40 神話
かつて世界はただの荒地であった。生命の一つも宿らない不毛の荒れ果てた大地。
そこに一つの偉大なる生命が降り立った。
一にして十、祖にして主。この世に遍く数多の命を生み落した原初の女神。
其の名はオリヴィア。
女神オリヴィアは荒涼とした大地に幾つもの生命を生み出した。
人の形をしているものもあらば、知性を持たぬ畜生、自然を形作る植物など。生まれた生命の形は多種多様であった。
女神オリヴィアは生み落した子供の繁栄を祈り、自らは天界から見守る存在になった。
祖を失った子供達は互いに手を取り合い、女神オリヴィアの祈りを叶えんと繁栄の道を突き進んだ。
しかしある時、子供達は争いを始めた。
発端は人の形をしながらも人ならぬ器官を有する子供。後に魔族と獣人と呼ばれる者達による女神オリヴィアへの反乱だ。
子供達は手に武器を取り、血を流して争いあった。流れ落ちた地は大地を穢し、子供達に更なる闇を植えつける。繁栄の道はいつの間にか破滅の一途に変わっていた。
自らの子供達が争う様を見た女神オリヴィアは怒り、そして嘆き涙を流す。
女神オリヴィアの怒りは大地を鳴動させ山脈を築いた。
女神オリヴィアの涙は大河を為し、大海を生みだした。
女神の怒りと嘆きに触れた子供達は争いを止めた。しかし人間、獣人、魔族の間に刻まれた溝はあまりに深く、三種族の歩み寄りは絶望的であった。
それでも女神オリヴィアは何時の日か子供達に永遠の平和が訪れると願い、今も天界から見守っている。
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「これが古くから教会に伝わる神話です」
ぱたりと聖書らしき装丁の旧い本を閉じ、神父は長い語りを終えた。
なかなかに長い話であったが、イザヨイも夕香も真剣な面持ちで最後まで耳を傾けていた。神父が語る神話の中に聖剣に纏わる話の一つぐらいあるかと期待していたイザヨイであったが、結果は空振り。神話自体は非常に興味深いものであったが、それでも拍子抜け感は否めなかった。
一方夕香は神父の話に引っ掛かりを覚えたのかしきりに首を傾げていた。
「あの、一つ質問いいですか?」
「構いませんよ」
「どうして獣人や魔族は争いを始めたんでしょうか?」
夕香の質問に神父は困ったような顔になる。
「実は分かっていないのですよ。一説には女神オリヴィアに敵対する邪神が唆したとか、元々彼らには人間程の知性がなかったなどと言われていますが、真相は定かではありません」
「そうですか……」
その答にこれ以上食い下がっても意味がないことを悟り、夕香は大人しく矛を収めた。
代わりとばかりに今度はイザヨイが口を開く。
「神父個人としてはどのような見解を持っているんだ?」
「そうですね」
丸メガネのブリッジをくいっと上げて神父はしばし瞑目する。
「私的な見解ですが、彼らには人間程の知性や理性がなかったのではと思いますよ。もしあったのならば、暴力に訴えるような争いなど起きませんし、無益に血が流れる争いが今日まで続いているはずがありませんから」
言って神父は争いの絶えないこの世を憂うように嘆息を洩らす。神父にとって、女神オリヴィアの願いに反した今の世界の在り方は嘆かわしいことこの上ないのだろう。
「なる程、一理ある」
神父の意見にイザヨイは比較的肯定的な姿勢を見せた。それが夕香には意外だったらしく、隣から驚く気配が伝わってくる。
イザヨイは誤魔化すように曖昧に笑い、懐に手を伸ばす。
「貴重な話を聞かせていただきありがとう。これは少ないが取ってくれ」
懐から取り出したのは小さな巾着袋。中身は銀貨が数枚入っている。
「貴方がたに女神オリヴィアのお導きがあらんことを」
神父は祈りを一つ捧げるとイザヨイの手から丁寧な手つきで巾着袋を受け取った。
「帰るぞ、夕香」
「あ、うん……」
夕香を引き連れてイザヨイは教会をあとにした。
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マルシェルグでも比較的上流層にあたる地区の一画。高級宿屋が並び立つ地区の一つにイザヨイと夕香は宿を取っていた。
テルムスと違って暴走列車夕香の再来もなく、余裕を持って取った部屋は二つ。そこだけは譲れぬと夕香が言い張ったのだ。
しかし今、二人は一つの部屋に集まっていた。正確には夕香がイザヨイの部屋に上がり込んでいた。
ふかふかのベッドに身を沈める夕香とその様子を備え付けの椅子に座って呆れた眼差しで眺めるイザヨイ。部屋に入ってからかれこれ一時間以上も夕香はベッドの上に何をするでもなく居座り続けているのだ。イザヨイもそろそろ我慢の限界に達しそうであった。
「いつまでいるつもりだ?」
痺れを切らしてイザヨイが夕香に尋ねる。
夕香はごろりとベッドの上で一つ寝がえりを打つと、首だけ起こしてイザヨイを見た。
「別にぃ~……そういえばさ」
寝転んだ体勢から胡坐をかいて、ふと気になったとばかりに疑問を呈する。
「神父の話、アンタはどう思う?」
「どう思う、か……」
イザヨイは徐に腕を組んだ。
「神話といったが、あんなものは大部分が空想の作り話だろうな。真に受けることもない」
「そ、そう……貴重な話が聞けたとか言ってたくせに」
「全くの無駄だったわけではないぞ。ただあまりにも個人の脚色が入り過ぎた話を鵜呑みにするのはよくないというだけだ」
言ってイザヨイは神父が語った神話の内容を脳裏で反芻する。
「注目すべきはやはり三種族の争いだろう」
「あたしもそう思うけど、争いの原因は分からないって神父は言ってたじゃない」
「あの神話を語り継いできたのは誰だ?」
脈絡のない唐突な問いに夕香は首を捻る。
「誰って、そりゃ教会の人でしょ?」
「ああ、そうだ。教会の『人間』が語り伝えてきた神話だ」
人間の部分を強調したイザヨイの物言いに、夕香も彼の意図を察した。
「所詮、歴史や神話なんて見た者語る者によって好き勝手脚色改変されるものだ。その内容が自分にとって不都合ならば都合が良いものにも平気でするだろうな」
「つまり、あの神話は丸っきり嘘ってこと?」
「全てが全てとは言えないが、少なくとも真実だけで構成されているとは思えないな」
「そっか。だからアンタは怒らなかったんだ……」
教会での獣人や魔族を侮辱するともとれる神父の言葉にイザヨイが特に反応を示さなかった理由。それは単純に神父の話をまともに取り合っていなかったからだ。それが分かって夕香は得心がいったと小さく頷いた。
「それで、アンタはこれからそれを確かめに忍び込もうってわけね」
「…………」
「図星ね」
黙り込むイザヨイ。内心では驚愕していた。前々から勘がいいと認識していたが、まさか行動を読まれていたとは。さしものイザヨイも嘆息を禁じ得ない。
「あたしも行くわよ」
「一人で十分だ。それに、気配を隠せないお前がいては邪魔になるだけだ」
「ぐぬっ……」
予想していただけにイザヨイは的確な切り返しで夕香を黙らせる。
気配を消す。言葉にすれば簡単そうに思えるが、その実非常に難しい。イザヨイは魔王城でのガイノスとレムとのかくれんぼで気配の消し方に関しては熟知しているが、夕香は違う。持ち前の勘の良さで敵の気配を察知することはできるが、生きている限り生じる生の気配を隠すことまではできない。
夕香もこそこそ隠れるのは性に合わないと自覚しているのだろう。それ以上食い下がることもなく大人しく引き下がった。
だがその顔には不満や心配がありありと滲み出ていた。
「心配するな。へまなんてしやしない」
「別にアンタが失敗するなんて思ってないわよ。そうじゃなくて、アンタ、全部一人でしょいこもうとするじゃない。今だって、あたしに隠し事してるでしょ?」
夕香の鋭い指摘にイザヨイは気まずげに目を逸らす。その反応が隠し事をしているのを肯定していた。
「責めてるわけじゃないわよ。多分、あたしが頼りないのが悪いんだし……」
「頼りないわけじゃない。ただ……知る必要がないから」
言ってイザヨイは自分で気づく。これでは魔王城での問答と変わらない。必要がないからなどと言って誤魔化して逃げているだけだ。
そうやって誤魔化して逃げ続けていれば、夕香に不審がられてしまう。必然不信感を抱かれこれから先の行動に支障が出かねない。それはイザヨイにとって面白くないことだ。
夕香からの信用と情報の秘匿。二つを天秤にかけた結果、イザヨイはいくらかの妥協を決めた。
「何があったか、きちんと話す。だから大人しく待っていてくれ」
「……約束よ」
「ああ」
渋々といった感じで夕香は納得し、ベッドを立って部屋を出て行った。
やはり夕香がイザヨイの部屋に居座っていたのは彼の単独行動を見張るためだったようだ。
広い部屋に一人残されたイザヨイは教会潜入に向けて準備を始めた。