5 親愛なる家族
ランプを片手に地下へと続く階段を下りていく。一段一段下りる度にコツコツと小気味の良い音が響く。
しばしその音を楽しみながら下りていると階段が終わり、彼の目前に木製の扉が現れる。
扉をくぐって部屋に入ると、ひんやりとした空気に出迎えられる。
薄暗い部屋がランプの灯りに照らされ――部屋の丁度中央あたり、ぽつりと一つの石碑があった。
彼は石碑の前に膝をつき、愛おしげにそれに触れた。指先から伝わるのは冷たい石の感触だけである。
「…………」
言葉には尽くせない想いを胸に、石碑に刻まれた幾つもの名前を指でなぞっていく。その一つ一つが、かつての彼を支えてくれた者達の名だ。
そしてこの世界で唯一の――家族。
全てが終わったあと、彼は地下室へと戻ってきた。
地下室の状況は酷いものだった。床は血の海が広がり、原型を留めている身体は殆どなかった。それでも、誰が誰なのかは分かった。
彼は一人一人丁寧に弔い悔やんだ。それからある程度地下室を修復し、部屋の中央に墓碑を建てた。
〝我が親愛なる家族 ここに眠る〟
以来、彼は度々地下室に訪れては孤独を紛らわすようにかつての日々を想い起こした。
今日もいつもと同じ。繰り返す。
冷たい床に腰を下ろし、ランプの灯りが揺れる中、彼はかつての家族達との記憶に思いを馳せる。
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「おいおい、もう根を上げちまうのかい。魔王さんや」
二メートルを優に越える巨躯の男が身の丈程もある長大な剣を片手に、地に伏せる彼に声をかける。声をかけられた当人こと魔王は無様に地に倒れ伏している。
「ぐっ、相変わらず馬鹿力にも程があるだろ……ガイノス」
痺れる腕で身体を支えてどうにか立ち上がる魔王。その身体はどこからどう見ても満身創痍である。
「そりゃまあな。これでも剣には一家言あるんでな」
「一家言どころか魔族でお前に剣で並べる奴なんていないだろ……」
剣鬼ガイノス。魔族の中でも抜きんでた膂力を以ってして全てを両断する剣と、その額から生える二本の角から剣鬼と畏れられる魔族。魔族屈指の剣の実力者であり、素人同然の魔王の剣の指南役を自ら買って出た男である。
ガイノスは胸を張って豪快に笑うと、その大きな掌を彼の肩に載せた。
「いい顔するようになったじゃねえか。ちったぁ気が晴れたか?」
言われて魔王はバツが悪そうに頬を掻いた。
この頃は丁度最初の勇者との戦いから一年程が経った時期だった。
側近達の尽力の甲斐あって、彼はここ最近大分顔色が良くなっていた。当初こそ背にどんよりと重い空気を背負っていたものの、今ではそれもない。ガイノスとこうして鍛錬する程度には快復していた。
「悪いな、気を遣わせて」
「なあに、気にしなさんな。いつまでも魔王さんがしけた面してたんじゃあ、城の奴らも気落ちしちまうからな」
バシバシと彼の背を叩くガイノス。到底魔王に対する態度とは思えないが、本人がこの距離感を許容しているので何ら問題ない。
「そら、姫さん達のお出迎えだ。シャキッとしろや」
にやりと笑みを浮かべてガイノスが顎で指し示す先には、大慌てでこちらに駆けてくる幾つもの影があった。
「魔王様! 何も言わずに出歩いたら心配するじゃないですかっ」
先頭を駆けていた金髪の少女――イルムが開口一番にそう言った。
「悪い悪い、ちょっと気分転換でもしようとな」
「気分転換はいいですけど、せめて一言くらい言ってくださいよ。心配するこっちの身にもなってください……」
本気で心配していたのだろう。イルムのチャームポイントである先の尖った尻尾が心なしか垂れ下がっている。その後ろでは一緒に探し回っていた側近達が揃えて首を縦にしている。
過保護だなぁ、と頭を掻く魔王。しかし彼らの心配も当然である。
勇者との戦いからずっと魂が抜けたような状態だったのだ。側近達は魔王が心の呵責に耐えられず自殺してしまうのではないかと、常々心配していたのだ。ここ最近は大分快復しているとはいえ、それでも、もしもを思わずにはいられないのだ。
イルムの小言を右から左へと聞き流していると、くいっと腕が引かれる。
「大丈夫……?」
小柄な身体をすっぽりローブで覆い隠した少女が言葉少なに問う。
「ああ、心配かけてごめんな。レム」
魔術師レム。ガイノスが剣を指南するのに対して、レムは魔術の先生役である。その実力はガイノスと同じく折り紙つきで、その小柄で人見知りがちな性格とは裏腹に、やろうと思えば城を消し飛ばせるくらいの実力を有している少女である。
魔王はまるで年の離れた妹に接する兄のようにレムの頭を撫でた。レムが心地よさげに目を細める。
「よかった……」
ほっと一安心したと言わんばかりに、レムが無邪気に笑った。その笑顔に魔王もつられて笑みを零す。そんな二人の様子を微笑ましいものを見るように見守る側近達。
その光景は、どこからどう見ても温かな家族にしか見えなかった。
穏やかで平和な時間だ。とても殺伐とした異世界とは思えない、幸せな光景。
この幸せがずっと続くと信じて疑わなかった。
ガイノスと剣を打ち合い、レムとネタ魔術を作って遊んで、イルムに小言を零される。そんな日常がいつまでも続くと思っていた。
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今でも鮮明に彼らの笑顔が浮かぶ。いつでも、どんな時でも。浮かぶのは笑顔ばかり。
「どうして……だろうな」
いつも、どれだけ夢想しても。彼らが向けてくるのは笑顔ばかり。記憶の中の彼らが憎悪を向けてくることはない。
それが何よりも辛く、魔王の心を深く抉る。
「俺のせいなのに、なあ……」
知らずうちに頬を一筋の雫が伝った。
いっそ恨みごとの一つでも言ってほしかった。枕元にでも立って、祟ってくれた方がよかった。
どうして、いつも笑っているんだ……。
「もっと早く気づいていたら。結界を過信していなければ。傍にいて守ってやれてれば……」
意味のないたらればを零す。
失った当初は理不尽な現実に癇癪を起して子供のように喚き散らしていたが、今ではそんな気力も枯れ果ててしまった。
淡々と言葉を連ねる一種の作業を続ける魔王。そこにあるのは憤りでも悲愴でもない。もう取り戻すことのできない〝日常〟への羨望と諦観。
手を伸ばしたところであるのは冷たい石の感触だけ。
途方もない虚無感に苛まれて魔王は、
「ああ――はやくそっちにいきたいよ」
心の底からの本音を洩らしてしまった。
それがいつもと何ら変わりのない空虚な日々の中だったのならば、何一つ問題はなかった。
だが――
「――なに言ってんのよ、アンタ」
不意に背後から聞こえた声に、魔王は冷や水を浴びせられたように頭が冷えた。
彼女の存在を失念していたわけではない。頭の片隅で憶えてはいた。だがそこまで頭を回す余裕を失っていた。完全に彼の失態である。
魔王は気取られぬように頬を伝った雫の跡を拭い、後方を振り返って声の主に文句を言う。
「人が昔を懐かしんでいる時に水を差すな」
剥がれかけていた魔王の仮面を被り直して彼は平静を装う。
「昔を懐かしむ、ねえ……」
目を細め少女は訝しげに魔王を見やる。頬がほんのり上気しているうえ、まだ若干髪が濡れていることから風呂上りなのが分かる。
勧めたのは自分だが、魔王は本当に入るとは思っていなかった。あれだけボロボロで歩くのも辛い人間がまさか風呂に入って平然とした顔で歩き回れると誰が思うだろうか。普通は思わない。
少女の異常な回復力に少し薄ら寒いものを感じる魔王だった。
「懐かしんでいるようには到底見えなかったんだけど」
「気のせいだ」
「嘘をつくならもっとマシな顔して言いなさいよ」
呆れたように溜め息を吐きながら少女が言った。
「鏡で自分の顔を見てみなさいよ」
「生憎この城に鏡はない」
「そんなことが訊きたいんじゃない」
魔王がまともに取り合おうとしないためか、少女の機嫌が目に見えて悪くなる。
「アンタ、自分がどんな顔してるの分かってる?」
「威風堂々、威厳猛々しい魔王の顔じゃないか?」
「真逆よ。覇気も生気も感じられない、死人みたいな顔してるわよ」
「…………」
魔王はただ口を噤むしかなかった。あまりにも心当たりが多すぎて、言い返す言葉が見つからない。
「考えてみればおかしな話よね。なんだって魔王のアンタが勇者の能力について詳しいのか。どうしてあたしが日本人だって分かったのか」
そこで少女は言葉を区切り、魔王の目をしっかり見据えた。
「まだあたしに隠してること、あるんでしょ」
曇りのない二つの瞳が魔王を射貫く。それは言外に「言い逃れは許さない」と言っているようだった。