7 情報交換と今後の方針
魔王が地下室で全てを打ち明けた翌日。二人は改めて互いの情報を交換するために魔王の私室で顔を突き合わせていた。
だが二人の話し合いは始まって数分と経たずして壁にぶち当たった。
「いい加減魔王魔王呼ぶのも変だから、名前教えなさいよ」
少女の至極真っ当ともいえる提案により、お互いに名乗ろうとしたのだが……。
「……名前を忘れた」
「……はい?」
「もう何百年と呼ばれることもなかったからな……」
まさかの名前を忘れるという、普通ならあり得ない事態に陥ってしまっていた。
これには少女も、魔王自身も言葉を失った。
少女は名前を忘れる程他人との接触を絶たれていた魔王の境遇にショックを受け、魔王は単に名前を忘れてしまったことを恥じているようだった。
思い返してみれば、魔王は元の世界の記憶の大半を忘れてしまっていた。家族の顔も名前も思い出せない。
ただ、例外はあって。知識、特に科学や数学の分野は未だに憶えている。これはおそらく、オリジナルの魔術を生みだす際に色々とそのあたりの知識を組み込んだからだろう。
辛うじて日本人であることは憶えていた、というか少女を見て思い出せたが、それ以外の記憶は霞がかかったように酷くおぼろげだ。
これでは記憶障害、喪失と何ら変わりない。魔王は自分のことながら、嘆息を禁じ得なかった。
「……とりあえず、あたしから名乗るわ」
重苦しい空気を無理やり破って少女が切り出した。
「あたしは小暮夕香。夕香でいいわ。アンタと同じ日本人よ」
「小暮夕香、か。如何にも日本人らしい名前だな」
「なんか文句あんの?」
「いや、懐かしい響きだと思っただけだ」
名前の響きだけで郷愁を誘われるなんて、存外人間らしい部分があるものだ。
自嘲気に笑いながら魔王は自身の名前について思案する。
思い出せない以上、それに代わる名を考えなければならないのは仕方ない。忘れた魔王が悪いのだ。だが一から名前を考えるというのは案外難しいもので、魔王は赤ん坊の名前を考える親の苦労を知ることができた。
しばらく熟考するもこれといったものは浮かばず、いっそ魔王でいいんじゃないかと半ば自棄になりかけた時。ふと、自分を見る夕香と目が合った。
「――イザヨイ、なんてどうだ」
「その心は?」
「お前の名前が暮れだとか夕だとか暮れ時を思わすものだったからな。日が暮れれば訪れるのは夜。そこから連想した」
「ふーん。まあ、悪くないんじゃない?」
納得と言わんばかりに夕香が頷く。
「それじゃあ、よろしくね。イザヨイ」
「魔王と勇者がよろしくするのはどうかと思うんだが」
「アンタそこ拘るわね……。どうせあたしは勇者かどうかも分かんない成り損ないなんだから、気にすることもないでしょうに」
「それもそうか」
「そうよ。というわけで、本題に入るわよ」
そう言って夕香は話を切り替える。
「アンタに確認したいことがあるんだけど、いい?」
「ああ」
「イザヨイが人間の大陸に侵攻したのは一度だけ、これは本当?」
「事実だ。何百年か前に一度だけ、怒りに任せて幾つかの都市を潰した。それ以降はこの城から出てすらいない」
堂々と引き籠り宣言をする魔王だが、実際そうなのだ。
あの暴走以降のイザヨイは呆然自失状態で、勇者が訪れたら倒すだけの機械と化していた。それ以前の彼はそもそも人間を害するという考えが頭になかった。
イザヨイの話を聞いた夕香は僅かに顔を顰めた。
「それが本当なら、おかしいわ。あたしは王城で召喚されたんだけど、そこで教えてもらった歴史ではここ百年魔王は勢力的に活動して都市を襲っていることになっている。実際に数年前に潰されたっていう街や村も見てきたのよ」
「全く身に覚えがないんだが……」
「アンタが嘘を吐いてるわけじゃないのは分かってる。でも現実に被害に遭った人達は大勢いる。それに襲撃者達は魔物を引き連れて、自らを魔王だとか配下だとか叫んでたっていう情報もあるのよ」
夕香が直接見聞きしたわけではないのだろうが、その情報をガセと決めつけるにはあまりにも早計が過ぎる。だが事実イザヨイはこの城から一歩たりとも出ていない。となると――
「可能性は二つある」
イザヨイは指を一本立てる。
「一つ。俺に従わない魔族達による独断専行。これに関しては心当たりがある」
「心当たり?」
「ああ」
イザヨイは一つ頷き、苦々しげに息を吐いた。
「自分で言うのも何だが、俺はこれでも人間と友好を結ぼうと動いていた」
それも、聖剣の前に儚く潰えたが。
「だが幾ら魔王とはいえ元人間。魔族の全てが俺に賛同するわけじゃなかった。特に人間を見下す傾向の強い輩は頑なに反対し、俺を魔王と認めないなんて宣いだした」
当時はそういった反乱分子を力づくで黙らせていたが、ある時期を境にパッタリと彼らの反抗は治まった。イザヨイとしては大人しくなってくれて助かった、と当時は思っていた。
今思えば、あれは勇者に倒されたのか、勇者によってイザヨイが亡き者になるのを待っていたのだろう。今ではイザヨイが把握している魔族の存在は一人といない。
「その反対派の生き残りが引き籠りの俺に代わる魔王を立てたか、それとも勇者に俺を潰させるために煽っているのか。どちらにせよ、俺の知るところではないな」
清々しいまでの責任放棄である。言ったイザヨイも少し無責任すぎたか、と今さらながらに反省していた。
「そう。それでもう一つは?」
「こっちは完全な憶測だが……」
イザヨイはもう一本指を立てた。
「人間による自作自演」
そう言った瞬間、夕香の視線の温度が急激に下がった。
「そう怒るな。あくまで可能性であって、何の根拠もない話だ」
イザヨイがそう宥めると、夕香は静かに怒りを治めた。幾分か冷静になったのか反論を呈してきた。
「でも理由がないじゃない」
「そうでもない」
理由なんてものは人それぞれ。それこそ邪教信仰であったり、私欲や私怨であったり。人間の悪感情には際限がないものだ。
それに……。
「おかしいとは思わないか? もう何百年と続けて勝ち目がないと分かりきっているのに、今もなお人間は勇者を召喚して俺に差し向けている。意味が分からない」
途中から思考を放棄していたためこんな気づいて当たり前のことにすら気づけていなかったイザヨイだが、今なら異常だと断言できる。
痛い所を突かれたのか、夕香もむうと唸ると思案顔になる。
「そうだけど、でも……」
夕香としては人間同士が争っているなんて可能性は否定したかった。だが如何せん納得のいく根拠が見つからず、終いには頭を抱えてうがーと叫び出した。
「あーもう。こんなとこであーだこーだ言ったってなにも始まらないのよ! さっさと戻って実際に確かめた方が早いわっ!」
それはいくら何でも短絡的が過ぎるだろう。イザヨイは思わずこめかみを抑えた。
だが夕香はそんなことなどお構いなし、今からでも城を飛び出していきそうだ。
「まあ待て」
イザヨイはずかずかと扉に向かっていく夕香の腕を掴んでそのままベッドに放り投げた。
「あふっ、ってなにすんのよ!」
すぐさま起き上がって喚く夕香。しかしイザヨイはそれを無視して続ける。
「何の考えもなしに乗り込んでどうする。だいたい、今まで一度たりと帰ってこなかった勇者が戻ったりなんてしたら何が起きるか分かったものじゃない」
「じゃあどうすんのよ?」
「考えはある。あるが……」
イザヨイの考える案は、もれなく彼自身が夕香と共に人間の大陸に出向かなければならない。
それ自体はいい。彼女をここまで巻き込んでしまった以上、彼も玉座で踏ん反り返っているわけにはいかない。
しかしイザヨイはこの城から出ることに踏ん切りがつかなかった。正確には皆と過ごしてきた、唯一の証であるこの場所と離別する決心ができなかった。
イザヨイの迷いを察したのか、夕香が問うてくることはなかった。
「一応あたしはあたしで考えてみるわ」
そう言って「髪を切ればなんとか……」などとぶつぶつと呟きだす。髪を切ろうとその黒髪では意味がないだろうに。そこに気づかないあたり、やはり夕香は少しばかり残念なのだろう。
ベッドの上で自分の世界に没頭する夕香を他所に、イザヨイは壁に背を預け天井を仰ぎ見る。
目に映るのは崩れないか心配な程ボロボロな天井。それでいて今に至るまで共に在ってきた城である故に、それなり以上の愛着がある。
根拠はない。だがこの城を出て夕香と共に行けば確実に、自分は二度とここへは戻ってくることはないという一種の予感めいたものがあった。
それはこの城と、過去と決別して現在に戻るということ。
散々過去に縋りついてきて、今さら戻ることができるのか。甚だ疑問なものだった。
ふっと自嘲めいた笑いが零れる。
考えれば考える程に憂鬱になっていく心情とは対照的に、窓から覗く空はどこまでも澄み切っていた。
いざよう者――進もうとして進めない。躊躇ってしまう。彼はどうだろうか。