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夜会

 その数日後の夜会でも、傷心の青年は夜会の席で女性に声を掛ける気にもなれなかった。

 人の多い広間を避けて、庭へとやって来る。

 バルコニーのそばの茂みに座り、一人で煙草をふかしている。

 かつて付き合っていた女性に、別れ際に言われた言葉を思い出す。

「あなただって、遊びのつもりでわたしと付き合ってたんでしょう? お互いさまよ」

 彼女の蔑むような眼差しが、あざ笑うかのような声が、ずっと青年の耳について離れない。

(遊びのつもり、ね)

 青年はくしゃりと金色の髪を指でかきまわす。

(おれは一度だって、遊びのつもりで女性と付き合ったことはないんだけどな)

 煙草の煙をふうっと吐き出す。

 煙はすぐに澄んだ夜気に紛れて見えなくなる。

 夜空には星々が瞬き、澄み切った空気が肌に冷たい。

「あなたとはこれっきりね。さようなら、アレクセイ」

 彼女の声がまだ耳の奥で響いている。

 目と閉じると、その時の嘲笑うような彼女の顔がまぶたの裏に浮かんでくる。

 いくら振り払っても、彼女の幻影はすぐには消えてはくれない。

 未だに心の大部分を彼女のことで占められている。

 自分で考えていた以上に、失恋の傷は深いようだ。

 青年は煙草の煙の立ち上る先を見上げ、溜息を吐く。

 庭のあちこちに明かりが灯り、夜の闇を照らしている。

 明るい広間からは、人々の笑いさざめく声やオーケストラの音楽が聞こえてくる。

 賑やかな多くの人達に紛れていると、振られた自分がますます惨めに思えてくる。

 あんな彼女を好きになった自分が滑稽に思えてくる。

(まるで道化だな。結局はおれは彼女の手の平で踊っていただけなのか)

 そう考えると、自分がますます惨めに思えてくる。

 何もかもが馬鹿げた出来事のように自分には思えてくる。

(駄目だ。いつまでも彼女のことを考えていたら)

 気持ちが腐っていくのが自分でもわかる。

 ますます落ちていく気分を押しとどめ、青年は庭の茂みから這い出す。

 気が乗らないまま、広間へ戻ろうと考えた時だった。

 すぐそばで足音がして、青年のいる茂みの上にあるバルコニーに人が立つ。

 バルコニーの手すりにもたれかかるようにして立っている一人の女性が見える。

 白いドレスが広間からの明かりを受けて輝いている。

 バルコニーに現れたのは、まだ年若い少女だった。

 長い黒髪に青い瞳の輝くような美しい少女。

 その夜空のような深い青色の瞳には、今は暗い表情が宿っている。

(彼女は)

 青年は少女の顔に覚えがあった。

 それは白百合の君と社交界で噂されている、従兄弟の少女だった。

 少女は今にも泣き出しそうな青い瞳で庭の暗闇を見つめている。

 青年が広間にいた時、少女は別の婦人とちょっとした騒動を起こしていた。

 数人の高貴な身分の婦人達を相手に、低い身分の女性をかばったのだ。

 社交界では、身分や家柄、資産で人の上下が判断される。

 青年も含め、従兄弟の少女も社交界においては決して身分が低い方ではなかったが、代々続く家柄だと言って威張り散らしているプライドばかり高い貴族もいる。

 数人の高貴な身分の婦人達はまさにそれだった。

 低い身分の女性は、最近豊かになった富豪の出で、社交界に入ったばかりだったと青年は記憶している。

 恐らくはその女性をかばったのが、高貴な身分の婦人達には気に入らなかったのだろう。

 格好のいじめの標的にされたのだろう。

 そして彼女達から逃げるように、ここにやって来たと。

 バルコニーの少女は黙って夜空を眺めている。

 しかしその横顔は暗い。悲しみと怒りを必死にこらえているようだった。

(可哀想に。社交界のご婦人方は容赦がないからな)

 青年は煙草をふかし、その煙越しに少女の横顔を眺めている。

 その横顔は幼いながらも気高く美しい。

 成長したらさぞかし美人になることだろう。

 社交界において少女は白百合の君と呼ばれ、その美貌と誰にでも等しい振る舞いは、一目置かれるところがあった。

 青年は煙草の火を消して、少女のいるバルコニーに続く小道に足を向ける。

(どれ、少し慰めてやるか)

 こんな時でも、落ち込んでいる女性を黙って見捨ててはおけない青年だった。

 上手くいけば従兄弟の少女とより親しくなれるかもしれない。

 少女は青年に感謝して、お礼として一晩を共に過ごすことになるかもしれない。

 傷心した青年にとっては人肌の温かさが恋しかった。

 彼女との失恋で負った青年の心の傷も、少しは癒えるかもしれない。

 今は振られた彼女以外の他の女性と付き合うことは考えられなかった。

 それくらい彼女の存在は大きかった。

 一晩だけの関係でいい。一人寝の寂しさが紛れればそれでいい。

 心の隙間を一時的に埋めることが出来ればそれで良かった。

 青年にとってはそれくらいにしか少女のことを考えてはいなかった。

 その時はそれほど少女に興味を持ってはいなかった。

 庭に面した大理石の階段に足を乗せた時、ばちん、と辺りに甲高い音が響く。

 振り返ると、白い頬が赤くなるほど強く、少女は自分の頬を叩いている。

 少女は軽く頭を振り、顔を上げる。

 青い瞳には強い意志が宿っている。

 涙目になっていた少女は迷いない青い瞳でバルコニーの彼方を見つめている。

 気が付けば、泣きそうな少女の面影はどこにもなかった。

 少女は凛とした表情で彼方を見つめている。

 強い意志の感じられる表情がほころぶ。

 表情一つ一つがまるで別人のように移り変わり、朗らかに少女は笑う。

 その穏やか笑顔は、高く険しい山頂に揺れる白百合を思わせる。

 凛として清純な山の空気の中で育つ山百合。

 少女は清らかで美しく、穢れを知らない白百合のようだ。

 青年はどうして少女が白百合の君と呼ばれているのか、その時はっきりと理解した。

「もう、戻らないとね」

 少女は静かに微笑んで、青年の方を振り返る。

 一瞬、その青い瞳と目が合ったような気がした。

 しかしそれは気のせいで、少女は青年の存在に気が付かずにバルコニーから姿を消す。

 バルコニーのテラスを通り、白いドレスの裾をひるがえし、青年の目の前を横切って行く。

 少女は階段の下に立ち尽くす青年をかえりみもしない。

 青年は広間へと姿を消した白いドレスの少女に目を奪われたままだ。

 少女の姿に見とれて、今まで考えていたことや、振られた彼女に対する想いなどはすっかり忘れていた。

(彼女なら、いいかもしれないな)

 自分でも意識しないうちに、そんなことを考えていた。

 気が付けば頬が火照っていた。

(そうだな。家柄や資産も文句はないし、美貌や性格だって悪くない。浮いた話も聞かないし、今は婚約者が一人いるだけだ。彼女なら、理由もなくおれを裏切ることも無いだろう)

 青年は考えながら階段を上って行く。

 その頭には振った彼女のことなどすっかり無く、今すれ違った少女のことばかり考えている。

 青年の頭はせわしなく回転し、結果として少女と仲良くなることは自分の保身にも繋がると判断した。

 それは青年が夜会で、その少女を階段で助ける少し前のこと。

 その出会いをきっかけに青年は少女と深く関わっていくことになる。

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