30 成り損ない勇者参戦
テルムスを護る防壁の上。狭くはないが広くもないその空間に弓兵二百、バリスタ要員数十人、魔術師部隊五十弱。総勢三百弱の人間が今、上空を飛び交う大量の魔物と徹底抗戦をしていた。
「撃て! とにかく撃て! 接近された時は剣で斬り払え! 何がなんでも、この防壁は護り抜くのだッ!!」
激を飛ばし、喝を入れ、指揮官は自ら剣を取って弓兵に急襲する魔物を薙ぎ払う。そうしなければ手が足りない程に攻められているのだ。
漆黒のドラゴンが戦場に乱入して以降、空の戦況は一気に劣勢へと陥った。
弓兵が放つ二百の矢は、漆黒のドラゴンがその強靭な翼で空を打つことで巻き起こる烈風に尽く吹き飛ばされる。ドラゴンをも撃ち貫くバリスタは、漆黒のドラゴンの放つ咆哮が伴う衝撃波に軌道をずらされてまともに当てられない。魔術に至ってはその両方に掻き消され届きすらしなかった。
攻撃は一切通じず、人間側は自陣の奥深くに魔物の一方的な侵入を許すこととなった。
現在防壁の上は地上と変わらぬ乱戦、いや空間が限られているのを考慮すればそれ以上の激戦区となっている。最早弓を取って応戦している者は半分もいない。殆どが弓から剣に持ち替えて抗戦していた。
そもそも、防壁上空にまで攻め入られた時点で弓兵は矢を射ることができなくなっていた。理由は単純明快。外れれば自分達か下で戦う兵士達に矢が降り注ぐからだ。
同士撃ちの危険を孕んだ状況下で矢を放つわけにはいかない。故に今辛うじて矢を放っている者達も、狙いはあくまで前方遥か彼方。まだ防壁まで辿りついていない魔物だ。バリスタも同様に、近づくドラゴンに対してのみ弾丸を放っている。
それ以外の者は剣で弓兵とバリスタ要員の護衛。魔術師部隊だけは変わらず魔術で応戦している。
――最悪だ……。
剣戟と怒号、そして魔物が飛び交う争乱の中で指揮官は悔しげに歯噛みする。
戦況は劣勢かつジリ貧。今はまだ保っているが、それも長くは続かない。ドラゴンが数体辿りついた時点で詰みだ。それ以前にあの漆黒のドラゴンが本気で突っ込んできたら今すぐにでも防壁は決壊する。そうならないのは、偏に漆黒のドラゴンが積極的に攻めようとしないからだ。
突如現れ戦況を一気に傾けた漆黒のドラゴンは、一度たりとも攻撃を加えてこなかった。ただ飛来する矢とバリスタ、魔術から魔物を護るように立ち回っている、それだけだ。
何もしてこない、なら心配する必要はない、存分に戦え。とは到底言えない。漆黒のドラゴンは攻撃こそしてこないが、その存在自体が既に兵士達への精神的負荷になっているのだ。
いつ動くか分からない、いつまでこの状況が続くか分からない。その不安が、口に出さずとも兵士達の間に広がっていた。
非常に拙い状況だ。打破しようにも手立てがない。そもそもこの戦自体、負け戦。鼓舞しようにも勝機がないのではどうしようもない。
これがエドガーならば話は違っただろう。現に彼は地上でその武威を示すことで戦士達を奮い立てた。しかしこの場にいる指揮官は、指揮能力こそ人並み外れているがそれだけである。人の能力を活かすことはできても、人の能力を引き出すことはできないのだ。
己の未熟さに指揮官が嘆いた時だった。遂に最悪が動き出した。
――グルウオオオオォォォォォォォ……。
今までの衝撃波を撒き散らす咆哮ではない、低く腹の底に響く唸りが漆黒のドラゴンから放たれた。
その低い唸りが戦場に浸透していくと、途端に空を飛ぶ魔物が動きを止めた。唐突に動きを止めた魔物に防壁の上の兵士達も攻撃の手を止め、自然と漆黒のドラゴンへと視線を向ける。
注目を浴びる漆黒のドラゴンは空中で大きく身体を仰け反らせる。まるで地上を睥睨するかの如く。
その挙動に指揮官が訝しげに眉を潜めたのと、魔物達が一斉に防壁上空から離れ始めたのは同時だった。
今の今まで苛烈に責め立ててきた魔物の群れが、蜘蛛の子を散らす勢いで背を向けて逃げ始めた。その予想外の状況に兵士達は一様に呆け、立ち尽くした。
そんな中、持ち前の勘で何がくるか悟った指揮官が悲鳴染みた声を上げた。
「ブレスだ――ブレスがくるぞぉ!!」
魔物達は逃げたのではない、あの漆黒のドラゴンが指示を出して防壁付近から離脱させたのだ。己が放つ一撃に巻き込まないがために。
それに気づいたからこそ、指揮官は声を張り上げる。
「総員退避ぃ! 即刻地上に下りろッ!!」
ただの咆哮でさえ戦場を震わせる程の衝撃波を撒き散らすのだ。ブレスともなれば、恐らくこの防壁は一溜まりもなく破壊し尽くされることだろう。
ならば、せめて兵士達だけでも生かして地上に下ろし、戦力の損失を抑えなければならない。
防壁が崩れるのと、防壁諸共多くの兵士達を失う。どちらがマシかと問われれば、間違いなく前者だ。指揮官はその判断を的確に下しただけ。しかしこの状況において、指揮官の指示は混乱を齎すだけだった。
防壁上の空間で兵士達が慌てふためき、地上へと下りる階段へと殺到する。混雑しあった状況でスムーズに下りられるわけがなく、未だ半数以上の兵士達が残されたまま、漆黒のドラゴンの凶悪な顎が開かれてしまった。
――ここまでか……。
逃げ遅れた兵士達が絶望に項垂れる。指揮官も、諦観にも似た表情を浮かべて天を仰いだ。
瞬間、大きく開かれ顎から灼光が迸った。放たれた灼光は白い炎となって吐き出される。
長大かつ頑強な防壁を呑み込まん勢いで迫る白炎に誰もが諦観を抱いた時、戦場を一陣の風が吹き抜けた――
▼
時は少し遡り――
血飛沫舞い、血霧漂う地上。人間も魔物も関係なくその命を削り合い、奪い合う。戦場において不平等は存在し得ない。皆平等に命を落とす危険を抱えて立っている。
そんな血で血を洗う戦場、丁度魔物の軍勢のど真ん中。魔物が囲うことで作られた即席の闘技場で、銀が舞う。
「くあああっ!」
苦悶に満ちた悲鳴を上げて、リリスの身体が宙を舞う。そのまま全身を激しく地面に打ちつけ、弱々しく呻く。
その姿を少し離れた場所からリュヴィウスは眺め、ついで上空遥か高くを見上げる。空では漆黒のドラゴンが王者の如く、その翼を広げて堂々と佇んでいた。
「潮時か……」
そうリュヴィウスが呟くと、まるで示し合わせたかのように漆黒のドラゴンが長い首を擡げた。
「ヘルも動いた。これで貴様らの敗北は決まった」
視界の端で痛みを堪えて立ち上がるリリスに、リュヴィウスは問うた。
「それでもなお、まだ立つのか、人間?」
「当たり前、だよ……あくまで僕達の目的は時間稼ぎ。最初から生きて帰る気なんて、ないんだからね」
剣を杖代わりにして倒れてしまいそうになる身体を支え、リリスは気丈に振る舞う。だが、魔物との戦いと魔族との一騎打ちの消耗がここにきて限界に達した。
「うぐっ……」
膝から力が抜け、前のめりに倒れ込むリリス。最早戦闘の続行は困難だった。
「人間にしては健闘した、と褒めるべきか。私の肉体に傷を刻んだのだ、誇っていい」
そう言うリュヴィウスの声音は素直な賞賛の色を持っていた。彼は本心からリリスの健闘を讃えているのだ。人間だからと見下さず、一人の戦士として。
リリスは果敢に戦った。相対しただけで折れそうになる心を叱咤し、持てる力の全てを振り絞って戦い抜いた。
結果、まるで歯が立たなかった。そもそもリュヴィウスの身体が硬すぎて剣の刃が立たなかった。得意の受け流しも、相手が素手で攻めてくるため間合いの感覚を崩されて機能せず、ダメージを受け流せず蓄積させる一方の悪手と成り下がった。
加えて積み重なった疲労が技や身体の動きの精彩を奪い、一方的な戦いとなった。それでもリュヴィウス当人が言った通り、リリスは健闘した。
隔絶した実力差の中で、彼の硬い竜鱗を薄皮一枚といえど斬り裂いたのだ。ここで力尽きようと、リリスを責められる者はいない。
だが――
「う、くぁ……!」
リリスは両腕で上体を持ち上げ、開いた隙間に右膝を差し込んで膝立ち状態にまで持っていく。剣を地に突き立て、気力を振り絞って立ち上がった。
やっとのことで立ち上がったリリス。身体は満身創痍、一歩踏み出すのも剣を構えるのも辛い。そんな状態でも、彼女は真っ直ぐリュヴィウスを見返している。
その様をリュヴィウスはじっと見届けて、
「何故、そこまでして立ち上がる? 何がそこまで駆り立てる?」
僅かに首を傾げて疑問を口にした。
リリスは遠い過去に思いを馳せるように瞼を閉じ、そして右手に握る騎士剣に視線を落とした。
「約束……したからね」
ともすれば戦場の音に掻き消されてしまいそうな程にか細い声だった。しかし魔族であるリュヴィウスが聞き逃すことはなく、静かに耳を傾ける。
「今度こそ護ると、約束したから。僕は最期まで護るために戦う」
今際の際に主と交わした約束。それがリリスを駆り立てる原動力だ。たったそれだけの口約束のために、元騎士は戦い続けるのだ。
「まあ、もう半分の約束は叶いそうにないけどね……」
ふっと自嘲気に笑って、そう付け加えた。
リリスの覚悟を最後まで聞き届けたリュヴィウスはしばし瞑目したのち、
「よかろう。その覚悟に最上の敬意を表して、全力で叩き潰してやろう」
カッ、と目を見開きこれまでとは比べものにならない程の威圧を放つ。
まるで暴風が吹き荒れたかのような威圧の波に後退しかけて、しかしリリスは意志の力の全てを総動員してその場に踏み止まる。その様子にリュヴィウスは初めてその表情に喜色めいたものを浮かべた。
「いざ――ッ!!」
「はあああッ!!」
二つの影はほぼ同時に飛び出した。
リリスはかつてない程に神経が研ぎ澄まされているのを感じていた。火事場の馬鹿力とでもいうのか、死に瀕したことで生存本能が極限まで己の感覚を増幅させている。
極致に至った集中は知覚する世界に一種の遅延を生じさせた。俗に言う、相手の動きが止まって見えるという状態。リリスは今、その境地に意図せずとも至っていた。
今までよりも格段に遅く動く世界の中で、冷静なまま迸る激情の全てを両の剣に込め、唯一斬撃が通る可能性がある喉を正確に狙う。
瞬き程のうちに二つの影は交錯して――
――キイン!
甲高い金属音が鳴り響いた。
音の発生源はリリスの左手の剣。その剣の刀身が半ばから恐ろしい程綺麗に切断されていた。リュヴィウスの鋭利な爪に断ち切られたのだ。
「ぐっ……」
食いしばった歯の隙間から呻きを洩らし、リリスが膝をつく。その左肩はバッサリと斬り裂かれ、灼熱と激痛が間断なく襲っている。
剣の刀身ごと斬り裂かれた左肩を抑え、首だけ回して背後に立つリュヴィウスを見やる。
リュヴィウスは殊更勝ち誇るようなこともなく、ただ厳粛な雰囲気を纏って、まるで死刑執行人のようにリリスに歩み寄る。
やがてリリスの前に立つと、リュヴィウスはその鋭い爪で止めを刺さんと腕を掲げた。それが自分の首を落とす刃にも見えて、リリスはせめてもの抵抗とばかりにリュヴィウスを見上げ続ける。
「その覚悟を抱いたまま逝くがいい、人間」
リュヴィウスの凶爪が振り下ろされる。
上空では漆黒のドラゴンが白炎を吐いている。
戦場にいる誰もが、諦観を抱いた。まさにその時だった。
――戦場を一陣の風が吹き抜けた。
通り抜ける風に自分の見慣れた銀髪が宙を泳ぎ、その中にここ最近で見慣れた『紅』が混じる。
それに気づいてリリスが目を見張るのと、紅い乱入者によってリュヴィウスが殴り飛ばされるのは同時だった。
「ぐっはぁ――!?」
大きく宙を舞って地面に墜落するリュヴィウス。その顔には驚愕の相が張り付いていた。
自分が手も足も出なかった相手が殴り飛ばされるという信じられない光景にリリスが呆然としていると、紅い乱入者は拳を握り締め、
「事情も状況もなにも知らないけど、とりあえず一発殴らせてもらったわよ」
無茶苦茶なことを然も当然の如く言い放った。