33 戦争の終わり
二人の戦いは、常人には理解不能の領域での高速戦闘となっていた。
元より肉弾戦を得意とするリュヴィウスは竜形態となったことでその能力が著しく上昇し、夕香はリスク度外視の身体強化重ね掛けで身体能力が飛躍的に向上している。一撃一撃が必殺の威力を有する一瞬の気の緩みも許されない苛烈な戦いだ。
拳が飛び交い、互いに殴り合う。剣戟鳴り響く戦場とは思えない原始的な戦いである。が、原始的ではあってもリュヴィウスには鋭利な爪や堅剛な竜鱗、更には黒翼や尾などの武器となるものが多々ある。対して夕香にあるのは拳ただ一つ。この差は大きい。
しかし夕香はそれらの猛撃を躱し、時に腕で受け流して捌く。そして自分も僅かな隙を突いて唯一の武器である拳を叩き込む。
一進一退の攻防。一撃入れば一撃入れ返される。しかしその一撃も尽くが決定打足り得ない。ダメージの蓄積こそあれど相手の芯には届かずじまいであった。
ある種の膠着状態に陥った時、先に動いてしまうのはやはり経験の浅い夕香だった。
リュヴィウスが放った裏拳の下を掻い潜り一気に肉薄する。腕を振り切った体勢の無防備なリュヴィウスに渾身の力を込めて右拳を突き出して、
「甘いわッ!!」
撓りを利かせた尻尾の強撃が横合いから襲ってくる。
「こんのぉ……!」
右拳を突き出した体勢から強引に身体を捩じり、裏拳気味に薙ぎ払うことでこれを迎撃。若干尻尾に押されながらもリュヴィウスの懐に留まった。
「らあっ!!」
短く気合の声を上げて一歩踏み込み、左拳を力の限り振り抜く。
ごすっ、と鈍い音を立てて夕香の小さくも強烈な一撃がリュヴィウスに突き刺さる。腹部を貫いた衝撃にリュヴィウスは僅かに呻き、ついで喜悦に笑みを深める。
「本当に人間とは思えない力だな、貴様。だがまだだ。まだ足りんぞ!」
「どんだけ固いのよ!」
殴った腹の信じられない硬さに辟易しながら追撃を放つ夕香。それを迎え撃たんとリュヴィウスが凶悪に尖った牙生え揃う顎を開き、噛み砕かんと迫る。
「いぃっ!?」
予想外の反撃を咄嗟に上体を反らすことで回避。その反らした勢いのまま両手を地面に突き、思いっきり蹴り上げた。
「ごがっ!」
下段から放たれた蹴撃に顎を強制的に閉口させられるリュヴィウス。だがそこで終わる程リュヴィウスは甘くない。
「はあっ!!」
リュヴィウスが背に背負う黒翼が力強く大気を打つ。瞬間、台風並みの轟風が巻き起こり夕香を襲った。
「きゃあああああ!?」
蹴りを放った直後の体勢でその陣風に耐えられるはずもなく、突風に攫われる木の葉の如く夕香の身体が舞い上げられた。
「空中で身動きはとれまい!」
禍々しさすら感じられる黒翼を広げ、地を蹴ってリュヴィウスが飛び立つ。その向かう先は中空に囚われる夕香である。
「くっ、まずいかも……」
下から猛スピードで迫ってくるリュヴィウスに焦燥が募る。
夕香にはイザヨイのように空中で身動きを取る術がない。一応イザヨイから足場形成魔術の手解きも受けはしたが、それも未完成。ぶっつけ本番で上手く扱えるかは三割あるかないかだ。
それでも、やらなければここで終わる。ならば未完成だろうと中途半端だろうとやるしかない。
逸る精神を理性で抑えつけ脳裏に術式を構築する。イザヨイのように幻影魔術や他の魔術を行使しながら片手間に一瞬で、などとはいかない。
僅かなミスも許されない精密作業。中途半端な強度では足場として役に立たない。故に求められるのは最低限でも夕香の蹴りに耐え得る足場だ。
刻々とリュヴィウスとの距離が縮まっていく状況下で、術式が完成したのはあと五メートルもない所だった。
ぶっつけ本番で作り上げた不可視の足場は地上に対して垂直に、壁のような形で形成された。
夕香は足場の強度に一抹の不安を抱えながらも、壁を蹴る要領で足場を蹴った。
ピシィ、とガラスに罅が入るような音が足場から発せられるも、砕けることはなく無事夕香は落下方向を変えることに成功した。それに安堵しつつ、真っ向から飛行してくるリュヴィウスに向けて右拳を握り締める。
身動きは取れないと高を括っていたリュヴィウスが夕香の動きに瞠目する。そこへ拳を握り締めた夕香が降りかかった。
「これでもくらええええええっ!!」
落下の勢いを十二分に上乗せした豪拳。大気を抉り抜く一撃にリュヴィウスは咄嗟に己の腕で受け止めようとするも、空中という踏ん張りの利かない体勢で衝撃を受け流すことなどできず、大きく腕を弾かれて無防備に隙を曝す。
本日二度目の絶対的な好機に夕香が右拳を引き戻して振り被った。だが、このまま殴ってもリュヴィウスを倒すには足りない。この男を倒すには今まで以上に強烈かつ凄烈な一撃が求められる。
夕香の脳裏に浮かぶのは、イザヨイの防御結界を破った一撃だ。あれならばリュヴィウスをも打ち倒せるだろう。
だが、力の扱い方が分からない。そもそも夕香は自らを包む青白い光の正体が分かっていないのだ。そんな曖昧な認識では力を使いこなすなどできるはずもない。
なら、どうするか?
悩むまでもない。何も考えず、ただただ目の前の敵を全力でぶん殴ることだけを考えればいい。
そも以前は力があることすら知らない状況下であの一撃を繰り出したのだ。ならば力を自覚した今、あの時と同じようにできない道理はない。
ありったけの力を込めた右拳に全神経を集中させる。求めるはリュヴィウスの強固な竜鱗を砕く一撃。あの時と同じ、青白い光の奔流――
「それは――っ!?」
リュヴィウスが何度目になるかの驚愕を見せる。
夕香が振り被った右の拳、そこに今ついさっきと同じように青白く発光する光の帯が収束し、圧縮され始めていた。
夕香の拳から感じられる魔力が異常なまでに膨れ上がっていくのに気づいて、リュヴィウスがこれまでにない程に顔を引き攣らせる。いくら頑丈な肉体と強固な竜鱗を持っていても、この一撃は耐えられない。これまでに積み重ねた経験に基づく勘でそう悟ったのだ。
だからといって今のリュヴィウスに夕香を止める術はない。空を飛翔する術はあっても、足場のない空中で自由自在に戦うなんてことは如何なリュヴィウスでも為し得ないのだ。
拳を取り巻く青白い光がやがて臨界点に至り、光と同色の火花を激しく散らし始めた。
――ここだ!
「これで終わりよっ!!」
限界まで力が蓄積されたのを直感で判断し、夕香は今にも爆発しそうな拳をリュヴィウス目掛けて解き放った。
「ぐおおおおお!!」
青白い光に視界が埋め尽くされる中、それでもリュヴィウスはただやられわけにはいかないと両腕と黒翼、果ては尻尾までをも夕香との間に差し込んだ。これで少しでも衝撃を和らげようという魂胆だろう。
だがイザヨイの防御結界を破る程の一撃がその程度の防御で受け止めきれるはずもない。
まず最も外側に位置していた尻尾に拳が接触した。瞬間、音のない魔力の爆発が尻尾どころかリュヴィウスを覆い隠していた黒翼ごと弾き飛ばした。
黒翼の中から引きずり出されたリュヴィウスは一瞬呆気を取られたように目を見開くも、すぐに歯を食いしばり残った両腕を交差させて襲い来る衝撃に身構えた。
そんなリュヴィウスの両腕に夕香の拳が容赦なく突き刺さる。
瞬間、溜め込まれていた魔力が大奔流となってリュヴィウスと夕香を襲った。
「ぐ、あああああああ!?」
「くっ、こんのおおお!!」
かつてない程の衝撃に全身を叩かれて、リュヴィウスが激痛に絶叫を上げる。夕香もまた、予想だにしなかった反動に身体を打たれつつも、気合と根性で必死に堪える。
大洪水にも似た魔力の奔流はジェット噴射の如く二人の落下を後押しし、夕香とリュヴィウスは一つの流星となって地上へと途轍もない勢いで落下を始めた。
「ぬぐ、まだだぁあ!!」
落下の最中、なおも逃れようと弾かれた尻尾を動かすリュヴィウス。だが、
「させるかあああああ!!」
抵抗させまいと夕香は我武者羅に足場を形成して虚空を蹴る。巧遅よりも拙速を以ってして形成された足場は一瞬の踏み込みで粉々に砕け散るが、落下の速度を加速させるには十二分役目を果たした。
グンッ! と加速したことで掛かる重圧にリュヴィウスの尻尾が狙いを外して虚空を叩いた。
反撃を外したことに小さく舌打ちを洩らしながらも、もう一度尻尾を振るおうとして――
「――いっけえええええええええええっ!!」
夕香の叫びを引き連れながら、二人は隕石の如く地上に墜落した。
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夕香とリュヴィウスが墜落したのは丁度二人が戦っていた、人間も魔物もいない空間だった。
二人が一つの流星となって地上に落下した瞬間、戦場には本当に隕石が落下したかのような激震が走った。
落下地点を中心に大きなクレーターが形成され、塵煙やら土塊が飛び散り、辺り一帯は砂塵に呑み込まれた。
そんな砂煙に呑まれたクレーターの中心で、全身傷だらけの夕香がよろよろと立ち上がった。
身体のあちこちが激痛に絶叫を上げている。というか今にも口を吐いて絶叫が出そうだった。
いつの間にか身を包む青白い燐光は消え去り、全身が鉛のように重くなっていた。恐らくあの光は身体強化以上に常に超回復の恩恵を与えてくれていたのだろう。それが消失した反動で溜まりに溜まった疲労が押し寄せているのだ。
今にも飛びそうな意識を根性で繋ぎ留めながら、夕香はクレーターから這い出ようと歩き出す。
その背後で、仰向けに倒れていたリュヴィウスが微かに身動ぎした。
「まさか、この私が負けるとはな……」
どこか感慨深げに呟くリュヴィウス。その姿は竜形態から人間の姿へと戻っていた。
「貴様の勝ちだ、人間。止めを刺すがいい」
そう言って処刑を待つ罪人のようにリュヴィウスは四肢を投げ出す。その姿をちらりと一瞥して、夕香は呆れたと言わんばかりに溜め息を洩らした。
「悪いけど、あたしにアンタを殺す気はない。分かったらさっさと魔物を引き連れて帰ってくれるかしら?」
「……本当に、現実を知らない子供だな」
今度はリュヴィウスが呆れる番だった。
「だが、その子供に負けたのは私か。ならば、ここは潔く退こうか」
妙に大人しく撤退を決めたリュヴィウスに、夕香が怪訝そうに顔を顰める。
「ねえ、もしかしてアンタ、最初っから勝つつもりなんてなかったんじゃないの?」
半信半疑でリュヴィウスの真意を問う。
この魔族は度々矛盾するようなことを宣っていた。やれ勝ち目はないだとか、復興は不可能だとか。それらの発言を思えば、夕香の推測は強ち間違っていないようにも思える。
夕香の問いにリュヴィウスは黙して答えず、ただ皮肉気に口角を歪めるだけだった。
その様子に夕香は一瞬複雑な表情を浮かべるも、慣れ親しんだ気配が接近してくることに気づいて気を緩める。
濛々と煙る視界の中央、砂煙の中から姿を現したのは上空で戦っていたはずのイザヨイだった。
「終わったようだな」
夕香の後ろで倒れているリュヴィウスを見てイザヨイが言った。
「うん、まあね」
「上から見ていたが、随分とまあ無茶苦茶なことをしたな」
呆れ果てたと言わんばかりにこめかみを抑えるイザヨイ。
そんなイザヨイの反応に夕香が若干むすっとして言い返す。
「そういうアンタはどうなのよ。怪獣大決戦は決着したの?」
「あのドラゴンなら、ある程度削ったところで撤退していった。恐らく前もって指示されていたのだろうな。あの目は恐怖に背を向ける者の目じゃなかった」
イザヨイの脳裏に浮かぶのは漆黒のドラゴンの姿。イザヨイの放つ魔術の嵐に身を曝しながらも、一心不乱にイザヨイを倒さんと勇ましく戦う様は称賛に値するものだった。
イザヨイが胸中で密かに漆黒のドラゴンを称賛していると、舞い上がった砂塵が徐々に風に流されて視界が晴れ始めた。
「そろそろ外からここが見えるようになるが、どうする?」
「どうするって……」
問われて夕香は背後で倒れ伏すリュヴィウスを見やる。その視線の意味を察してイザヨイは小さく溜め息を洩らす。
「そいつは俺が境界の森にでも放ってくるから心配するな」
「……手を出しちゃだめよ」
「分かってる。あの魔族はお前が倒したんだ。俺に手出しする資格なんてない」
不安気に見上げてくる夕香を適当にあしらい、イザヨイは夕香の背を軽く押す。
「行け。街を護り抜いた英雄の凱旋だ」
「ちょっと、やめてよそういう大袈裟なの」
「そうは言ってもな。あのリリスのことだ、盛大にお前の帰還を待っているかもしれないぞ」
からかい混じりにイザヨイが言うと、夕香はその様子を想像したのか盛大に頬を引き攣らせた。
「冗談だ。気をつけて戻れよ」
苦笑しながら夕香の頭を人撫でして、イザヨイは未だ仰向けに倒れたままのリュヴィウスに歩み寄る。背後でぎゃーぎゃー喚く声が聞こえるが、それもしばらくすれば遠くなっていった。
「…………」
「…………」
見下ろすイザヨイと見上げるリュヴィウス。無言で睨み合う二人の間には張り詰めた一種の緊張が横たわっている。その原因はリュヴィウスが発する憎悪にも似た敵意だ。
夕香と話している時にはなかった敵意。それが接近した途端に膨れ上がり、イザヨイ個人に向けられている。
イザヨイはリュヴィウスの放つ敵意に気づいている。気づいたうえで、イザヨイは言った。
「少し、話をしようか」
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魔物の軍勢上空ど真ん中に突如として出現した一つの流星。それが地上へと落下した直後、戦場で暴れていた魔物の全てが動きを止めた。
魔物は皆一様に流星が落下した場所に目を向けている。その姿はどこか物悲しげで、戦っていた兵士や冒険者は何が起こるかと身構えた。
そんな彼らの目の前で、魔物の大軍が一斉に背を向けた。
「はあ?」
戦場にいた全ての人間が拍子抜けたように声を洩らした。
ついさっきまで戦い殺し合っていた敵が唐突に背を向け、境界の森へと帰っていく。魔物の軍勢の方が圧倒的優位に立っていたはずなのに、魔物の後ろ姿には敗残兵のような重い雰囲気が漂っていた。
そんな理解不能な状況で、背を見せる魔物に追い打ちをかける人間は一人としていなかった。下手に刺激して引き返されても困るからだ。
押し寄せてきた津波が返っていくような光景を、人間はただただ呆然と見ていることしかできなかった。