35 王の器
ぞろぞろと魔物の大軍が森を行軍している。彼らは皆、己が仰ぐ魔族の指示によって人間の街を蹂躙するべく集い、そしてその魔族の指示によって今は己が元いた場所に戻っている途中であった。
元より生息していた地が境界の森である魔物は大した行軍ではないが、魔族の大陸の奥地からやってきた魔物の帰路は長い。それ故か、魔物たちの表情はどこか物憂げにも見えた。
そんな魔物の行軍の真っ只中である境界の森の一画、適当な樹木に背を預けて地面に座り込むリュヴィウスと対面の気に凭れかかるイザヨイ。
人間魔物入り混じる戦場から場所を変え、落ち着いて話をできる場所としてイザヨイがここまでリュヴィウスを運んだのだ。
二人を取り巻く空気は最悪といっても良い程に険悪だ。何せリュヴィウスがイザヨイに対して憎悪並みの敵意を剥き出しにしているのだから。
しばし睨み合うだけの重苦しい沈黙が流れる。ややあってから、口を開いたのは意外にもリュヴィウスの方だった。
「まさか貴様が生きていたとはな、魔王」
吐き捨てるように放たれた魔王のワードにイザヨイが僅かに驚きの相を浮べる。
自分の顔を覚えている魔族がまだ生きているとは思っていなかった。だがそれならばあの強さも納得がいくものであった。
イザヨイが一人心中で納得しつつ、記憶の中に目の前の魔族があったかを探している間にもリュヴィウスは言葉を紡いでいた。
「てっきり崩れた城と共に命を落としたとばかり思っていたが、生きながらえていたとはな。兵器だけあって頑丈だな」
「兵器だと?」
リュヴィウスの口から出た聞き捨てならない単語にイザヨイが反応する。
「ああ、兵器だ」
リュヴィウスはその顔を忌々しげに歪めて言った。
「人間が召喚した勇者に対抗する兵器、それが貴様だ」
事もなさげに、さも常識を説くように告げられた事実にイザヨイは驚愕のあまり目を見開く。
自分が兵器、ただ勇者に対抗するためだけに呼ばれた兵器であった。その事実自体はイザヨイに大したショックを与えたわけではなかった。イザヨイが驚愕しているのは自分が兵器として魔族達に見られていることを、今初めて知ったということだ。
仮にも魔王として戦っていた自分の耳に、一度たりとそんな言葉は入ってこなかった。イルムやレム、ガイノスや側近に城勤めの多くの魔族達。彼らの誰一人として自分のことを兵器とは呼んでいなかった。
しかし目の前の魔族は然も当然の如く自分を兵器だと罵った。それが普通の常識であるかのように。
これはどういうことだ、とイザヨイは珍しく困惑する。そんな彼の心境など構わず、リュヴィウスは声音に憎悪をさえ滲ませて続ける。
「だが貴様は兵器ではなく魔王として君臨した。不満を呈する者は力で黙らせ、己の近しい者だけを護る、我々魔族を顧みないただの独裁者としてな!」
噛みつかんばかりに激情を露わにしてリュヴィウスはイザヨイに食ってかかる。今日ここに至るまでに溜め続けた鬱憤全てをぶつけるが如く。
「貴様のせいでどれ程の同胞が散っていったと思う? 親しき者を失って城に引き籠っている間に、どれだけの同胞が倒れたか知っているか!?」
目を血走らせ口角泡を飛ばし、それでもまだ言い足りぬとリュヴィウスは吠える。
「全ては貴様が招いた、貴様がもっと魔族を大切にさえしていれば、こんなことにはならなかったのだ……!」
悔しげに歯噛みし拳を握り締めるリュヴィウス。
リュヴィウスは魔族を心から愛していた。護りたいと思える者が数多くいた。肩を並べて共に戦う戦友がいた。だがそれらは全て勇者によって尽く滅ぼされてしまった。
もしイザヨイが城に引き籠っておらず、勇者との戦いに自ら赴いていたならば失われなかった命があった。それがリュヴィウスにはどうしても許せなかった。勇者も憎いが、それ以上に彼はイザヨイが憎かった。殺せるものならば今この場で八つ裂きにしてしまいたい程に。
しかし、リュヴィウスはふと敵意を霧散させると諦観めいた笑みを浮かべた。
夕香と戦って激しく消耗した現状では、一矢を報いることすら難しい。むしろこの場においてはイザヨイがリュヴィウスの生殺与奪を握っている。そんな状況下でこれ程までにイザヨイを罵ればどうなるか、想像できぬ程リュヴィウスは愚鈍ではない。
しかしそれでも、リュヴィウスは言った。
「所詮貴様は魔族であっても召喚された人間だったのだ……」
言いたいことは全て言い尽くしたとばかりにリュヴィウスは四肢を投げ出した。
イザヨイはそんな彼をしばし見下ろしていたが、ふと思い至ったように剣の柄へと手を伸ばした。
剣を抜き放ち、恐怖を煽るかのように剣を見せつけながら樹を背に座り込むリュヴィウスへと歩み寄る。一歩、二歩と二人の距離が徐々に縮まっていくと、不意に周囲の茂みががさりと音を発して揺れた。
「お待ちください、陛下!」
イザヨイとリュヴィウスの間に飛び込む一つの影。それに続いて次々とイザヨイからリュヴィウスを庇うように出てくる幾つもの影。その正体は姿を確認せずとも分かる、全員魔族だ。
魔族達は一様にイザヨイに対して恭しく跪く。その姿はまさしく王に対する臣下の態度であった。
「この度のリュヴィウスが犯した度重なる非礼、心からお詫び申し上げます。どうか、我々の首で剣をお納めてくだされ、陛下」
そう言って僅かに顔を上げたのは先頭にいた女の魔族。
「お前は……」
イザヨイは進言した魔族の顔を見て軽く目を剥く。
魔族の正体は商会支部長ジェノバの付き人であった女だった。身のこなしも立ち居振る舞いも只者ではないと警戒はしていたが、まさか魔族であったとは思いも寄らなかった。
しかし、これで得心がいった。彼女ならばイザヨイ達の動向を把握できるしイザヨイが魔族であることも気づける。隠者としての条件は見事に満たしていた。
相対して魔族とイザヨイが気づけなかったのはやはり固有能力が原因だろう。現に今の彼女からは歴とした同族の気配が感じられる。
ずっと懸念していた事項の一つが解決してイザヨイが一人安堵していると、突如割り込んできた闖入者達にリュヴィウスが物凄い剣幕で怒鳴り出した。
「何故出てきた貴様ら!? あれ程出てくるなと言ったであろうが!!」
「黙りなさいリュヴィウス!」
リュヴィウス程の男の怒気に当てられても女は怯まず、それどころかリュヴィウスを一喝してピシャリと黙らせてしまう。
「陛下、どうかお許しを。この者は頑固で不器用で頭が硬い男ですが、それでも魔族を誰よりも愛しております。もし、この場で彼が絶えたら本当の意味で魔族が終わってしまうのです!」
徐々に女の言葉に重さと熱さが籠り始める。そして彼女の後ろに同じく跪く魔族も同じ意とばかりに頷く。
「だから、どうかリュヴィウスだけはお見逃しください!」
再度、女が深々と頭を垂れる。それに合わせて後ろの面々も地に額を擦り付けんばかりに平伏した。
「貴様ら……なんて馬鹿な真似を……!」
己の為に命さえ差し出そうとする魔族達の姿に、リュヴィウスは何も出来ない自分の無力さに歯噛みする。悔しさに握り締めた拳からは血が滲んでいた。
そんな彼の姿を一瞥して、イザヨイはやや困惑気味に頭を掻く。
「悲壮な空気のところ悪いが、その男を殺すつもりはない。だから顔を上げろ」
「は?」
「え?」
信じられないカミングアウトにその場にいた魔族の全員が間抜けな声を洩らして一斉に顔を上げる。リュヴィウスさえも、こいつは何を言っている、と言わんばかりにイザヨイを見上げていた。
魔族達の怪訝な視線を一手に浴びながらイザヨイは溜め息混じりに口を開いた。
「言ったろう。お前を倒したのは夕香であって、俺ではない。故に俺にお前を殺す資格はない」
「で、では、何故剣を抜いたのですか?」
恐る恐るといった具合に先頭の女が問う。
「理由は単純明快、さっきからずっと俺達を見ていた誰かを引きずり出すためだ」
「貴様っ……!!」
途端に殺気を膨れ上がらせるリュヴィウス。イザヨイが己をだしに他の魔族を誘き出し始末しようとしている、と考えたのだろう。
イザヨイは今にも飛びかかってきそうなリュヴィウスを手で制し、抜いていた剣を腰に戻して攻撃の意思はないと表明する。
「別に始末しようだとか考えているわけじゃない。ただ、ここにいる者達全員に忠告しておきたいことがあっただけだ」
と言ってイザヨイは改めて跪く魔族達を見下ろす。
「これは忠告だ。決して俺達の往く道を阻むな。それさえ守ればあとは何をしようが好きにしろ。だが、もしも再び俺達の前に立ちはだかるというのなら……」
「――ッ!?」
轟! とイザヨイから放たれる魔力を伴った威圧が魔族達を襲う。
恐ろしい程の重圧が掛かり、悲鳴の一つすら上げられない。一瞬でも気を抜けば押し潰されてしまいそうな程の圧力に曝され、魔族達は皆悟る。
もしもイザヨイの道を阻めば、今度こそ容赦なく殺される。命乞いする間すら与えられず、一瞬の内にその生を絶たれてしまうだろう。
圧倒的かつ絶望的なまでの純然たる力の差を見せつけられた彼らに、イザヨイに逆らうなんて思考は生まれない。崩れかけた臣下の礼を整えて口を揃えて誓う。
「我々は陛下の道を決して阻まないと、ここに誓います」
その宣誓にイザヨイは満足げに小さく頷き、今もなお自分を睨むリュヴィウスに目を向ける。
「お前は……言わなくとも大丈夫そうだな」
「何だと……?」
予想外の対応にリュヴィウスが怪訝に顔を顰める。
「お前が自分を慕う者達を危険に曝す真似をするとは思えない。それに、お前は俺を恨んでいても夕香を敵視しているようには見えなかったからな」
「…………」
図星だったのかリュヴィウスは悔しげに表情を歪める。
元より魔族を心から愛しているリュヴィウスが自分の身勝手で愛する者達を危険に曝すはずがない。その心理を読んで精神的優位を取ったイザヨイの読み勝ちだ。
不機嫌に黙り込むリュヴィウスに微かに笑みを零しながら、イザヨイは踵を返そうとしてふと思い出したかのように足を止めた。
「リュヴィウスだったか。お前の言う通りだよ」
イザヨイはどこか壊れものめいた儚げな笑みを貼り付け、懺悔するかのように言う。
「俺は王の器じゃない。所詮は力を持ったただの一般人でしかない凡愚だよ。だから、これから先魔族を率いるのはお前に任せる」
一方的にそれだけ告げてイザヨイはその場を後にした。
後に残ったリュヴィウス達はイザヨイの言葉にしばし呆然としていることしかできなかった。