夢との契約
流れる水になったような体感があった。
自分の身体が、意識が、人の形から解放されてこの自然界を風のようにあてどなくさまよう。どこからか鳥の鳴き声や草のせせらぎが聞こえる。それも流動する世界のなかで様々に形を変えた。循環する世界の形。もはや自分は世界であってどこにでもいてどこにもいなかった。
ふと、白い大きな鳥が、羽根を畳んでこちらを見ている。何の鳥かはわからない。美しい蒼い瞳に、橙の光が射し込みきらめいている。
鳥に見られる、鳥が自分を認識している。それで、ようやく自分は自分という形をとることが出来た。その鳥と静かに視線を交わす。どこまでも無表情なこの鳥はなにも見えてない……だけどすべてを見ていた。鳥はゆっくりと姿を変え、人の形になる。美しい、蒼と橙が入り混じった瞳はそのままに、金の髪の少年、いや、もう青年と呼べるか……?の形をとった。どこかで見たような……でも思い出せない。その金の髪の少年とも青年ともとれるそれは無表情のままこちらにゆっくりと手を伸ばした。咄嗟に恐怖を感じる。イシトは大声で叫んだ。
はっと、目が醒めた。見慣れた天井が見える。ゆ、夢か……。大声で叫んだと思ったが、実際は叫んでなかったらしい。
しばらくその天井を眺めた後、イシトはゆっくりと身体を動かし、自分の身体を確認した。ある。ちゃんとある。
ふわふわした感覚が残ってる。イシトは夢は結構みる方だったが、感覚や色まで鮮明な夢は滅多にない。
夢に出てきた少年、あれは自分だった。少なくとも姿形はそうだった。なんでわからなかったんだろう……。
部屋を見ると、長年寝食を共にしている仲間達が、寝息をたてていた。外を見るともう夜明けが近い。もう少しで起床時間だろう。
ふと、いつも隣に寝てるハソラがいない事に気づいた。多分、いつものあそこだろうな。もう一度寝れそうもなかったし、ちょっと行ってみるか。イシトは起き上がり部屋を出た。
剣が風を切る音を聞くのが、ハソラは好きだった。
稽古では許されない剣を持ち、ハソラは素振りをする。
稽古では体術や棒術が基本だったが、ハソラは僧院に来る前から剣を習っていて、剣を扱う方が好きだった。
毎朝皆が起床する前に、寄宿舎のこうやって素振りを行うのがハソラの日課だった。
強くなりたい、ただ強くなりたい。そう思っていた。
ふと、足跡が聞こえる。ハソラは振り向いた。
「ハソラ、おはよう。今日も飽きずにやってるな」
「イシト……」
僧院に来てから四年の月日が経過していた。17歳になったイシトとハソラはあれから身長も大分伸び、幼さを残しつつも精悍な顔つきに成長していた。
イシトは初めて会ったときから前ぶりなく脇腹をくすぐってきた。思いも寄らない行動をする奴だった。ぼんやりしてるようでいて妙に鋭かったりして侮れない時もある。すごい馬鹿だなと思うときもあれば実はすごい賢いんじゃないかと思うときもあり、よくわからない奴だった。ハソラはそんなイシトが好きだった。
素振りをやめてイシトに近づく。
「いいよ、やめなくて。構わず素振り続けなよ」
「いや、もうすぐ起床時間だから、いい。今日は早起きだなイシト。それとも、お前も素振りに付き合う気になったか?」
「まさか。ハソラ程努力家じゃないよ」
早朝の自主稽古にイシトも誘ったことがある。彼は眠いし昼きついから嫌だと言った。だが、大して努力してなさそうなのに、武術のセンスがあるのかなかなか強い。頭のほうはいまいちだったが。
素振りはここまでという事で、ハソラは指でナハート神の印を切る。長い修行生活で癖になった動作だ。やらないと落ち着かない。それを見たイシトはしみじみと言った。
「ハソラも、大分ナハート教が染み付いたよなあ」
「まあな」
最初は神なんて姿形が見えないのに縛り付けてくる厄介な存在で祈るなんてバカバカしいと思っていた。今でも神を信じていない。だが、生活習慣とは恐ろしいものだ。形式的な祈りを行わないと落ち着かなくなってしまった。
イシトも印を指で切り、何事か短く祈った。
見てるとイシトはすっかり信仰に目覚めたようで、経典を自由時間に読むまでになっていた。個人的に祈ってるのもしょっちゅう見受けられる。
俺はそうはなれないな……そう思う。
自分がナハート神に信仰心をもてないのは、母の出生も関係している。父親への反抗心もあるかもしれない。
ハソラの父は、現在もナハート神の名の下に国王として君臨しこの国を治めていた。ハソラは廃嫡子として、この僧院に送られた。
あいつは母を捨てて俺を捨てた。なぜなら母は……。
母は獣人だったらしい。実際には会ったことがないし、俺には外見上では特にこれといった特徴が現れなかった。だから、存在を許された。
ナハートは獣人……と呼ばれた亜種族を邪神の徒として排斥し迫害した。
俺という存在を肯定するものではない……信仰心を持ちようもなかった。
「実は今日、やけにリアルな変な夢をみて、目が醒めたんだ」
イシトがあくびをしながら言った。
「お前は本当にしょっちゅう夢をみるな……」
ハソラは滅多に夢というものをみない。イシトの夢の内容を聞いてると壮大で面白く、少し羨ましかった。
「自分が自分であることがわからない。そんな感覚わかるかいハソラ。あれは……どういうことなんだろう」
ぽつりとイシトが言う。
「?どういう意味だ?」
「わからないならいいや。皆が起き出す前に部屋に戻ろうハソラ」
そして一日がはじまった。
日々の務めーー主に経典の勉強と武術の修行、その前後に必ず瞑想をする時間があった。
ハソラは一人、瞑想にふけっていた。
イシト達他の皆は、瞑想を終え部屋に戻ったようだ。
ハソラにとって神との対話だのなんだのはどうでもよかったが、呼吸を整え目を閉じていると精神的に落ち着くので瞑想は好きだった。
他の皆が切り上げても、ハソラは瞑想に熱中した。
ゆっくり目を開ける。すると、カイルと目があった。ハソラ達が僧兵見習いとして僧院に来てからの、相部屋組の教師であり監督役だった。
「ハソラ、最近調子どうだ」
ハソラが瞑想を終えるのを待っていたのか、話しかけてくる。カイルはハソラの、王子という出生を知っている。その上でお節介を焼いてくる。少しウザったい存在だった。
「別に、普通ですよ」
「最近、朝に部屋を抜け出して一人で稽古してるようだな」
気づいていたのか。相変わらずめざとい。
「感心だが、日中の務めに支障を出すなよ」
「わかってますよ」
ハイハイ、そんな調子でハソラは返す。
「3日後、院長に同行して国王陛下にお会いしてくる」
「…………」
「国王陛下は、お前がどうしてるか。それをよく院長に聞いてくるらしい……何か陛下にお伝えすることはあるか」
「……何もありません」
気遣いなのか何なのか、ハソラはカイルのこういうお節介が嫌いだった。
いらいらする。
「俺はもう国王陛下とは何の関係もありませんから……それじゃ」
それだけ言ってカイルから逃げるようにその場から立ち去った。
相部屋に戻る。少年たちは思い思いに過ごしていた。ふとイシトを見ると経典を読んでる。お務め最中にあれだけ勉強してるのに、よく飽きないな。
「お帰り、ハソラ」
ハソラを確認したイシトが話しかけてきた。
「イシト、お前本当に経典読むようになったな。何がそんなに面白いんだ」
「いや、読んでもあまり理解できないんだけど、字面を追ってるだけでなんとなく気分がいいんだ」
イシトはハソラにとってよくわからない感性を持っているようだった。
「最近、変な夢を見るから……なんでかその夢が気になって。経典になにかそれに関連する事が書いてあるかなって」
夢の世界は神の領域であるという教えをハソラは思い出した。ハソラは夢をほとんど見ない。
「ナハート神が出てくるのか。お前の信仰心も極まったな」
「……なんか、馬鹿にしてない?」
「いや別に」
ハソラは信心深い人間をどこか馬鹿にしていた。と、同時に、なにやら羨望を感じる。
自分も心から信仰をもちたいのかもしれなかった。自分の存在を全肯定してくれる何かが……。
今日もいつも通りの平凡な一日が過ぎ去ろうとしていた。
……
…………
気が付いたら、薄暗い世界にいた。
周囲には霧が立ちこめている。ここはどこだろう……。イシトはあてどもなくさまよう。どんどん不安になっていく。
「やあ」
急に声が頭の中で響く。驚き振り返ると自分が立っていた。いや、自分じゃない……姿形は自分そのものだが、目が違う。深い蒼の目に橙の光が反射している。この色彩は人間ではない。
その目が世界を明るくしたように、蒼と橙の色彩世界に彩られる。
またあの夢だということにイシトは気づいた。今度は自分という認識がはっきりしている。
「僕があげたその身体、馴染んだようだね、よかったよ」
その自分の形をした何かが気さくに話しかけてくる。
「お前誰だ?」
イシトが聞いてみると、その何かはにっこり笑った。面白そうに。
「その前に、イシト、君がなんなのか教えてほしいな」
「俺は……クルエス僧院の僧兵見習いだ」
「そういう事じゃないよ……座ったら」
指さされた方を見ると、腰をかけるのにちょうど良さそうな、とても大きな樹の切り株があった。導かれるままにイシトは素直に座った。何かも、同じ様に腰掛ける。
「この樹は美しい太陽を果実につける、それはそれはとても大きな樹だったんだ……。だけど、自分の事しか考えない者たちによって切り崩されてしまった……。なかなかうまくいかないね」
切り株を撫でながら何かは言う。その言葉がとても悲しそうだったので、
「次はうまくいくさ……大丈夫だよ」
なぜだかそんな事を口走った。何かはにっこり笑う。
「イシト、一緒に育てない?」
「え?」
「君と一緒なら、きっと、次はうまくいく。そんな気がするんだ」
人間離れした美しい、それでいて無邪気な瞳で見つめられる。顔は自分と同じなのに、なぜだかドキッとした。
「わかった……いいよ」
イシトは不思議と気分がよくなり、その御礼がしたい気持ちでうなずいた。
「ありがとう……」
何かは静かに目を閉じた。それにならってイシトも目を閉じる。
目を閉じたら一面の青空が広がっていた。昔、実家の裏山で寝転がったときに感じた、青空と同化したような感覚を思い出した。
このまま、この夢心地のまま空に同化できたら……そう思った。それはとても気持ちいいだろうに……。
そうだ、そうだった。自分はその為に生まれたんだ……。なぜ忘れてたんだろう……。
夢心地のままそんなことを思う。
そのまま、目が醒めた。
これは現実だよな?天井を見上げてそう思う。この現実がさっきの夢の続きのように感じた。ゆっくりと起き上がり、時間を確認する。大体先日と同じ位、起床間近の時間だった。不思議ととても気持ちが高揚していた。空気が凛と研ぎ澄まされているような、いつもの部屋がまた違った空気をまとっているような……そんな感覚を覚える。
ゆっくりと隣のベッドを見る。今日もハソラはいない。
今日も顔出してみようかな。そう思ったが、この気分に浸っていたいのでやめた。もう一度布団に潜る。
だが起床時間がくるまで、イシトは寝付くことが出来なかった。
クルエス僧院の朝は早い。早朝、少年僧兵達は僧院に設置された井戸で顔を洗う。
イシトはぼんやりと列に並ぶ。
「おはよう。早く寝た割にずいぶん眠そうだな、イシト」
僧院に入ってからずっと一緒の相部屋で生活している、しっかり者のルイが話しかけてきた。彼は気さくで世話好きでよく気が付く。話していて楽しい友達だった。
「なんだか、また変な夢をみてさ……」
「イシトの夢話は、聞く限りじゃ想像力豊かで壮大だからなあ。また聞かせてくれよ」
「おう、今度な」
朝、食堂に集まって皆で食事をとる。そういえばハソラが見当たらない。いつもはイシトの斜め前の席が、彼の席だった。
と思ったら、ハソラは飄々とした様子で食堂に入ってきた。髪が濡れてる。朝の自主稽古の後、水浴びをしてたようだ。
「ハソラ、食事の時間は守れ。お前は自由すぎる」
そんなハソラにカイルが声をかけた。
「数分位見逃してくださいよ」
大して反省もしてない様子でハソラは席に座った。
「ハソラ、相変わらずだなあ」
ルイがハソラに話しかけると、にやっと笑ってハソラがいった。
「ルイは律儀に規則を守りすぎなんだよ。たまには羽目をはずせ。はげるぞ」
「ハソラみたいする勇気ないよ」
ハソラとルイのやりとりを見ながら、イシトは黙々と朝飯を食べた。ハソラは出会った当初から随分変わったな、そう思う。四年前、王都まで院長についていったことを機に、ハソラは大分柔らかくなり、皆と喋るようになった。それに、監督係の僧侶たちに大して反抗的な態度もなくなった。すごい変貌ぶりだ、どんなところだったんだ反省室は。皆にそう問われたが、イシトは笑ってはぐらかすしかなかった。正直、なにが彼を変えたのかはよくわからない。気むずかしい人間の心を開くのがイシトの得意技だったが、あまり本人に自覚はなかった。
ハソラとルイは話に盛り上がっていた。
「国王様がグラダ派の粛正に乗り出すって、最近もっぱらの噂だけど、本当かな」
ルイが不安そうに言った。
「俺らももうすぐ任務にかり出されるかと思うと、落ち着かないよ」
「同じナハート教で対立なんて、世話ないよな。イレストリアとの関係もさらに悪化して、いつ戦争になるかわからないのにな」
ハソラはスープをすすりながらどうでもよさそうに言った。
相部屋の仲間たちが最近僧院で話題になっている、グラダ派についての話で盛り上がってるのを、食事を食べながら黙って聞く。
グラダ派。ナハート教を信奉しながらも、神に王権を授けられたというナンビュス王朝に従わないとする一派で、反王朝を掲げるデモ活動を頻繁に行っていた。国王は国を惑わすナハート教をかたった邪教だと発表していた。国王の影響下にあるクルエス僧院も、同じ意向だ。だが、大僧正はグラダ派について沈黙を守り通している。
そんな僧侶に教わった知識を、イシトは丸暗記していた。
「イシト、お前グラダ派についてどう思う」
ハソラがイシトに話を振った。
クルエス僧院内で国王に対して否定的な発言をしたら処罰される。国王を支持するのが体裁的にはいいんだろうが。イシトは口に含んでいたパンをゆっくり飲み込んでからこう言った。
「国王陛下の治世についても、グラダ派についても勉強不足なんで、俺は正直よくわからない。どちらがナハート神の御心にかなってるか、じゃないかな。大僧正様がなにをお考えなのか、それがわかればね」
実際あまり考えていなかった。正直、なにが正しいかわからないし、自分は馬鹿なのであまり考えても仕方ないと思っていた。
「そうだよな……」
ハソラが目を伏せる。
イシトの隣に座っていた、乱暴者のチックが声を上げた。
「イシト、お前は本当に馬鹿だなあ。神に選ばれし国王陛下の御代に逆らう反逆者たちの方が、おかしいに決まってるじゃないか」
ハソラがそれを聞いて鼻で笑った。チックがハソラを睨む。この二人は今でもあまり仲が良くない。
「ハソラ……お前国王陛下に何か不満でもあるのか」
「いや……」
ハソラが笑いをこらえながら言った。
「おい!!しゃべってないでさっさと飯を食え!!!」
カイルの一喝に、皆が黙り込む。
イシトは静かにご飯を食べたかったので、その一声は有り難かった。
ハソラがひそひそ話をしてくる。
「イシト、今日の務めの後、話があるんだがちょっと抜け出さないか」
「いいよ。いつものところ?」
「ああ、あそこで話そう」
ハソラは、家族のことは話したがらない。が、それ以外の打ち明け話を出来る位の仲になっていた。
またなんか悪巧みかな……。少し心配になった。
いつも通りの武術の稽古の後、イシトとハソラはこっそり別々に抜け出して僧院内にある林の茂みの中で落ち合った。ここはイシトとハソラが四年の僧院生活の間に見つけた、いわば秘密基地だった。
「何なのさ、話って」
「今日朝食の時間に話してたよな。ナンビュス王朝とグラダ派の話。お前、正直どっちが正しいかわからない。そう言ってたじゃないか」
「……うん、言ってたけど」
イシトはいぶかしげな顔を作った。嫌な予感がする。
「単刀直入に言うと、俺はグラダ派に興味がある」
イシトは大して驚きはしなかった。ハソラが型破りなのは昔からの事だ。クルエス僧院内でグラダ派を支持したら、危険思想だと言われ、矯正のために特別室に入れられるだろう。ハソラはそういう危険性を厭わないところがあったが、さすがにチック達の前で言うのは気が引けたらしい。
「もうすぐ祝祭の日じゃないか。その日、グラダ派の拠点に行ってみないか」
祝祭の日、ナンビュスの建国記念日である。僧院の一部は一般市民に解放され、僧兵見習い達も瞑想修行に入る。その間、やれば少しだけなら抜け出すことが出来た。それは二ヶ月先だった。
「拠点……なんて、どこかわからないじゃないか」
グラダ派は国王一派から身を隠しながら活動している。本拠地なんて、わかるわけがない。
「クルエス僧院にも、グラダ派はちらほらいる。ここも一枚岩じゃない」
いつの間に。どうやら、ハソラはそういう繋ぎを作ってるようだった。イシトはハソラが心配になった。
「わかった、いいよ」
少し迷った後、イシトはとりあえず承諾した。
「やっぱりお前も、興味あるんだな」
「ないことはないけど、何より俺が断っても一人で行くんだろう。ほっとけなよな、お前って」
ハソラが悪巧みを提案して、ハソラをほっとけないイシトが付き合う。今ではお決まりのパターンだった。
まだ二ヶ月あるから下調べは任せておけ。ハソラは楽しみそうに言った。
「イシト!」
ハッとする。振り返ると自分がいた。いや違う。よく見ると目の色が違う。橙色の光が混じった蒼い瞳。
あ、あいつの夢だ。何故かもう付き合って数年の親友のように感じる。
「お前か、ちょうど良かった。聞きたいことが……」
「それはこっちの台詞だよイシト。これからハソラとどこに行くのさ」
何かはなんだかそわそわした調子で聞いてくる。
「ハソラを放っておけないから、一緒にグラダ派の拠点に行ってくるんだ。危険かどうかは、わからないけど……」
「行かない方がいいよ……」
間髪入れずに何かは言ってくる。
「君はまだ、世の中に触れるべきじゃないよ……君に何かあったら、僕が困る」
「でも、ハソラは止めても聞かないからなあ」
頭をかきながら困った顔を作った。
「放っておけばいいじゃない……それより僕と遊ぼうよ……」
「放ってなんておけないよ。あいつはちょっと目を離したら、危険なことに足をつっこむから。俺が見てないと」
「……止めても聞かないんだね……」
何かはふうっと溜息をついた。
「僕も出来る限り力を貸すよ。イシト……右手を貸して」
右手を貸すと何かはそこに口づけをした。おとぎ話に出てくる、騎士が姫にするように。イシトは驚いた。
「これでいい……。何かあったらぼくの名前を呼んでイシト」
「あ、そうだ……俺はお前の名前が知りたかったんだよ。お前をなんて呼べばいい?」
何かは考え込む。そして口を開いた。
「本当の名前はもう名乗れないんだ……僕の片割れと離れちゃってるから……そうだね……この名前はちょっと不本意だけど……」
「うん」
「エンだよ」
「エン……邪神と同じ名前じゃないか。不吉だな……。ん?……え」
明らかに人間とは違う色彩の瞳をもった何かを見る。そうだ、こいつは人間じゃない、最初そう思ったんだ。こいつと会ってると当たり前の認識が作動しない。夢だからだ。夢……まさか。
エンはクスリと笑った。
「ナハートの体現者にあったら伝えて。必ず取り戻してみせると」
そのまま視界が暗転した。
「イシト!!」
また呼ばれた。静かに目を開ける。
あいつにまた呼ばれたかと思ったら違った。ハソラだ。
「ハソラ……あれ……」
よく見ると林の中で寝そべっていた。
「お前、そこの石に躓いて、そのまま気絶してたんだぞ。大丈夫か」
「え……どれくらい……」
「いや、ほんの数秒だったけど……。打ち所が悪かったみたいだな。起きれるか」
ハソラに手を引っ張られ、そのまま起き上がる。身体がふわふわする。
「お前、普段素早いくせに、よくわからないところでドジだよな……って、なんだその右手の痣」
「……へ」
右手を見た。右手の甲に痣……よくわからないが、模様が出来てる。
「…………」
「……イシト?」
ハソラはあまり経典を読まないからわからないようだ。……この模様は。
「……エン……」
邪神エンを表す紋様が、右手に現れていた。