34 守られた街と宴の夜
テルムス防衛戦から数日が経った夜。避難していた住民の殆どが戻り、街はいつも以上の活気と祝祭ムードに包まれていた。
街のあちこちで食べ物や酒が売られ、酒場はどこもかしこも満員御礼状態。既に日も暮れているというのに、街は夜の帳を押し返さんばかりの騒がしさだ。
このお祭り騒ぎの原因は勿論、数日前の魔族侵攻からテルムスを護り抜いたことだ。
圧倒的戦力差にも関わらず果敢に戦い、テルムスを護り抜いた勇士達を労う祝祭であり、そして今まで蹂躙される一方だった魔族から侵攻を退けた功績を讃えるため企画された催事。しかしその裏には戦いの中で散っていった者達を悼むという意味合いもある。
そんなお祭り状態のテルムスの中でも最も騒がしい場所は何処かと挙げれば、それは――
「我がテルムスの英雄にっ!」
「「「「「「乾杯っ!!」」」」」」
冒険者ギルド内に併設された酒場に、グラスを打ち合わせる音が響く。冒険者達の惜しみない喝采が建物内に木霊した。
喝采が向けられているのは一人の少女。紅い髪と同じくらいに顔を赤くしつつ、照れを隠すように頭を掻いている夕香だ。
「うぅ、イザヨイの言ったことが現実になっちゃったわよ……」
自分を称賛する何十人もの冒険者に、夕香は、どうしてこうなった、と遠い目で彼方を見つめる。
厳つい男や可愛いもの見たさに集る女にもみくちゃにされるテルムスの英雄こと夕香。そんな彼女の姿を隅の席から微笑ましげに見守っているリリス。その対面の席ではイザヨイが度数の高い酒を呷っている。
「それで、夕香が弄られている姿を見れて満足か?」
「もう感無量だね」
イザヨイが訊けば、輝かんばかりの笑顔でリリスが食い気味に答える。いつもよりテンションが高いのはこのお祭りムードに当てられたからか、それとも酒の勢いか。どちらにしても絡まれれば面倒なのには変わりない。
「まさか本当に祭り上げるとは思わなかったぞ……」
グラスの底で氷を回してイザヨイは半目でリリスを睨む。当人は知らぬ存ぜぬと視線を受け流して肩を竦めるのみだ。
戦いが終結した後、しばし人間側は呆け切っていた。数瞬前まで真剣の殺し合いを興じていた相手が唐突に背を向けて敗走を始めたのだ。致し方ないといえば仕方ない。
そこへ魔物の流れに逆らうように現れたぼろぼろの夕香。兵士達は最初こそ魔族かと警戒したが、リリスがエドガーを説得したことによって対応は真逆の大歓声に変わった。
その時リリスが何と証言したかは知れないが、何かしら吹きこんだのだろう。皆リリスの言葉を鵜呑みにして夕香を英雄と祭り上げ始めた。
そこには恐らく幾らかの思惑もあっただろう。例えば中途半端な終わり方をした戦いの終結に、明確な英雄が欲しかっただとか。
ともあれ、イザヨイの冗談は本当に冗談ではなくなってしまったのだ。夕香は理解が追いつかぬままテルムスを護った英雄として担ぎ上げられ、今を時めく冒険者となった。そしてその株は今もなお天井知らずに昇り続けている。
いつの間にか胴上げまでされている夕香を苦笑混じりにイザヨイが眺めていると、
「ああ、そうそう。ユウカ君、今回の功績でAランクまで一気にランクアップだそうだよ」
世間話でもするような気軽な口調で告げられた事実にイザヨイは僅かに驚きの相を浮べるも、すぐに納得とばかりに小さく頷く。
夕香が為したことは有体に言えば街一つを護るという偉業だ。到底ランクEの領分ではない。故にランクアップするのもおかしな話ではなく、むしろ上げなければ対外的にも問題が出てくるだろう。
故にイザヨイは別段否定することもなく、そうか、と素っ気なく返すだけだった。
そんな彼の気のない返事にリリスが不満げに目を細める。
「思ってた反応と違うね。最初の時みたいに目立ちたくないと言うと思ってたのだけど」
「今さらだしな、夕香に関しては」
今回の一件の前から夕香は既に注目を浴び始めていた以上、何れこうなる時がくるとイザヨイは予想していた。だからイザヨイに文句などない。むしろこの展開を望んでいたまである。
落ち着いた様子で空のグラスをことりと置くイザヨイに、リリスは僅かに眉を顰めた。
「僕にはイマイチ、イザヨイ君が何を考えているのか分からない」
先程までの茶化した態度は鳴りを潜め、リリスは懐疑的な目をイザヨイに向ける。
「当初は過保護なまでにユウカ君を大切にしていると思っていた。でも今回のことで考えを改めるに至ったよ」
イザヨイを見る目に責めるような険が宿る。
「あんな命が容易く潰える危険極まりない戦場に、君は彼女を送り出した。結果的には街を護り抜いた英雄として讃えられているけれど、それは本当に結果論だ。一歩間違えれば彼女は命を落としていたかもしれない。それなのに君は彼女を送り出した」
夕香はイザヨイを殴って戦場に駆けつけたと言っていたが、それは明らかにイザヨイが手を抜いたから招かれた結果だ。でなければ、今この場においてすら隙らしい隙を見せないイザヨイが夕香に殴られるはずがないからだ。
それはつまり、イザヨイが意図的に、自らの意思で夕香を送り出したと同義。当初、リリスのファンからのやっかみを自分に向けさせるために態々芝居を打ちまでした者とは思えない矛盾だ。
他にもおかしな点はある。例えば夕香に殴られた後のイザヨイの行方だ。
戦争が終結してほとぼりが冷め始めた頃、リリスは冒険者や知り合いに戦場でイザヨイを見たか尋ね回った。だが誰一人として彼の姿を見た者はおらず、当人に訊けばずっと気絶していたという回答。
嘘だ、とリリスは瞬時に見破った。イザヨイ程の腕が立つ人間が、どれだけ強く殴られたとしても丸一日気絶しているなんてのはいくらなんでもおかしい。自分から受けにいったのならばなおのことだ。
ならば、彼は戦いの最中、一体どこにいたのか。
真実はリリス達の上空でドラゴンと戦っていたのだが、それを話すわけにはいかないイザヨイは苦しくも気を失っていたという嘘を吐いた。それをリリスに聞き咎められ、今に至る。
「一カ月前に詮索はしないと言ったけど、流石にこれ以上は看過できないよ。君達は、一体何者なんだい?」
嘘偽りは許さないと眼光を鋭くするリリスに、イザヨイはちらと夕香を一瞥する。その視線につられてリリスも夕香を見やる。
ギリルや交流のある冒険者と楽しく騒ぐ夕香。沢山の人々に囲まれ必要とされているその光景こそ、イザヨイの望むものだ。
「なあリリス。お前にとって、夕香は何だ?」
「急に何を……」
何の脈絡もない問いにリリスは怪訝に顔を顰めるも、イザヨイの真剣味を帯びた表情に気圧される。
リリスは僅かに逡巡して、やがて決然と言い放った。
「僕にとって彼女は掛け替えのない大切な存在で、何に変えても護りたい人だよ」
この一カ月でリリスは夕香という少女に惹かれ、そして強敵にも臆さず戦う姿に憧れさえ抱いた。
彼女と肩を並べて共に戦いたい。彼女の剣となって護りたい。そういった感情が今のリリスの心中を渦巻いている。
リリスの中に眠る騎士としての心が、かつて主だった少女と交わした約束を果たすに足る相手だと夕香を判断した。戦場で助けられたあの時から、リリスにとって夕香という少女はそれ程までに掛け替えのない存在へとなっていたのだ。
故にリリスはイザヨイに問う。目の前の男が何を考えているのか、それが夕香にどんな影響を及ぼすのか。そしてもしも彼の行動が夕香を害する結果に繋がるならば、その時は――
迷いのない宣言にも似たリリスの告白にイザヨイは、満足げに一つ頷き、
「そうか。なら、一つ頼みがある――」
どこか自虐的な笑みを浮かべてイザヨイは言った。
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席を立ち、もみくちゃにされている夕香の許へ往くイザヨイの背をリリスは呆然と見つめていた。
酒場の喧騒が遠くに聞こえる。そんな錯覚を抱く程に、今のリリスは呆け切っていた。
イザヨイに問われ、自分が夕香に抱く想いをそのままに告げた。その結果返ってきたのは一つの頼みだった。
『――例え何があったとしても、夕香の味方であってくれ』
言葉としては別段おかしなところはなかった。だがそれを言ったイザヨイの纏う雰囲気が、常からは考えられない程に儚く、それでいて底を見通せない奈落の如く深い闇を抱えているように感じられた。
今までにないイザヨイの態度に、リリスは困惑していた。
年齢の割にどこか大人びた雰囲気を持つ途轍もない実力者。それでいて他人には言えぬ事情を抱えた謎多き少年。それがリリスのイザヨイに対する人物評価だった。
だが、何か違う。筆舌には尽くしがたい、ちぐはぐさがあった。一貫性がなさそうで、しかしその行動の全てがたった一つの結果を掴み取ろうとしているように見えた。その望む未来が何かは、リリスには理解できない。
ただ一つだけ、混沌としたイザヨイの闇の中でただこれだけは確かなのは、彼が夕香を本当に大切に思っていること。それだけは分かった。
今はそれだけしか分からない。けれどいつの日か彼らの全てを知ることができたなら、とリリスは夕香を担いでギルドを出ていくイザヨイの後ろ姿に願った。
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悪乗りした大人達の手によって酒を飲まされて前後不覚に陥った夕香を宿のベッドに寝かしつけ、イザヨイはやっと落ち着けると肩の力を抜いた。
シーツに長い紅髪を散らし、規則正しい寝息を立てて眠る夕香。そんな彼女が風邪をひかぬようにと毛布を掛けて、イザヨイは隣のベッドに腰掛けようと一歩下がって――
「――どこいくのぉ……」
毛布の隙間から伸びたか細い手にローブを掴まれた。
「いかないで……」
潤んだ瞳で上目遣いに懇願してくる夕香。その姿は独りになることを怖れる子供のようで、イザヨイは仕方ないと夕香の寝るベッドに腰掛ける。
未だローブの裾を離さぬ夕香の髪をそっと撫でる。寝付きの悪い子供を寝かしつけるように優しく慈しむように。
そうやってしばらく、夕香は安心し切った表情で再び寝息を立て始めた。
イザヨイはそれを確認して立ち上がろうとして、しかしローブを掴まれたままであることに気づき小さく溜め息を洩らした。
起こすのも悪いか、と口の中で呟いてイザヨイは寝入る夕香の顔を見下ろす。
「うぅ……もう食べられなぃ……」
「こいつは……」
ベタにも程がある寝言にイザヨイは苦笑を禁じ得なかった。やはり以前下した食いしん坊という評価は間違っていなかったようだった。
一体夢の中で何を食べているのやらと考えていると、不意に穏やかな寝顔が曇る。
「――ぱぱぁ……」
「…………」
つぅっと眦から一滴の涙が流れ落ちてシーツに染み込んだ。
イザヨイは夕香の無意識の呟きに重々しく瞠目し、ややあってから目を開く。その瞳にに強い決意を宿して。
「何がなんでも、夕香だけは帰してみせる。たとえ全てを敵に回そうとも……」
力強い、それでいて微かな狂気を孕んだ近いは誰に聞かれることもなく虚空に消えていった。