篠突く雨
仕事が午前中で終わったある日、葉月と松代は蕎麦屋へ立ち寄った。グルメ雑誌にもよく登場し、予約がないと入れないほどの人気店だ。出された蕎麦に舌鼓を打ち、そこで小一時間ほど過ごした。葉月はとても満足したようで、店を出て、顔を綻ばせながら言った。
「たまにはお蕎麦もいいですね。海老の天ぷらが美味しかったです」
「お気に召していただけたのでしたら光栄です」
いつ、誰に紹介を頼まれても困らぬよう、グルメ情報は押さえてある。会食から飲み会まで、あらゆる用途に対応できるよう、常に情報はチェックしている。その中でも今日訪れた蕎麦屋は、機会があれば葉月を連れて行ってやりたい。と常々思っていた所だった。葉月も喜んでくれたようで、松代も珍しく笑顔を見せた。
天気は曇り。
にこやかな気持ちとは逆に、重く厚い雲が空に広がり、今にも雨が降り出しそうだ。と、そう思った矢先に、雨粒がぽつんと頭に落ちた。
「雨が降ってきました。急ぎましょう」
隣を歩く葉月にそう伝え、結んだ帯のお太鼓に手をやり、促した。少しペースを上げて車に戻ろうと歩き出した時だった。
「あ、あのっ、あの!」
明らかに自分たちにかけられたであろう声に、二人は振り返った。
「はい?」
反応したのは葉月だった。声をかけたのは、一人の女性だった。歳は、おそらく葉月と同じか、少し年下か。彼女は肩から掛けたショルダーバッグの肩ひもをぎゅっと握りしめ、緊張しているのか、神妙な面持ちで葉月を見つめていたが、ふっとその視線を松代に向けた。
「いえ、そちらの方……」
彼女が用事があるのは葉月ではなく、松代だった。
「松代さん、お知り合いですか?」
葉月にそう問われ、松代は動揺した。ええと、誰だったか……
「あ、あぁ、君はあの時の」
松代がそう答えれば、彼女の表情はパッと花が咲いたように笑顔になった。
「あのっ、私、どうしてもお礼がしたくて……」
「いえ、当然のことをしたまでですので、お気遣いなく」
「ですが……」
「いえ、本当に」
「でも……」
このままでは埒が明かないと判断したのか、葉月が口をはさんだ。
「いいではないですか」
「え……」
「せっかくこうしてお誘いいただいているのです。お言葉に甘えてはいかがです? とは言っても、今日は家に帰らなければならないので……あの、来週のこの時間、ご都合はいかがです?」
「あ、大丈夫です。じゃあ、来週のこの時間、この場所でお待ちしています!」
当の本人を置いて、女性二人、勝手に話をつけてしまった。
しかし、葉月は何を思ってそんなことを言い出したのか。彼女と話をしている時に、盗み見た葉月の表情は、少し困ったような笑顔を浮かべてはいるものの、ほんの少し、影が見えた気がした。
松代は帰り道、彼女とのことを葉月に話した。彼女は、電車の中で痴漢行為を受けていた。助けを求める視線を彼女は周囲に送っていたが、周りは見て見ぬふりをした。そして、エスカレートしていく非情な行為に、いよいよ泣き出しそうになったところで松代と視線がぶつかった。「助けて……」そう彼女の声が聞こえた気がして、松代は動いたのだった。
「そんなことがあったのですね」
「はい。オフの日に起こったことでしたので、お話するまでもないかと思っておりましたが、逆に申し訳ございません……」
「松代さんは正義感が強いのですね。きっと彼女も助けてくれたのがあなたで、さぞ安心したでしょう」
「ですが、何も葉月様がああ仰らなくても……」
「うふふ、いつも松代さんには傍にいていただいています。たまには気晴らしも必要かと思いまして」
葉月はにこやかに微笑んでいた。
だが、この日、葉月の心の中に迷いが生じた。
初めて松代と会った日、葉月は「あなたの人生を買い取らせてください」と言った。消して軽々しく言った言葉ではない。考えに考えた結果、あの言葉になった。そして、今の葉月と松代の関係が出来上がったわけだが、果たしてそれでよかったのか、と。
松代は自分のことは二の次にして、いつも葉月を一番に考えてくれる。苦言を呈されることもあるが、それは葉月を思ってのことだということも理解している。そんな日々の中、葉月は松代に恋心を抱いた。「安藤葉月」である以上、まだ未熟な自分が、それを表に出すことはできないと理解しながらも、気づいてしまった気持ちをないものにすることなどできず、それは気持ちは日を重ねるごとに大きくなっていった。そこへきて彼女だ。あの松代を見つめる瞳は、おそらく自分と同様に恋をしている瞳だ。名前に、家に縛られることなどないのだろう。まっすぐに松代へ向ける視線。それが、羨ましくもあり、少し妬ましくも思えた。
一週間はあっという間に過ぎ、その日がやってきた。出かけていく松代の背中を見つめながら、葉月は拳をぐっと握りしめた。
いつまでも松代の優しさに甘えていてはいけない。安藤家の当主として、一人の女として、これから松代とどう付き合っていきたいのか、松代が、彼女を選ぶのならば、自分も心を決めないといけない。
その日の夜、松代は葉月の部屋を訪ねた。理由は一つ。今日の出来事を主に伝えるためだ。
「夜分遅くに申し訳ございません」
葉月はいつもと変わらぬ表情で、松代を部屋へ招き入れた。
年頃の娘の部屋へ入ることをあまりよく思っていないのか、松代は部屋に入るなり、まず謝罪をした。
葉月は応接セットのソファに腰をかけ、何やら本を読みふけっていたが、それを閉じテーブルに置くと、柔らかく微笑んだ。
「よいのですよ。若いお嬢さんとの逢瀬、楽しめまして?」
逢瀬――
確かに今日、彼女と会ったことは逢瀬と言われれば逢瀬だった。だが、やましいことは何一つしていない。それを伝えることも含めての訪問であった。
「ただ、食事をして、話をして、自宅まで送り届けただけです」
「そうですか」
葉月はそれだけ言うと、席を立った。そして窓際まで行き、窓の外を眺めた。葉月がどんな表情をしているのか、松代には見えなかった。外を眺めながら、葉月はぽつりと呟いた。
「ねえ、松代さん。私は間違っていたのでしょうか……?」
「間違っていた、とは?」
表情を見ることができれば、葉月の言わんとすることが理解できたのかも知れないが、今はできなかった。
「あなたの人生を買い取るだなんて……あなたの人生はあなたのものでしかないというのに、私はそれを奪ってしまったのではないかと、考えておりました。思い上がりも甚だしいのではないかと。あなただってやりたいことがたくさんおありでしょう?」
葉月の言葉を、ただ黙って聞いていた松代だったが、何となく葉月の言わんとすることが分かってきた。なぜ、今になってそれを言うのか。自分の思い違いでなければ、葉月は自分と彼女とのことを気にしている。そんな素振りは見せないようにしていたのだろうが、今になってそれが垣間見える。
葉月が人生を買い取ってしまったせいで、本来あったはずの人生を棒に振ってしまったのではないかと。
いや、それ以前に、世間から見れば自分は前科者だ。そんな男のこれからの人生に幸せなどあっただろうか? 地の底から這い上がって、日の光を浴びることができただろうか? 今こうして葉月の下にいる方が何十倍も幸せだと断言できる。心配なんてすることはない、自分はずっと葉月の傍にいる。人生を奪われた、だなんて、そんなことを考えたことはない。むしろ感謝している。自分を頼ってくれること、こんな自分を傍に置いてくれること、そして、嫉妬のような感情を抱いてくれていること。そんな葉月だから大切にしたい。その思いで胸がはち切れそうだというのに。
松代は溢れ出しそうな思いを押しとどめ、口を開いた。
「葉月様、あなたは私を捨てるおつもりですか?」
葉月はビクリと肩を揺らした。銃口を突きつけられても動揺しない葉月が、動揺の色を見せた。それを確認して続ける。その声色は、優しく切なさを滲ませていた。
「私は葉月様のものです。どこへも行きません。今日、彼女にもそう伝えてきました」
「…………」
返されたのは、聞き取れないくらいの小さな声だった。
「え?」
松代の疑問符に、葉月はくるりと振り向いた。
その表情を見て、松代はギョッとした。黒真珠のような瞳から涙が頬を伝い、ぽとり、ぽとりと大島紬に染みを作っていた。
「あなたが私のもので、どこへも行かないと言うのなら、今ここで私を抱いて下さい!」
松代は息を飲んだ。まさか、そんなことを言われるとは思いもしなかった。いや、葉月はもしかしたら思っていたのかも知れない。不安で悲しくて、それでも愛しくて。そんないろいろな感情が混ざった表情……
「それは、できません……」
松代は力なく、そう答えた。
「なぜです? 私はこんなにも……!」
「葉月様、それ以上はご勘弁下さい」
葉月は駆け寄って、松代に縋り、ジャケットの返り襟を掴んだ。歪に皺の入ったジャケットと、葉月の表情、こんなにも感情を爆発させる葉月の姿は見たことがなかった。
「こんなにも、あなたを……一度でいいのです。私を……」
「それだけは、できませんっ……もうお休み下さい。失礼します」
「待って……!」
松代は縋る葉月を振りほどき、部屋を出た。部屋のドアが外側に開くドアでよかったと心底思った。そして、廊下に出た松代は葉月が出られないようにドアに体重をかけた。
「どうして!?」
それでもドアをドンドンと叩き、縋ろうとする葉月に松代は自分の思いを搾り出すように伝えた。泣きながら縋る葉月の唇を塞ぎ、華奢な身体を折れるほど抱きしめることなど造作もないのに、それができたら、どんなに幸せか。だが松代はそうしなかった。
「葉月様、あなたが愛しい。誰よりも、いえ、比べる者などおりません。ただ、あなたが愛しい」
「それなら、どうして!?」
「私はあなたのものです。あなたのものだからこそ、今あなたの願いを叶えることはできないのです」
「分からない! 私には、分かりませんっ!」
「私はあなたの右腕だと思っております。右腕には、右腕の役割がございます。その右腕が葉月様自身と一緒になってしまったら、右腕は右腕でなくなってしまう。右腕は右腕であり続けなければならない。あなたを私のものにしてしまうことは、できない……あなたを思うままに抱けたら、どれだけ幸福か……何度それを思ったか……酷い男だと思っていただいて構いません。分かっていただけなくても仕方ありません。ですが、一つだけ、これだけは分かって下さい。あなたを、あなただけを愛しています……」
ズルズルとドア伝いに何かが滑り落ちる音がし、ドアの向こうからは葉月の嗚咽が聞こえた。
愛している。愛しているからこそ、今は葉月を守らなければならない。抱いてしまったら、今までの関係が崩れてしまうかも知れない。葉月は安藤の当主なのだから、しっかりと地に足をつけて立っていなければならない。自分はそれを支えるためにここにいる。今はまだ、その時ではないのだ。
「また明日の朝、まいります。ごゆっくりお休み下さい」
松代は前を見つめ、歩き出した。自分は葉月を支える者であり、葉月のもの。今それ以上を求めてはいけない。いつか、葉月が自分の支えなしでも立派に立っていられるようになったなら、その時こそ、葉月を……だから、これでいいのだ。
――雨が降っていた。
夜になって降りだした雨は、室内にいても分かるほど、ざあざあと大きな音を立てた。
松代は、葉月が松代を想って泣くように、松代も葉月を想って泣いた。そして思った。あぁ、雨でよかった。
この雨が、己の涙を洗い流し、この大きな雨音が葉月の鳴き声をかき消してくれるだろう、と。