29 元騎士の戦い
冒険者達の指揮を放り出し、邪魔な魔物は斬り捨て血道を築き、リリスは戦場を一直線に突っ切っていた。
「退けっ! 私の邪魔をするなッ!」
普段の凛々しさをかなぐり捨て、騎士として育てられた時の口調を全面に押し出したリリスは今、冒険者ではなく一人の元騎士として戦場を駆けていた。
乱戦の中、垣間見た影を追ってリリスはひた走る。襲いかかってくる魔物は鎧袖一触の勢いで斬り飛ばしていく。
そうして真っ直ぐ突き進んだ結果、
「――追いついたぞ」
殺気撒き散らすリリスの目の前に現れたのは、一人の魔族だった。
捻じれた一対の角を生やし、身の丈を越えるハルバードを携えた筋骨隆々の巨漢。そんな風体の魔族が大量の魔物を従えるように、戦場に立っていた。
魔族はリリスの姿を認めると、忌々しげに目を眇めた。
「下等な人間風情が、魔族である俺に何用だ」
見下しきった態度で問う魔族。対してリリスは凪いだ湖面のように静かに佇み、しかし瞳は仄暗い殺意に満ち溢れている。
――許すな。
心の内から憎悪が湧き上がる。目の前の魔族を早く殺せと、黒い感情が急かしてくる。
――お嬢様の仇を、殺せ。
感情が今にも爆発しそうだ。このまま怒りに身を任せてこの魔族を斬り殺したい衝動に駆られそうになる。
――リリス。
いざ飛びかからんと踏み出しかけた足を押し留めたのは、かつて自分が主と仰いだ少女の声だった。
優しい陽だまりのような温かい声音が、湧き上がる黒い感情を包み込んだ。
そうだ、自分がすべきことは復讐ではない。そんなことのために強くなったのではない。もう二度と失わないために、護り抜けるように強くなったのだ。
強く握り締めていた両手の剣から力を抜き、リリスは感情を吐き出すように熱い吐息を洩らす。
主との約束を忘れるところだった。それがどうしようもなく恥ずかしく、同時に思い出させてくれた元主の少女に感謝した。
復讐に囚われかけた元騎士の心を鎮め、幾分か冷静になった頭で改めて目の前の魔族を観察する。戦いにおいて相手の情報は非常に重要であり、時に勝敗を分けるファクターとも成り得る。故にリリスは相手の見た目から得られるだけの情報を抜き取る。
魔族は見た目からして近接戦闘を得意とする手合いだろうことが分かる。それはその手に握る長大なハルバードと、鍛え抜かれた肉体を見れば一目瞭然だ。だからといって近接戦闘しか能がないのかといえば、そうとも言い切れない。
元来魔族は魔術の扱いに秀でた存在であるというのが人間の常識だ。強靭な肉体も恐ろしくはあるが、やはり一番注意すべきは魔術だろう。
相対する魔族を正面に見据えてリリスは静かに剣を構える。その様子に魔族の男は嘲笑ではなく、純粋な怒りにその顔を歪ませた。
「矮小な人間が、まさかたった一人でこの俺と闘り合おうなどとは。馬鹿にするのも大概にしろよ、小娘が……!」
己を侮られたと受け取った魔族は、怒気も露わにハルバードを振り回す。うおん! と唸りを上げて旋回するハルバードが起こす旋風に砂塵が舞い上がる。
その旋回がピタリと止まった。鋭く尖った先端はリリスに向けて固定されている。
あれ程の長大な武器を振り回す膂力も然ることながら、それを扱う技術も並大抵のものではない。確かな鍛錬と経験に裏打ちされた強かさがある。
思わず身震いをしてしまうリリス。それは恐怖からくる震えではない。実際に相対して感じられる強者の空気に、戦闘狂の一面が昂っているのだ。
「一つ、問いたい」
視線は男に据えたまま、リリスは口を開く。
「君がこの魔物を統率している魔族で相違ないかい?」
「それを聞いて、どうなるという?」
魔族の男はリリスの問いに答える気はないようで、下らないと吐き捨てた。
その返答を予想していたのか、リリスはにやりと笑みを浮かべると挑発するように言った。
「なに、君を倒せばこの軍は瓦解するんだろう? そうなれば僕達にも勝機が生まれるかもしれないからね」
明らかに意図して放たれた挑発文句に男が眦を吊り上げた。
「……大口を叩いたな、小娘。よかろう。その骨肉の一片たりとも残らず叩き潰してくれよう!」
見下していた相手に挑発され冷静さを欠いた男はハルバードを肩に担ぐと、射殺さんばかりにリリスを睨んだ。
リリスはその視線を受け流し、内心でほくそ笑んだ。
対人戦において重要なのは相手の情報もそうだが、精神的優位に立つことも大切だ。たとえどれ程強力な武器を持ち天賦の才能を有していたとしても、精神が未熟では勝てる戦いも勝てない。
人間を見下す傾向が強い魔族だからこそ可能な挑発で最初に精神的優位を得られたのは大きい。ただでさえ相手は尋常ではない膂力と魔力を有する魔族なのだから。
冷静なリリスと怒気を撒き散らす男。二人の放つ尋常ならざる気配に周囲の魔物は本能的な危機を感じ取って離れ、即席の決闘場が出来上がる。
戦場に穿たれた空間で、二つの影は迸るような戦意を高めていった。
▼
リリスのスタイルは基本待ちだ。相手の一撃を受け流し、そこに生じた隙を突く。蝶のように舞い、蜂のように刺すといったところだろうか。
彼女がこのスタイルを確立したのには理由がある。それは性差と種族差による覆しようのない力の差を埋めるためだ。
リリスは紛うことなく女だ。故に同じだけ鍛えた男と力比べをすれば確実に押し負ける。これはどうしようもない。だが、どうしようもないからといって諦めるわけにはいかない。彼女は約束したのだ。今度こそは護り抜くと。
そのためには力の差を物ともしない戦い方を確立しなければならなかった。
主人を失ったその日から、リリスは求め続けた。結果辿りついたのが今のスタイル。騎士らしさは薄れてしまったが、膂力の差があっても勝ちを狙える戦い方だ。それは実際に夕香との決闘でも証明された。
だが、やはり世の中にはどうしようもない理不尽がある。
目を離さず見据えていた男の姿が唐突に消えた。いや、消えたように見えただけだ。辛うじてではあったが、リリスは男が屈んでから上へと飛び上がったのを視認できていた。
だからすぐに視線を上に向け、襲い来るだろう一撃に対して剣を構えた。だがすぐに受け流すのは悪手だと悟る。
「ぬおおおおおおお!!」
飛び上がった男は肩に担いだハルバードを大槌の如く振り下ろそうとしているところだった。その勢いは受け流すなんて考えるのが馬鹿らしくなるような、まるで巨大な岩が落下してくるかのような圧迫感を伴っていた。
リリスは本能が訴える危機に従い、その場から全力で飛び退る。その一瞬あと、リリスがいた場所に膂力と体重、落下の勢いを上乗せしたハルバードの一撃が叩き込まれた。
――ズドォン!
地が揺れる程の衝撃が走る。ハルバードが叩き込まれた地面は見るも無残に割れ、大小大量の破片が撒き散らされる。
地の揺れに一瞬身動きを封じられたリリスを割れた地面の破片が襲う。
「くっ……!」
体勢を崩しながらも咄嗟に両手の剣を振るいこれを撃ち落とすが、その隙を突くように抉るような突きが放たれる。
己の頭蓋を貫かんと迫るハルバードの穂先に対して、リリスは地面に倒れ込むことでこれを躱す。そして追撃を逃れるために地面を数度転がり跳ねて距離を取った。
「ちっ、逃れたか……」
忌々しげに舌打ちを一つ打って、男はハルバードを背負うように構えた。恐らく居合抜きのようなものなのだろう。やや前傾姿勢になってリリスを睨む様は獲物を狙う獣のようにも見える。
その一方、リリスはたった一度のやり取りでだいたいの彼我の力量差を掴んでいた。
相手の攻撃は一撃一撃が致死を招くもので、上から振り下ろされた場合受け流すのは非常に困難だ。下手に受け流そうとすれば腕を痛めるか、剣が砕ける。得意のスタイルに持ち込めない、かなり不利な状況だ。
しかし、勝機がないわけではない。
相手は冷静さを欠いており、かなり直線的な動きになっている。そのうえ宣告通りに叩き潰すことに拘泥しているのか、小手先の技を繰り出すことがない。これはリリスにとって嬉しいことだ。
乱れた呼吸を整え、リリスは改めて剣を構える。右足を引き右手の剣を男と同様に背負うような構えだ。この構えが意味するのは――
「――ふっ!」
鋭く呼気を吐き、今度はリリスが攻める。
開いていた間合いを一気に詰め相手の懐に飛び込もうとして、それを迎え撃つべく男がハルバードを振り下ろす。
「ぬうぉあッ!!」
大気を捻じ切りながら迫るハルバードに対してリリスは、飛び退るのではなく更に一歩踏み込んだ。そうすることでハルバードの刃が届く範囲から逃れたのだ。だが、刃を避けたからといって危機が去ったわけではない。
ハルバードは扱いが難しい反面、使いこなせれば斬る、突く、払うなどの多種多様な攻撃が可能な万能武器である。たとえ斬撃が躱され懐に侵入されようと、柄で払うことも引いて刃の反しで斬り裂くことも可能だ。
懐に飛び込まれた男が採った迎撃手段は、振り下ろした勢いそのまま向きを強引に水平に変えて払い飛ばすものだった。
縦から横へと進行方向を変えたハルバードの柄がリリスを襲う。しかしリリスはこれを予想していたのか、むしろ待っていたと言わんばかりに突撃する。
予想外の接近に僅かながら動揺し、微かに男の手元が緩む。その隙を、リリスは決して逃さない。
迫りくるハルバードの柄に左の剣の腹を乗せ、槍の動きに合わせて滑らせ男の右手の甲を深く斬り裂いた。
「ぐぅ――!!」
右手を襲う激痛に男が思わずハルバードから片手を離してしまう。制御を片手分失ったハルバードは本人の意を無視し、失速しながら大きく軌道をブレさせる。
先と比べて大した勢いも乗っていない一撃は、リリスの格好の獲物だ。
右手の剣で柄の強襲を受け流し、まるで舞を踊るかの如くその場で旋回。回転の勢いを加えた鋭い斬撃が男の喉笛に吸い込まれた。
「――ごぱぁ!?」
男の喉笛がざっくりと切り裂かれた。何か叫ぼうとした男の声は血に濁り、喉から勢いよく鮮血が噴き出す。
――馬鹿な……!?
驚愕に目を見開きながら、魔族の男はゆっくりと地に倒れ伏した。
完全に魔族の男の息の根が止まったのを確認して、リリスは緊張の糸を緩めた。場所が敵陣のど真ん中なので気は抜けないが、初の魔族との戦いにかなり神経を磨り減らしたのだ。一度精神を平静に戻さなければならない。
そこまで考えて、ふとリリスは周囲を見回した。
リリス達の戦闘に巻き込まれまいと離れていた魔物。戦闘は終結したのに、魔物はその場から微動たりとしない。まるで何かが訪れるのを待つように。
「何が……」
異常に気づいてリリスが身構えた時だった。
「――人間にしてはやるようだな」
厳かな声が戦場に響いた。
ズシンとまるで空気が重みを増したかのような重圧に襲われ、リリスは思わず膝を屈しそうになる。それでも歯を食いしばり、重圧を押し返して声の放たれた方へと目を向ける。
リリスの視線の先には新たな魔族の姿があった。背に禍々しさすら感じられる黒翼を背負い、両の手先には鋭利な鉤爪を有し、身体のあちこちに黒々とした竜鱗が点在しており、極めつけは後ろ腰あたりから生える爬虫類を思わす尾。それらが連想させるのはただ一つ――竜。
――勝てない。
リリスは直感的に悟った。この魔族には天地が引っ繰り返っても敵わない。それ程の実力の隔絶があるのだ。それこそ、このまま背を向けて逃げ出したいくらいの。
しかし、リリスは逃げない。逃げられない。
先の戦闘で酷く消耗しているため逃げ切れないというのもあるが、それ以前にこの魔族が戦線に出たら人間側の敗北が決定してしまう。そう悟ったからだ。
故に、是が非でもここで食い止める。たとえこの命が尽き果てようと、止める。
消耗した身体に鞭打ってリリスが剣を構える。対して魔族の男はリリスに倒された男を見やり、小さく嘆息を洩らす。
「これであと六人か……」
ふっと自嘲気に笑い、魔族の男は鷹揚な仕草でリリスを見据える。
「なかなかの手練れと見受ける。一つ、私の相手を務めてもらおうか」
戦場には似つかわしくない穏やかな口調で問うが、そこには反論を許さない迫力があった。
リリスは無言で剣を構え、これに応じる。その態度に男は薄く笑みを浮かべた。
リリスの前に、魔族――リュヴィウス・ドラグニルが立ちはだかった。