を提示した。学生だった。(偏差値もそれなりに高い)
スマホの画面には、彼の写真とプロフィールが載っている。
『なに、これ……?』
『俺、このサイトで契約彼氏のバイトしてるんだ。知ってる? お金もらって話聞いたりデートしたりするの。別に変なことするわけじゃなくて、ただ遊んで楽しい時間を提供するんだけど、どう? 試しに一時間』
『……いいです』
説明されても不信感を拭うことはできなかった。どころか、怪しさが増した気がする。
『うーん。俺、結構人気高くて予約取れない方なんだけどなあ』
『じゃあ予約のお客さんを優先してください』
『生憎今夜は暇なんだ。それにお姉さんめちゃくちゃ泣いてるし、ほっとけないよ』
『……』
『そうだ。初回特別サービスってことで今日はお金はいいよ。そこのコーヒー屋さん入ろ? どうせ赤の他人なんだから、好きなだけ愚痴ってくれていいよ』
どうして愚痴と決まっているのか。
思いながら、けれどカナは襲われていた孤独からいつの間にか抜け出していることに気づいた。
この学生がよく喋ってくるからかもしれない。
どうせ帰っても一人で泣くだけだ。
だったら偶には、こんな時間もいいかもしれない。
『……じゃあ、一時間だけ』
『やった』
無邪気に微笑まれて、カナは自分が客引きに引っかかったことに気がついた。
まあ、いっか。
一回だけ。
今夜だけ。
サンプルを試すような気持ちで、カナはシュウヤの手を取った。
結局その夜中、カナはシュウヤに話を聞いてもらった。
シュウヤはただひたすらに聞きやくに徹して、うんうんと頷いて、肯定して、憤ってくれた。カナが恋人に裏切られた話には、自分のことのように不快感を露わにしていた。
『は……何そいつら。最低だろ。別れて正解だよ』
彼がサイトで人気なのは、容姿だけが理由ではないのだろうと思った。
一緒にいると、気負わずにいられるのだ。他人だからだろうか。
『じゃあね、カナちゃん。もしまた会いたかったらここに連絡して』
『うん。……ありがとう』
別れ際、連絡先の書かれたメモを受け取って、カナはそれを財布にしまった。
こんなに長い間付き合ってもらったのだ。
あと一回だけ会って、その時お礼も兼ねてお金を払おう。
──そう思ったのが、間違いだったのかもしれない。
それから、シュウヤとの付き合いが始まった。
シュウヤは一緒にいる間、さよならのその瞬間までカナの孤独を埋めてくれた。
大学の話を面白おかしくしてくれたり、カナの仕事の話も興味深そうに聞いてくれたり。
シュウヤの特別になることは出来ないだろうけれど、週に一度のこの数時間、一緒に過ごせるだけでもカナは幸せだった。
いつかは終わりにしないといけない関係だったとしても。
◇
あっという間に時は満ちる。
「美味しかった?」
「うん。もうお腹いっぱいだよ」
深夜二時。
店を出た二人は、ゆっくりした足取りで駅のタクシー乗り場に向かった。シュウヤの案内してくれた小洒落たレストランはどれも美味しい料理ばかりで、少し食べすぎてしまった。
会った時同様に手を握られたまま、カナは隣を歩くシュウヤを見上げた。
「ねえシュウヤくん。お金本当にいいの? やっぱり私も払うよ」
「いいよ。俺も食べたかったから」
カナは腑に落ちないまま「そう?」と首を傾げる。
前回会った時も、シュウヤは食事代を全て払ってくれた。思えばシュウヤはこの頃、頑なにカナに財布を出させない。それでバイトになるのだろうか。それともこれも、テクニックの一つなのだろうか。
「……じゃあ、次は私が払うね」
「うん」
シュウヤがにこにこと微笑む。
「肉系がいいなあ。なんとか苑とか」
「それは、あの、ボーナスが入らないと」
「冗談だって。なんでもいいよ」
冗談かとほっとしながら、カナは自分自身の甘さに呆れた。
次、なんて、また約束を取り付けてしまった。しかも、それを楽しみにしている自分がいる。
「ここでいいよ」
カナは手を離し、契約金を出そうとする。と、シュウヤが遮るように言った。
「カナちゃん、明日お休みだよね」
「え? うん」
「俺も明日は予定ないよ」
「うん……」
これは、あれだ。延長のお誘いだ。
カナは財布の中身と相談し、葛藤する──。
「あの……後払いでいいなら」
「俺も一緒にいたいから、お金はいいよ」
「え? でも」
「行こ。寒いから早くあったまりたい」
ぐいと手を引かれて、ホテル街に迷い込む。
シュウヤと夜を過ごすのは、これが初めてではない。
とは言っても、キスもしたことはないし、もちろんそれ以上に進んだこともない。ただ、傷を癒してもらうように、添い寝をしてもらう、それだけだった。
嬉しいけど。嬉しいけど。けど。
こんな関係は虚しい。
理性が警鐘が鳴らすのに、足が止まらない。
どんどん、沈んでいく。
この男に、落とされていく。
深夜二時五分過ぎ。
カナの恋は、多難に満ちあふれていた。