2 勇者
ある日、正体不明の魔力が城に侵入したのを感知した城主こと魔王は物憂げな表情で玉座に座していた。
玉座の間、及び彼の居城であるこの城は度重なる勇者との戦闘によって建っているのが不思議な程にぼろぼろになっていた。床や壁のあちこちが飛び散って放置された血によって赤黒く変色し、至る所に瓦礫の山が形成されている。
とてもじゃないが生活するには無理があり、修繕しなければ崩れるレベルの倒壊具合である。だが彼は地下室を除いて一切の修繕をしなかった。
独りになってから、魔王の肉体は食事も睡眠も必要なくなっていた。空腹で餓死することも、疲労で過労死することもない。栄養を摂取せずとも、悪環境で生活しようともなんら支障がないのだ。
そんな魔王が今さら城に居住性や景観を求めるわけもなく、そのまま放置されて今に至る。
魔王が玉座の肘掛に肘をついて頬杖を突くのと、扉が耳障りな音を立てて開くのはほぼ同時だった。
来たか、と目線だけを扉に向ける。たった一人でこの城に乗りこんだ命知らずの顔を拝んでやろう、と。
油断あり、慢心あり、隙だらけの格好で待つ。だがその油断や隙を突こうが、この魔王をどうこうすることなど不可能である。それはここ百年、玉座から立ち上がることもなく勇者を下してきた事実が証明している。
最早魔王のステータスは勇者が見るだけで軽く絶望する程の域に達している。彼自身はそれを勇者の反応から推し量るしか知る手段はない。それも正確な数値は分からない。
魔王には勇者のように便利な召喚特典、いわゆるチートの類はなかった。まあ今では存在がチート染みているが。
今のところ魔王が把握している勇者の能力は三つ。ステータスオープンとアイテムボックス。そして――聖剣を扱う技能。
今さらながら、勇者はかなりのチートである。たったの一撃で千の魔物を薙ぎ倒し、何十人もの魔族を相手取ることができる力。そんな代物を与えられるのだ。一から学んで強くなった魔王とは大違いである。
ふぅ、と憂いのこもった息を吐いて侵入者が部屋に踏み込むのを待つ。だが相手は一向に姿を現さない。
何だか前にも似たようなことがあったなと、ふと思い浮かんだ記憶に蓋をして魔王は顔を顰める。
気配は間違いなくある。だが扉の陰でこちらの動向を窺っているようでなかなか入ってこようとしない。
「さっさと入ってこい」
待つのが面倒になった魔王が魔術で部屋に吹き込むような突風を発生させた。すると面白いくらいの勢いで扉が弾け飛び、玉座の間に一つの影が飛び込む、というか吹っ飛んできた。
ちょっとやりすぎたか、と粉々になった扉の残骸を一瞥して、それから小さく呻く影を見やる。
「さて……魔王城へようこそ。歓迎するぞ」
感情の欠片も感じさせない声が響く。侵入者らしき影はびくっと肩を震わせるも、打ちつけたのか肩を押さえながらゆっくりと立ち上がった。
長く艶やかな黒髪に、どこか猫を思わせるつり目がちな黒瞳。
彫は深くないが整った顔立ちで、身体つきは小柄で華奢。
それら全てが彷彿とさせるのは、彼と同じ――
「――日本人……?」
口にして、あり得ないと魔王はかぶりを振った。もし目の前の少女が日本人だとしたら必然的に少女は勇者ということになる。しかし少女から感じられる魔力は勇者とは比べ物にならない程小さく、それこそ人並みレベルでしかない。
何より、聖剣を持っていない。
だが、彼の呟いた言葉に少女は目を見開いて、
「なんでアンタがそれを……」
驚愕の表情を浮かべて言った。その反応に、こっちの台詞だ、と思わず言い返しそうになる魔王。
内心の動揺と混乱を表情に出さないよう意識しつつ、頭の冷静な部分で幾つかの可能性を列挙する。そしてその中で最も違和感のない可能性を口に出す。
「転生、か……?」
魂だけが世界を渡り、新たな生を異世界で授かる。
長い時の流れによって著しく記憶が摩耗していてうろ覚えではあったが、元の世界に確かそんな小説や物語があった気がした。
魔王と同じ世界から転生した存在。それならば少女の反応も納得できる。
彼は念のために少女に確認した。
「お前、転生者か?」
「転生? なんのこと?」
少女は全く意味が分からないと首を傾げる。考えられる中で最も可能性の高かったものが否定されて魔王は顔を顰めて、
「ならお前は何者だ?」
「何者って、決まってるでしょ」
緩慢な動きで剣を構え、少女は高らかに宣言するように言った。
「魔王を打ち倒す――勇者よ」
まるで時が止まったかのように、二人の間を沈黙が横たわる。
最初、魔王は聞き間違いかと思った。
聖剣を持たず、人並み程度の魔力しかなく、彼に構えて向ける剣も身に纏う防具も一流品とはいえない、せいぜい二流どころの粗末な代物である。
これが。こんな子供が勇者。
「ふざけるなよ……」
怒気を滲ませて魔王が呟いた。
「愚かな。勇者の名を騙るとは、命知らずを通り越してただの愚者だな」
「んなっ!? わたしは正真正銘、本物の勇者よ!」
「ほう? 聖剣も持たぬ勇者か。随分と滑稽な勇者だな」
「それは……」
聖剣について指摘されて少女は悔しげに歯噛みする。
「……拒まれたのよ」
「…………は?」
「……っ。だから、拒まれたのよ! 聖剣に! 悪い!?」
顔を真っ赤にして怒鳴り散らす少女の剣幕に魔王は驚愕を禁じ得なかった。正確には聖剣が拒んだことに驚いていた。
「聖剣に拒まれた? それは事実か?」
到底信じられない荒唐無稽な話に魔王は疑惑の目を向ける。だが少女は彼の視線に気づくことなく、吐き捨てるように言った。
「事実よ。聖剣に触れようとしたら弾かれたんだから。……ホント、なんなのよ……」
当時のことを思い浮かべているのか、少女は遠い目で虚空を見つめる。その様子からして嘘をついているわけではないようだ。
どういうことだ、と魔王は顔を顰める。
今までの勇者は程度の差はあれども全員が全員、聖剣を扱うことができていた。莫大な魔力をその身に宿し、ステータスオープンやアイテムボックスといったチートも持ち合わせていた。
それに比べて目の前の少女は冗談でも勇者とは言えない。魔力もそうだが、纏う気配も何もかもがお粗末に過ぎる。
ふと、魔王の脳裏に別の可能性が浮かび上がった。
――召喚の失敗。
召喚の際に何らかの不備が起きて能力が与えられなかった。故に聖剣を持てず、魔力も人並み程度しかない。
可能性としては十二分にあり得る。
魔王は改めて少女に確認する。
「ステータスオープンとアイテムボックス。お前はこの二つを使えるか?」
「さっきからなに? 知らないわよ、そんなの」
少女は魔王の質問の意図が掴めず、怪訝な表情を浮かべる。対して魔王は少女の反応から己の仮説が事実であると確信し、同時に思考が急速に冷めていくのを自覚していた。
この少女は何も知らない、知らされていないのか。自身に本来有るべき力が欠如していることを。自身が勇者として見限られていることを。
それなのにこの少女は健気にここまで己が身一つでやってきた。
周囲から何と囃されたのか、どんな思いで以ってここまで来たのか知らないが。
なんと憐れで滑稽で――羨ましい。
「くくっ、くはははっ!」
「な、なによ。なにがおかしいのよ!?」
突然の魔王の哄笑に少女が身構える。
「いや、運の良い奴だと思ってな」
「運が良い? それはあたしをバカにしてるのかしら?」
少女が額に薄らと青筋を浮べて訊く。しかし魔王には少女を馬鹿にする心積もりなど欠片もない。
「馬鹿になどしてないさ。ただ、無知なのは幸せだなと思っただけだ」
「バカにしてんじゃない!」
「言葉の綾だ」
憤慨する少女を軽くあしらい、魔王は玉座に身を深く沈める。
「そろそろ茶番は終いにしよう」
魔王がそう言うと、少女は真剣な面持ちで剣を構え直す。
「たとえ聖剣がなくても、あたしは負けない。アンタのせいで苦しんでいる人達を助けるために、あたしはアンタを倒す!」
少女が高らかに宣言するが、魔王はそれを酷くつまらないものを見るように眺めるだけ。まるで少女の言葉を聞いていない。
魔王は、無駄に意気込んでいる少女にたった一言。
「去れ」
それだけを告げ、静かに目を閉じた。