26 手を差し伸べる
「どいて、イザヨイ。今すぐ冒険者ギルドに行くから」
「悪いが、それはできない相談だ」
「なんでよ!?」
部屋の入り口を塞ぐように立つイザヨイに、夕香が怒鳴る。他の客に迷惑がかかるレベルの声量だが、生憎今はどこもかしこも大騒ぎで文句を言う者はいない。
退く気配のないイザヨイに苛立ち、リリスに無視されたことも相まって夕香はイザヨイの胸倉に掴みかかった。
「どうして、どうして邪魔するのよ、イザヨイ!? このままじゃテルムスが魔物に襲われるのよ!?」
「そんなこと、言われなくても分かってる」
「だったら、なんで護衛に回るのよ! あたし達が本気を出せばなんとか」
「できると、思っているのか?」
「――っ」
問われて夕香は言葉に詰まる。そこへ畳みかけるようにイザヨイが言う。
「境界の森の魔物だけで千は優に越える。加えて相手は魔族の大陸の魔物も掻き集めているだろう。正確な数は分からないが、それでも万の規模であることは確かだ。幾ら夕香が強かろうと、万の軍勢をどうにかできると、本当に思っているのか?」
「で、でもアンタが本気出したら」
「そんなことをすれば即座に俺が魔族であることが露見するぞ。最悪魔王であることもな」
「う……それは……」
そう言われては夕香も返す言葉が見つからず、掴みかかっていた手を力なく下ろした。
確かに、イザヨイが被害を度外視して全力で戦えば、テルムスを防衛することも不可能ではないだろう。だがそれで自分達の正体がバレては本末転倒だ。
夕香もそれを理解している。自分達の最優先目的はあくまで聖剣の破壊であって、そのために今は素性を隠していることも、重々承知している。
それでも、
「お願い、イザヨイ。そこを退いて」
「駄目だ。ここで俺達の正体がバレたら、全てが水泡に帰すんだぞ」
「分かってる。だから……戦うのはあたしだけ。アンタは護衛の方に回って。それなら文句ないでしょ?」
「……何故そこまでする。たった一カ月の関係だろう?」
心底理解できないといった表情で言うイザヨイ。そんな彼の言葉を否定するように夕香は首を横に振り、いつかのように強い意志を宿した瞳でイザヨイを見上げた。
「手を伸ばせば救えるかもしれない命がある。だったらあたしは手を差し伸べる。それがアンタにとってはたった一カ月の仲の相手でも、あたしにとってはもう大切な人達だから」
どこか慈愛に満ちた表情で夕香が語った言葉に、イザヨイは頭痛を堪えるように両目を閉じた。
――ああ、そうだ。夕香はそういう性質の人間だった。
突っ込む必要のない他人の事情に首を突っ込んで、そのうえ一度決めたら梃子でも曲げようとしない頑固者。どれだけ理を並べたてようと、彼女はそれらを蹴って踏み込む。ただ偏に、自分が後悔したくないがためというどこまでも利己的な信念のもと。
どんな理由があって後悔することを怖れているのかは知れないが、夕香にとってテルムスを見捨てれば後悔するとなっている以上、もう梃子でも動かないのだろう。
たとえ、
「リリスの厚意を無碍にしてもか? あいつはお前のことを思って、あんな強引なやり方で言質を取っていったんだぞ?」
誰かが自分を慮ってくれていたとしても、
「だったらなおさらよ。リリスがあたしを大切に思ってくれてるのと同じように、あたしも大切だって思ってるんだから」
当然とばかりに夕香は言い切った。
たとえ相手の厚意を無碍にしても、その思いごと夕香は救おうとするのだ。全てが大団円、最後に皆で笑えるような結末を力づくに手繰り寄せて。
それは、あまりにも現実を舐めているとしか思えない考えだ。現実はそんな甘くない。もっと残酷で、希望のないものだ。
それなのに、夕香が言うとできてしまうような気がしてしまうのは何故だろうか。この成り損ないの勇者を信じてみたいと思ってしまうのは、どうしてだろうか。
自分でもよく分からない感情を持て余して、イザヨイはふと天井を仰ぎ見る。
こんなやり取りを魔王城でもやったな、と不意に思い出してイザヨイは笑みを零した。
「何を言っても無駄、か……」
城の地下でも、何を言っても夕香はずかずかとイザヨイの心の内へ足を踏み入れてきた。城を出ようか迷っていた時には、的確な言葉を投げかけてくれた。
きっと自分はこの先ずっと口でこの勇者に勝つことはできないだろう、と漠然とした予感を抱くイザヨイ。先のことを思うとそれはあまり嬉しくないことなのだが、仕方ないと割り切ろう。
何せ、落とされたのはイザヨイなのだから。惚れた弱みというのは少し違うような気もしないが、この場合折れるべきはイザヨイなのだ。世間一般の男女的に。
そう結論付けて、イザヨイはその両目を開く。目の前にはイザヨイの返答を今か今かと待ち構える夕香の姿があった。
「それで、通してくれるのかしら?」
若干の緊張を込めて夕香が問う。恐らくここでイザヨイが否と言えば、強引にでも押し通る積りなのだろう。勝ち目がないと分かっていても。
イザヨイは若干の間を開けて、夕香の問いに答えた。
「――断る」
直後、イザヨイの顔面を夕香の拳が襲った。
▼
テルムスは境界の森を目と鼻の先におく辺境であり、人間と魔族の争いの最前線でもある。故にテルムス領主が有する私兵の数は九百強と、一貴族が有するには破格的なものである。その練度もまた、境界の森で定期的に訓練をしているためそこいらの傭兵よりも実力がある。
加えてテルムスには頑強な防壁と対空にバリスタが幾つか用意されている。下位のドラゴンならば数体、上位でも一体程度ならば相手取れる程度の防衛力がある。が、如何せん今回は数が多すぎた。
ドラゴンも然ることながら、それに追随する他の魔物の数がとにかく多い。まるで暗幕が覆い被さってくるような勢いで、玉石混交の大群が境界の森上空を埋め尽くしているのだ。殲滅するにはバリスタでは連射性に欠けるため手が足らなくなる。
となればどうするか。弓や魔術で対抗する他ないだろう。だがそれにも問題があった。絶対的に魔術師の数が足りないのだ。
弓ならば私兵の殆どが扱うことができる。だがそれでは火力が足らない。雑魚ならば問題なく撃ち落とせるだろうが、硬い甲殻や表皮を持つ魔物には効かない。
圧倒的に対空戦力が足りない。その現状を現場から戻ってきた武官の報告で聞いて、テルムス領主――エドガー・ベルサイズは眉間に深く皺を刻んでいた。
「兵と冒険者の魔術師を合わせても五十に届かないか……」
元より魔術は才能に大きく左右されるものだ。術式を解することができても有する魔力量が少なければまともな魔術は行使できない。逆に莫大な魔力を有していても術式の構築ができなければ宝の持ち腐れだ。他にも系統の適性などを含めれば、十全に魔術を扱える者はごく僅かしかいない。
そのごく僅かの強力な魔術師達も、間の悪いことに今は不在。例の意味不明の王族からの依頼のせいだ。
「まあ、十数人魔術師が増えた程度で、どうこうなる話ではないがな……」
諦観混じりの溜め息を洩らして、辺境伯は執務室を後にする。
これから一時間と経たずに、テルムスは戦火に見舞われることになるだろう。その運命を回避するのは不可能。だからこそ、せめて住民達の避難が完了するまでの時間を稼がなければならない。
それが、この地を治める者の責務だ。
故に彼は戦場に赴く。兵士達に戦わせて、自分だけ安全な場所から高みの見物でいるわけにはいかない。ましてや住民達と共に避難など、言語道断。
一貴族としては失格かもしれないが、武人としては正しいだろう。
それでいい。元より武門の家柄である彼にとって、テルムス最期の時まで戦い続けられるならば本望だ。
使用人も誰もいない閑散とした館を出れば、彼を待っていたかのように整列する十数人の男達。全員、辺境伯に仕える武官達である。
皆一様に戦意を滾らせ、己の使命に燃えているのが相対するだけで分かる。そんな彼らを辺境伯はぐるりと見渡し、
「さて、共に地獄までついてきてくれるか?」
穏やかでありながら迫力の籠った口調で尋ねれば、野太い声が一斉に返ってきた。そんな予想通りの反応に辺境伯は苦笑を洩らし、しかしすぐに気を引き締める。
「――往くぞ」
荘厳な口調で告げ、彼らは行軍を始めた。
戦争の気配は、もうすぐそこまで迫っている。