36 騎士の誓い
魔族と人間の激戦から時が流れ、街が戦争前の穏やかさを取り戻し始めた今日日。
イザヨイと夕香はまだ夜も明けぬ頃合いにテルムスから王都方面に向けて出立とうとしていた。
今日に至るまで色々とあった。
リリスから言われた通り夕香はランクが一気に上がり、周囲からの注目が更に大きくなって自由に動き辛くなった。テルムスの英雄として権力者達が夕香を街に留めようと画策していたのだろう。冒険者ギルドや一部の貴族が取り入ろうと動いて、ここ最近夕香の周囲は非常に騒々しかった。
街の市民からはすれ違う度に英雄様と感謝され、リリスのようにファンなるものに四六時中追い回され、様々な人からゴマを擦られる。そんな状況に陥って夕香が根を上げたのが先日。
所詮小市民の夕香にとって英雄扱いは到底耐えられるものではなかったのだ。故に夕香は可及的速やかにこの街を出ようとイザヨイに提案した。
イザヨイもそろそろ参る頃だろうと予想していたので否はなかった。
出立ちは市民達が寝入っている時間帯に決定した。でないと大騒ぎになりかねないし、止められるかもしれないからだ。
この街を去ることは極一部、信用できる相手にのみ伝えた。その一部とはリリスを始めとしたギリルなどの交流の深い冒険者と、個人的に仲良くしていた口の固いあのギルド職員、それとダニエル商会支部長のジェノバだ。
皆夕香が去ることを惜しんでいたが止める者はいなかった。全員、何となしではあるが夕香に確固たる目的があるのを察していたからだ。故に口を揃えて、頑張れ、と激励して送り出してくれた。
そこで別れに思わず涙する夕香という一幕があったりもしたが、これで心おきなく街を去ることができるようになった。
「この街にも結構愛着が湧いたわよね……」
感慨深げに呟いて夕香は背後のテルムスの街並みを眺める。
この街での滞在期間は一カ月を超える。その間に出会った人達と激動のような日々と出来事があったのを思えば、夕香の想いも大袈裟なものではない。
「また来れるかしら」
「分からないな……」
夕香の隣に立つイザヨイが曖昧に答える。
イザヨイ個人の心情としては、全てが終われば夕香にはこの世界からおさらばして元の世界に戻ってほしい。こんな殺伐とした世界に彼女が染まり切ってしまう前に。
だが夕香にそれを言える筈もなく、曖昧な答えとなってしまう。しかし夕香はそれを大して気にも留めず、そっか、とだけ返してテルムスに背を向ける。
「さっ、行くわよ」
「そうだな」
テルムスへの心残りを断ち切るように二人は街並みに背を向け、門へと向かう。
この時間帯、街の門は固く閉ざされている。その状態で二人はどう街の外へ出るのかと言えば、夕香がイザヨイを抱えてあの防壁を越えるという力技であった。
確かにイザヨイならそれを為し得ることができるし、幻影魔術で姿も隠せる。街の出入りは辺境故記録されていないので気づかれることもない。ある意味最善の方法ではあるが、どうにも無計画感が否めない。
実際出立ちを決めて次の日の行動なので無計画ではあるのだが。
静まり返ったテルムスの街を二人は歩き、やがて門の前まで来た。
門番は街の内側にはいない。外側で警戒に当たっているのだ。故に二人は姿を隠すこともなく堂々と閉ざされた門の前に立つ。
「準備はできた?」
夕香の問いに頷きを返そうとして、イザヨイは後方から駆けてくる一つの気配に動きを止めた。
「ユウカ君……!」
「えっ、リリス……?」
予想外の登場人物に夕香が戸惑いの声を上げる。
まさか今さら止めに来たのではあるまい。リリスもまた昨日の時点で心おきなく送り出してくれた人達の一人なのだから。
なら、一体全体どうして。
息を軽く乱しつつ駆け寄ってきたリリスはイザヨイを一瞥し、それから夕香と真正面から向かい合った。
「ユウカ君。こんな出立ちの時に悪いとは思ったけれど、一つ僕のお願いを聞いてくれないかな?」
「お願いって、内容にもよるけど……」
唐突な申し出に困惑する夕香だが、他ならぬリリスからの頼みとあらば無碍にはできない。
どんなお願いがくるか若干夕香が身構えていると、リリスは腰に差していた騎士剣を抜いた。
「えっ……」
別の意味で身構える夕香。しかし隣に立つイザヨイは特に警戒することもない。それは偏にリリスを信用しているのと、彼女から敵意の類が一切感じられないからだ。
此度の戦いの最中で失われなかった騎士剣の剣先を天に向けて掲げ、リリスは流れるような動作で夕香に跪く。
「私、リリス・クレイストは騎士としてこの剣を貴方に捧げたい。貴方を護る為、貴方と共に戦う為、貴方を我が主として仰ぎたく思います。この願い、聞き入れて頂けるでしょうか?」
常の貴公子然とした冒険者ではない、一人の騎士としてリリスが名乗りを上げた。そんな彼女に夕香は戸惑いを隠せない。
大切な仲間であるリリスからの願い。一人の騎士として夕香を主と仰ぐこと。それに対して夕香は返答に僅かばかり逡巡するも、ややあってリリスの申し出に首を縦に振った。
「あたしでよければ」
夕香の返事にリリスはゆっくりと面を上げる。
天に向けていた騎士剣を持ち替えて刃先を地に、その状態で夕香に騎士剣を捧げるように差し出す。
「今この時より、私の剣は貴方の為だけに捧げます」
厳かに終わりの言葉を告げ、誓いの儀式は終了した。
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「テルムスが落ち着いたら僕も二人を追うよ」
清々しい笑顔でリリスはそう告げた。
「本当なら今すぐにでも二人についていきたいんだけどね。ユウカ君がいなくなって僕までいなくなったら有事の時に困ってしまうから」
「ご、ごめん。何か全部押し付けるみたいで」
申し訳なさげに目尻を下げる夕香。
実際この状況下で英雄視されている夕香が雲隠れするのはテルムスに大きな衝撃を与える。それが一過性であろうと、市民は不安になり権力者は大慌てで夕香を探し回ることだろう。
たった一人の人間がそこまでの強大な影響力を持ってしまっている時点で問題ではあるが、今は戦後間もない。致し方あるまい。
リリスは気にするなとばかりに首を振った。
「ユウカ君の気持ちはよく分かるし、二人にも目的がある以上ここに留まれないのは仕方ない。それを無理やり止めようとするのは野暮だからね」
「リリス、本当にありがとう……」
瞳を僅かに潤ませてまた泣き出しそうになる夕香。
そんな夕香を気遣うようにリリスは微笑み返し、ついで隣のイザヨイへと視線をずらす。
「僕なりに覚悟を示したつもりだけど、どうかな」
唐突の問いに、イザヨイはこれがあの酒場でのリリスの答えなのだと悟った。
何があったとしても、夕香の味方であってくれ。イザヨイの頼みに対してリリスはこれ以上にない程明確な形で答えを示した。
騎士として誓った以上、リリスが夕香を裏切ることはあり得ない。騎士を知らぬイザヨイには分からないが、それでも並々ならぬ覚悟があることだけは理解できた。
リリスはたとえ何が起きても夕香の騎士だ。夕香が勇者であることを知っても、天変地異が起きようとも、リリスは夕香の味方でいてくれるだろう。
それだけが分かれば十分。イザヨイはリリスに対してほんの微かに笑みを返した。
「そろそろ行くぞ夕香」
仄かに群青へと変わりつつある東の空を見やり、イザヨイは未だぐすぐすと鼻を鳴らす夕香に言った。
「分かってるわよ。リリス、それじゃあここでお別れね」
目尻に涙の跡を残しながら夕香は晴れやかな笑みを浮かべる。
リリスはそんな夕香の表情に微笑ましげに頷き、ふと思い出したように夕香に歩み寄る。
「忘れものだよ」
そう囁いてリリスは夕香の頬に優しく口づけを落とした。
「へっ……?」
予想だにしなかったリリスの行動に夕香は間抜けな声を洩らして硬直。隣のイザヨイは頭痛を堪えるようにこめかみを抑えた。
「イザヨイ君。僕は諦めないよ」
意味深な笑みをイザヨイに残してリリスは颯爽と背を向けて歩き去っていった。
しばし呆然と立ち尽くしていた夕香だったが、キスされた頬に手を触れると途端に耳まで真っ赤になって悶え始めた。
声にならぬ叫びを上げて悶える夕香を横目に、イザヨイは離れていくリリスの背を半目で睨んだ。
「全く冗談じゃないじゃないか……」
力なく呟いてイザヨイは未だ悶え続けている夕香を強引に担ぎ、幻影魔術で姿を消した。
その後二人は無事テルムスを脱出した。
夕香がいなくなったことでテルムスは大騒ぎになるも、領主や冒険者ギルド、並びにリリスが動いたことで混乱は早期に治められた。
こうして一カ月を越えるテルムスでの滞在は終わりを告げ、イザヨイと夕香の一行は王都へ向けて歩み始めた。